第三百八十一話 エルネスト=マウレ
エルネスト=マウレは、魔界の中でも特別な位置にいる男である。
目を引くのは、その出自。
かつて長きにわたり西方諸国連合の盟主を務めていた指折りの名家、マウレ一族の直系でありながら、魔族と廉族の混血。
今でこそ魔界にすっかり馴染んでいるが、地上界で生まれ育った彼はそれまで魔界を見たことさえなかった。
そして、世界にたった三人しか存在しない、魔王の眷属の一人。兄と共に、本来であれば六武王にしか許されていない“権能”を与えられ、創世神の構築した理の上にありながら魔王に準拠して生きる者。
だが、彼を特別たらしめている真の要因は、他にある。
それは、彼の魔王へ向ける一風変わった形の忠誠。
魔王の近くにいる臣下たちは、エルネストが魔王に接するときの態度に、一度ならず度肝を抜かれている。
揶揄や冷やかし、挑発。絶対の主である魔王に対するそのような振舞いは、魔族にとっては赦されざること。普通、魔族たちはそのようなことをしようとは考えすらしないものなのだ。
罰せられる云々の話ではない。主に対し忠誠と畏怖、敬愛以外の感情を抱くことはあまりに畏れ多すぎる。
そんな彼らの目にエルネストの態度は、信じがたいものに映った。それどころか、魔王もまたエルネストの振舞いに顔を顰めつつも咎めようとはせず、好きにさせていた。
その時点で、エルネストが特別な存在である…魔王に特別扱いをされている、ということに疑念の余地はなかった。
エルネストは魔王への忠義に欠けていると陰口を言う者も少なくなかったが、実際のところ、彼の忠誠心はおそらく、魔界でも屈指のものである。
魔王と共に天地大戦を戦い抜いた六武王に匹敵するとも劣らない…その方向性は著しくことなるが…とも言える。
彼は、魔王の情の深さを知っている。その独特な価値観も、何をすれば逆鱗に触れるのかということも、何を大切に想っているのかも。
臣下たちの中で、最も魔王の素の姿に多く触れているのがエルネストだった。
それゆえに、彼の忠誠は他の者とは一線を隔する。他の魔族たちの忠誠心の中で多くを占めるのが尊敬と畏怖であるのに対し、彼の忠誠は情愛に根付くものであった。
主であると同時に、放っておけない困った家族。それがエルネストの魔王評だ。仮に魔王が魔王たる所以を失ったとしても、彼だけはその傍を離れることはないだろう。
そんなエルネストであるから、普段は忠誠心が低いように勘違いされがちでも、その行動原理は全て「魔王陛下のため」である。
今も、地天使ジオラディアと武王アスターシャが対峙する後方で必死に活路を見い出そうとしているのも、偏にそのためだ。
状況は、最悪だった。
いくらアスターシャが魔界随一の攻撃力を誇っていると言っても、当たらなければ意味がない。そして敵の攻撃ばかりが当たり続けるのであれば、こちらの敗北は不可避。
今はアスターシャが前衛を担っているが、仮に彼女が斃れれば自分とシグルキアスに打つ手はなかった。
考えろ、自分には何が出来る?
エルネストは自問する。
根性論や精神論とは無縁のエルネストは、常に自分に出来ることは何かを考える。逆に、自分に出来ることしか考えない。
他者をアテにすることがないのは、他者に頼ることが出来なかった幼少期の経験のせいか。
彼の力では、傷を元通りにすることしか出来ない。
それこそ、外傷であれば「なかったもの」のように綺麗さっぱり消すことが出来るが、失った血液を元に戻したりアスターシャの体内の聖因子を取り除いたりするほどの力は持たない。
(いや…待てよ、元通り………元に…戻す…………?)
