第三百八十五話 侵食
それがあまりにも突然、あまりにも静かに始まったため、俺たちの初動は一歩遅れてしまった。
地上界における、大規模同時殺戮。
加害者は、ごく普通の人々だった。被害者は、ごく普通の人々だった。
ある日突然、何の変哲もない善良な人間が、その手にした刃で家族を滅多切りにした。
ある日突然、ごく平凡な村人の一人が、隣家に押しかけて住人を皆殺しにした上家に火を付けた。
ある日突然、穏やかな顔つきの通行人が露天商に襲い掛かり、撲殺した。
その狂気は、次々に周囲へと伝染していく。
それが創世神の仕業であることに気付いたときには、始まってからまだ一日しか経過していなかったに関わらず、既に数百人規模の殺戮が行われていた。
ギーヴレイから報告を受けたとき、俺の脳裏には生前の知識からルワンダでの虐殺が浮かんだ。だがそれとの決定的な違いは、そこに憎悪や嫉妬の感情が存在しなかったこと。
人々は、相手を救い自分を高めるという理由で、殺戮に加担した。自分たちの行為はとても崇高で素晴らしいものだと、大切な者を永劫の苦難から救い新たな世界への扉をくぐるためには仕方のない儀式なのだと、熱に冒されたように、寧ろ恩着せがましく、穏やかに微笑みながら家族や隣人をその手にかけた。
「おそらく、集団暗示のようなものでしょう」
ギーヴレイの見立てに、俺も賛成だった。
廉族の信仰心は、天使族ほどには常軌を逸していない。いくら命じられたからと言って、それだけで親しい者の命を奪うようなことは、普通は考えられない。
夢の中に忍び込み、無防備な精神に直接語りかける。そうすることにより、それ以外に方法はないと、それが唯一の道なのだと、人々の心の底に深く刻み付けたのだろう。
地上界各地で虐殺が行われているという一報を聞き、俺は即座に対応と収束を臣下に命じた。ルーディア聖教会も頭を抱えているだろうが、混乱の渦中にある教会ではこの事態を収めることは出来そうにない。
現に、聖職者の中にも虐殺に関わる者が多かった。
不幸中の幸いか、聖教会の上層部…教皇や枢機卿、大司教たちは比較的まともだった。それは信仰心よりも既得権益を守りたいという欲望が勝っているからであり手放しで喜ぶことではないかもしれないけど、現状においてはその俗っぽさが救いだった……皮肉な話だが。
まぁ…腹黒中年世界代表のグリードが女神の甘言に乗せられるとか、想像出来ないけどさ。
虐殺は地上界全土で行われていたが、地域的に偏りが見られた。おそらくは、信仰心の強さによるものだろう。
創世神を崇めているとは言っても、ここまで無茶な要求に全ての信徒が応えたわけではないらしい。平均して見てみると、比較的裕福な大都市では混乱が少なかった。突然暴れ出した暴徒はいたようだが、周囲の人間や警察、番兵に取り押さえられて被害を最小限に留めた都市も少なくない。
その逆に、僻地や貧しい土地では混乱に歯止めが利かなかった。
苦しい生活の中で信仰が唯一の拠り所であり創世神の言葉をまともに受け取ってしまったということと、学問の機会がなく無知であったためにそれを疑うという選択肢を持ち得なかったことが要因と思われる。
食うや食わずの人々からすれば、新しい世界は一切の苦難から無縁でいられると説かれれば、縋りたくもなるのだろう。
だから、俺が対処を命じたのは、主にそういった地域。大都市に関しては、そこの治安維持機構に頑張ってもらうことにする。
具体的には、兵を差し向けた。魔族の軍勢が武装付きで押し寄せている状況で、隣近所親子兄弟で殺し合っている余裕なんてなかろう。
さらにそういった人々は武力とは縁遠い非戦闘員なので、制圧はあっけなく終わった。
暗示が…思い込みが深く、自分のしたことに一片の罪も感じていない者は、可哀想だとは思うが排除させてもらった。
間一髪で命拾いした幼い少女が、自分を殺そうとした父親に必死でしがみつき助命を嘆願する姿には、憐憫を禁じ得なかった。
だが、当の父親の眼差しが完全に正気そのもので、正気のまま娘のために娘を殺そうという意志を捨てていない以上、娘の願いを叶えるわけにはいかなかった。
そういう家族友人が、少なくなかった。
自分を殺そうとした相手を庇おうとする彼らこそ清らかな魂の持ち主なのではないか、と思う。が、ここでその願いを聞いてしまうと、混乱は収まらない。
暗示がきっかけになったとは言え、強固な信仰心に支えられた意志を外部から変化させることは容易くない。そして、俺の軍勢もいつまでも一か所に留まることも出来ない。
時間をかければ他のもっといい方法もあっただろうが、俺はそれを模索することを放棄した。
