第三百七十一話 適切な距離
「主上、魔界に妙な動きが見られるようです」
一片の曇りもなく磨き上げられた荘厳な神殿にて。清楚で洗練された私室の長椅子に横になる女神の姿は、優雅にして高潔。リラックスしているはずなのに、傍らに控える臣下たちは一瞬たりとも気を抜くことが出来ない。
そんな創世神エルリアーシェに恭しく話しかけたのは、地天使ジオラディア。現在における、天界のトップ…統括天使である。
「あらあら、確か魔界とは、不可侵条約を結んだのではありませんでしたっけ?」
それほど気にしていなさそうな口調の主に、当事者であったジオラディアも平静なままだ。創世神が復活した今となっては、最早魔王を怖れる必要も、魔界との条約を遵守する必要もありはしない。
彼ら天使は…否、その中でも選ばれた特別な天使たちは、試練という名の洗礼を受け、来たるべき新たな世界の礎となるのだ。
そこにあるのは、栄誉と歓喜、満ち足りた幸福。
それを妨げる者は全て敵だ。魔王も、魔族も……そして同族であっても。
「奴らには誓いの重要性も理解出来ないのでしょう。欲にまみれ保身に走る愚かで醜悪な者共です。所詮は、魔王などに率いられる種族ですから」
「まぁ、ジオったら手厳しいこと」
口の悪い我が子に苦笑するように、エルリアーシェは顔を綻ばせた。しかし、その表情にジオラディアが恍惚を覚えるよりも早く、彼女の微笑みはその質を変える。
「…だけど」
それは、全てを凍てつかせるような、冷徹な微笑。
「ヴェル…魔王を悪し様に言うことが許されるのは、私だけですよ…?」
「も……申し訳ございません!!」
ジオラディアは己の不敬と不遜に顔を真っ青にして、その場に跪いた。
口調は柔らかいものの、自分の行いは神の怒りを買うものだと瞬時に悟ったのだ。
謝られたエルリアーシェは、表情を変えた。何でもなかったかのように、再び元の優しげな笑顔に戻ると、これまた何でもなかったかのように、
「そんなに畏まらなくてもいいんですよ?貴方たちは私の可愛い臣下なのだし、魔王が私の意に反して愚かな考えを持っていることは確かなんですから」
まるでジオラディアをフォローするかのような口振りだが、それを鵜呑みにすることは決して許されないとジオラディアは理解した。
口ではどう言おうとも、創世神が魔王を特別視していることは間違いない。
おそらく、自分以外の者が魔王を貶したり害したりしようとすれば、それが例え忠実な臣下であろうとも創世神は容赦しないだろう。
創世神と魔王との間には、両者にしか分かり合えない、複雑な感情がある。
そのことを、肝に銘じたジオラディアであった。
「…まぁ、それはいいんですけどね。魔族たちのことは、とりあえず放っておきましょうか」
「………よろしいのですか?」
「ええ。私もまだ本調子じゃありませんし、今ヴェルと遣り合うのはちょっと遠慮したいんですよね。それに……昇華の試練に、役立ってくれるかもしれないじゃないですか」
昇華の試練。魂の選別。新世界へと移行する魂を選ぶための、試金石。ジオラディアは、即座に創世神の言わんとすることを理解した。
「御意に御座います。では、我らは引き続き…」
「ええ、汚れの炙り出しをお願いします。徹底的に、ですよ?」
「承知致しました」
深々と一礼し、ジオラディアは退出する。
部屋を出た途端、それまで緊張感で抑えられていた汗がドッと流れ出した。
穢れを知らず、慈悲深く、清廉な主上、創世神。自分たちの生みの親であり身命を賭して仕えるべき主。その役に立てるのであれば、命だろうが魂だろうが、無上の歓喜と共に手放してみせる。
そう強く思う一方で、自分など近付くことさえおこがましいと、決して縮まることのない距離も感じていた。
そしてそれが、神と自分の正しい在り方なのだと、ジオラディアは信じている。
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「……陛下」
「分かっている」
アスターシャの呼びかけに、俺は短く答えた。
近くで、霊力の乱れを感じたのだ。
近く、と言っても目視出来るほどの距離ではない。距離感で言えば、東京~名古屋間くらい。新幹線なら一時間半から二時間ってところだが、俺たちの騎乗するグリフォンは当然ながらそこまで速くない。
ただ、縮域魔法を使えばそれに近い時間で到着できるような距離だ。
因みに、霊力の乱れと言ってもピンキリで、小さなものなら世界中あちらこちらで見られる現象である。何せ、魔獣の小競り合いでも起こるんだから。
ただ、俺たちが感じたのは散発的ながらもかなり大きな反応だった。間違いなく、相当なレベルの戦闘が起こっている。
「どういたしますか?」
「我が行く。お前はここで警戒を続けよ」
「御意」
アスターシャと、軍団の大部分は陣地に置いていく。起こっているであろう戦闘は、レベルこそ高いが規模的にはそれほどではない。大所帯で行くよりも小回りの利く編成の方がいい。
軍団から、推測される戦闘規模に充分な、大隊相当の人数を選抜する。それとエルネストを伴って、俺は陣を出た。
…なお、これがギーヴレイだったら「御身自ら赴くなど…!」と難色を示すし、ルクレティウスも総大将が出張ることにあまり良い顔はしないだろう。ディアルディオは面白がってついてきたがる。
アスターシャは基本、俺の言うことには余程のことがない限り反対することはない。心配性なギーヴレイと違って、全面的かつ無条件に信頼してくれているのだ。
……もしかしたら、どうせ言っても無駄だし、って諦められてるのかもしれないけど。
「ご武運を」
「すぐに戻る」
俺はアスターシャに軽く口づけして加護をいっそう強化すると、グリフォンにまたがり空へ。
すぐ後ろをついてくるエルネストが、何か言いたげにニヤニヤしているのが背中越しにも分かった。
「……なんだよ」
「いいえ?ただ、彼女たちがここにいなくて良かったですね、陛下」
「…………妙なこと吹き込んだら、只じゃおかないからな」
エルネストの奴、やっぱり兄貴とは似ても似つかない。
「ご命令とあらば、地上界に戻った暁には詳細をつぶさに…」
「だからするなっつってんだろ!」
なんでそう解釈するんだよ、嫌がらせか?嫌がらせだな!
俺の抗議に、エルネストは本気で意外そうな顔をする。ほんとむかつく。
「え……しかし陛下、ここは所謂一つの、「押すなよ、絶対に押すなよ」ってお約束ではないのですか!?」
…………エルネスト、何処でそのネタ見たんだよ。お前ほんとは日本人じゃねーだろうな……
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俺たちが、目星をつけた地点に到着したときには、戦闘は行われていなかった。
元より散発的な反応だったし、終わったというよりは一時休止といったところだろう。
何故ならそこには、緊迫感の残滓が色濃かったから。
そこは、森林地帯だった。針葉樹が密集していて、視界は良くない。上空からでは、見落としがあるかもしれない。
俺たちは地表に降り立ち、そこからは森の中を進む。
そして、僅かに進んだところで足を止めた。止めたと言うか、止めさせられた。
何故ならば、氷刃を伴う暴風が突如、俺たちを中心に吹き荒れたからである。
一瞬にして一帯は、木々が薙ぎ倒され地表は凍り付き、極北の平原へと姿を変えた。
……勿論、自然現象などではありえない。
明らかな害意が、そこに漂っていた。