一つの突拍子もない考えが、エルネストの脳裏に閃いた。
彼の持つ治癒能力は、所謂「回復」とは性質が異なる。言うなればそれは、「復元」。対象を、あるべき姿へ導く能力。
だからこそ、通常の回復術式では不可能なほど深い傷を、不可能な速度で完全に癒すことが出来る。
だが、損傷を元に戻す、というのが彼の限界だ。失ったものを取り戻すことは出来ないし、入り込んでしまった異物を排除することも出来ない。
彼の、限界。
そのとき彼の頭に浮かんでいたのは、もしかしたら自分に甘い魔王でさえも決して赦しはしないような大罪になるかもしれないことだった。
それが上手くいったとしても、魔王の怒りに触れて自分は消されてしまうかもしれない。
だが、躊躇は一瞬だった。
再びアスターシャが、光刃を受けて倒れる。幾度かの攻防で、ジオラディアの権能が働いているに関わらず致命傷は避けられるようになってきたあたり、彼女の戦闘センスは規格外である。
だが、それだけでは徒に時間が過ぎるだけで、何の解決にもならない。
アスターシャに駆け寄り傷を癒したエルネストは、その耳元に口を近付けた。
「閣下、まだ余力はございますか?」
「……?余力…というほどの余裕はないが、まだ我が剣は折れてはいない」
アスターシャの声にまだ力が残されていることを確認し、エルネストはさらに声を潜めて。
「お願いがあるのですが……次の攻撃、その余力を全てぶつけて下さいますか?」
「何を言って…………いや、いいだろう。何か考えがあるのだな?」
躱されると分かっている攻撃に残る力の全てを振り絞るという愚行を提案したエルネストに一瞬だけ怪訝そうな顔をして、それからすぐにアスターシャはその提案を受けた。
どのみちこのままでは埒が明かないというのと、エルネストの表情に何か確信めいたものを感じたからだ。
何をしても無駄なのであれば、一か八かに賭けてみるのも面白い。
この期に及んでアスターシャは、そうやって楽しむことを忘れてはいなかった。
「何をコソコソと……無駄なことですよ、貴方がたに勝機はありません。せめて最期は、潔く滅びを受け容れるといいでしょう」
ジオラディアは勝利を確信していたが、慢心することも油断することもなかった。彼にとって戦いは、創世神の意思を実現するための手段に過ぎず、それゆえに勝利は当然のものである。ただ淡々と書類事務を片付けるが如く、目の前の案件を処理することに専念しているだけなのだ。
「悪いが、我ら魔族に「潔く滅びを待つ」などという腑抜けた考えを是とする者はいない。生きている限りは全力で足搔く。それこそが魔族の矜持よ」
嘲るようなジオラディアに腹を立てることもなく、アスターシャは意識を研ぎ澄ませていく。
エルネストに言われたとおり、全てを次撃にぶつけるために。
今までの戦いで拡散した精神を一点に集中させる。周囲が意識からも視界からも消え失せ、今の彼女には倒すべき相手しか見えていない。
逆に言えば、それ以外に対しては完全に無防備になっている。普段ならば有り得ない程の集中。不意打ちの怖れもあることから、彼女がここまで一つの対象に意識の全てを集めることはないのだが、今回だけは別だ。
目の前の敵を倒すことだけを考える。それ以外のことは、全て捨てる。
それまでとは比較にならない鮮烈な魔力の高まりを、ジオラディアも感じていた。だが、彼のすることは変わらない。変える必要はない。
どれだけ鋭い一撃であったとしても、彼女の攻撃は決して当たることはないと分かっているからだ。
アスターシャの力では、自分の権能を…攻撃を「ずらされる」ことを拒むことは出来ないのだ、と。
「……最後の悪あがき…というものですか?いいでしょう、全てを注いだ貴女の決死の一撃を、無意味な徒労へと変えて差し上げます」
「参る!」
ジオラディアが言い終えた瞬間、アスターシャが短く宣言し、鋭い呼気と共に地を蹴った。
エルネストにも、シグルキアスにも、眼で追うことすら出来ない。
雷の如き鋭さと苛烈さで一条の軌跡を残すアスターシャ。彼女の魔剣…霊滅紅が閃き。
次の瞬間。
ゴトッと何かが落ちる音がした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「………………え?」
思わず、呆けた声を出すアスターシャ。自分でしたことなのに、我が目が信じられないでいる。
彼女は、自分の剣と転がったジオラディアの首を、交互に見比べるばかりだった。