そんなことに心を煩わされていたら、創世神との対決なんて出来そうになかった。
「…よろしいのですか、陛下?」
俺は平然としているつもりだったのだが、ギーヴレイには何か感じるところがあったのだろうか。気遣わしげに、尋ねてくる。
「ギーヴレイよ、我は魔王だ」
「左様にございます」
分かり切った宣言に、ギーヴレイは首を垂れる。
「我は、我の望みのために事を成す。神託の勇者を取り戻し、この世界を存続させることが我が望み。人々の救済など、興味もなければ柄でもない」
「……左様に、ございますね…」
彼の口調が、少しだけ歯切れ悪くなったのは無視する。だが、それ以上彼が追及してくることはなかった。
完全にとは言えないが、ある程度混乱が収まるのに一週間ほどかかってしまった。それでも一週間で世界規模の混乱が収束したのは、ギーヴレイの“権能”「統制」によるところが大きかった。
本来なら、俺がいなくても魔界の秩序を守れるようにと考えて与えた力だったが、彼もまさか地上界の秩序維持のために行使するとは思わなかったことだろう。
経過報告を受けた後、俺は玉座の間から執務室へと移動した。ちょうどその時、部屋に飛び込んできたのは…そのまま俺に抱き付いて来たのは、愛すべき俺の妹、ヒルダ。
「…………おにいちゃん、アルシーは……?」
俺を見上げるヒルダの表情は、心細そうだった。俺はそんなヒルダを力づけるように頭を撫でてやる。
「心配するな、あいつならきっと大丈夫」
言いながら、俺とて確信があるわけではない。今は大丈夫でも、いずれ彼女の自我が創世神に食いつぶされてしまう可能性だってある。…と言うか、グズグズしていたらそうなってしまう。
それでも、未だに表に出てこない創世神のことを考えると、アルセリアの粘りはマジもんで驚異的だった。
「…さ、ヒルダ。リュートさんのお仕事の邪魔をしてはいけませんよ?」
遅れて部屋に入って来たビビが、優しくヒルダを俺から引き剥がそうとする。
だが、
「……やだ。おにいちゃんのとこがいい」
ヒルダはさらに強く俺にしがみついた。
困ったような顔のビビと呆れたような顔のキアが、同時に溜息をついた。
「……ヒルダ、もうこうなっては私たちに出来ることはないんですよ?いい子だから、部屋で大人しくしてましょう」
「そうだよヒルダ。魔王城に私たちがいること自体、それだけで結構ギルに負担かけてるんだからね」
口々に説得しようとする二人にブンブンと首を振って、ヒルダは俺の胸に顔を埋めた。
「……やだもん。ここにいるもん」
………うん、やっぱ安定の愛らしさだ。
報告で送られてくる凄惨な光景に荒みかけていた心が、温かくほぐれていくのが分かった。
「別にいいよ。そんな邪魔ってわけじゃない。それにお前らだって、俺が無理矢理魔界に連れて来たんだから、そんな遠慮するなよな」
天界から戻ってすぐ、俺はビビとヒルダ、キアを魔界へと…自分の居城へと連れて来た。臣下は驚いていたが、構わなかった。
確かに地上界の俺たちの家は、魔王の加護が目一杯働いた、地上界で最も安全な場所。
だけど、その程度では安心出来ない状況が、世界に迫っていた。
彼女らのことを案じながら、創世神との対決を考えるなんて無理だ。
だから、創世神から一番遠くて魔王に一番近い場所で、保護することに決めたのだ。
尤も、他の連中の好奇や疑念の眼差しは、彼女らには居心地の悪いことだろう。
それでも、三人が傍にいてくれれば、どんな状況になっても俺は道を誤ることはないだろうと、そんな奇妙な安心感を抱いてもいた。
俺は確かに彼女らを守っているが、彼女らもまた、俺を救ってくれているのだ。
「……よし、今日の夕飯は、久々に俺がつくってやろう!何が食べたい?」
「ほんと?ほんとにほんと?」
ヒルダが、パッと顔を上げて俺を見た。久々に見る、明るい表情。最近は忙しくて、食事はおろかほとんど彼女らに関わっている暇もなかった。
けど、たまにはいいだろう。
「ああ。何がいい?」
「んとね、それじゃね、ボクあれがいい!あのスープ食べたい!」
「……あのスープ?」
どのスープだ?スープ系はけっこう色々作ってきてる。
「あれ!一番最初におにいちゃんが作ってくれたやつ!」
「………ああ、にんたまポタージュか」
ヒルダの奴、人参嫌いなくせにあれだけは平気で食べるんだよな。
「あら懐かしい、いいですね。私も久々にいただきたいです」
ビビも賛成してくれた。じゃあおかずは、鶏肉のトマトソース煮にしようか。
俺たちが出逢ったときの、レシピのままで。