「当たった……のか?」
ジオラディアは、アスターシャを蔑んだままの表情でこと切れていた。驚愕も恐怖も疑問も、そこに見ることは出来ない。
彼は、自分が死んだことすら理解することなく、星へ還った。
「今…何が起こったのですか?どうしていきなりアスターシャ殿の攻撃が当たって……??」
シグルキアスも、何が起こったのか全く分かっていない。攻撃の鋭さを除けば、アスターシャとジオラディアの間には特筆すべき変化などなかったのだ。そして、ジオラディアの権能の前には、攻撃の鋭さや重さなど、何の意味もない。
「エルネスト………貴殿の仕業か?」
アスターシャに見つめられ、エルネストは気まずそうに頭を掻いた。気まずい、で片付けられるあたりエルネストの図太さは相当だ。
或いは、やけくそ気味の覚悟のせいかもしれない。
「ええ、少々、閣下に私の能力を使わせていただきました」
「……能力?権能ではなく…?」
アスターシャは首を傾げた。
エルネストの能力と言えば、瘴気と治癒だけである。瘴気をアスターシャに使う…というのは有り得ないことなので、
「治癒能力…ということか?しかし、傷を癒すと言っても……」
「いえ、癒したのは傷ではありません」
エルネストは、迷いを振り切って白状することにした。ここで誤魔化したとしても、いずれは魔王の耳に入ることだろう。一瞬でも主を謀って永らえるより、それこそ潔く打ち明けて沙汰を待つべきだと思ったのだ。
「ええと、私の治癒というのは、要するに「復元」……元に戻す能力なんですけど」
「ああ、それは陛下よりお聞きしている」
「それで、そこの天使によって「ずらされた」閣下の位置を、元に戻しただけなんですよ。単純なことでしょう?」
「……………!?」
単純なこと、とエルネストは言う。確かに、単純なことではある。
A地点からB地点へと移動させられた対象を、再びA地点へと戻す…というだけの話。
だが、天使族の行使する“権能”によって生じた結果を元に戻す…なかったことにする…など、エルネストの能力の範疇を遥かに超えている。
それは、変えられてしまった理を、元の形へ復元するということ。それこそ、「復元」そのものが“権能”でもない限り、不可能な業。
「どういうことだ…貴殿の力は損傷を復元することしか出来なかったはず……」
「ええ、ですから、その能力を変化させました………陛下より賜りし、「変化・変質」の権能によって」
エルネストの答えに、アスターシャは絶句した。
エルネストの権能のことは知っている。魔王が、社会水準を向上させる目的で彼に与えたものだ。農作物や家畜を改良するためのその権能は、「分析・解析・改良」だと聞かされていた。
その本質が「変化・変質」であるのだと今この瞬間知ったわけだが、それが事実であれば看過できない事態である。
エルネスト=マウレは、自らの“権能”を自分自身の能力に用い、その力を大幅に変化・強化させた。
それは最早、進化と呼ぶべき現象。
自分の能力に自分の権能を働かせる、などという使い方は、当の魔王でも想像していなかったに違いない。
何故ならばそれは、神の領域。魔族であるエルネストに、赦される所業ではないのだから。
「ええと……アスターシャ殿?何か、問題でも……?」
一人、事の重大さに気付いていなさそうなシグルキアスだが、アスターシャは思いっきりスルーした。そんなことよりも、この事態をどう魔王に説明すればいいのか。
地天使は斃した。そしてこの勝利は間違いなくエルネストの功績である。
だが、それが赦されざる大罪の上に成り立つものであったとしたら?
アスターシャの中に、魔王に真実を秘するという選択肢はない。だが、話せばエルネストがどのような罰を受けるか分からない。
少なくとも、神の領域に一歩踏み込んでしまった彼が、何の咎めもなく赦されるとは到底思えなかった。
あとは、出来るだけ魔王の怒りを減らすような伝え方を考えるしかない。脳筋型の彼女には随分な重荷だが、エルネストのおかげで助かったのも事実であり、ここで見棄てることは出来ない。
まずは、彼の功績を一番先に強調することにしよう。
そう決めた矢先に。
「……終わったか、ご苦労だったな」
人の気も知らずに、呑気な様子で敬愛すべき主君が戻って来た。
……何故か、幼女が好みそうな人形を小脇に抱えて。
知らず知らず、アスターシャの口から特大の溜息が漏れ出たのだった。




