第三百六十三話 決別
……うーん………なんだっけなー。やっぱ、気になるなー。
気にするのはやめようと思ったばかりなのに、モヤモヤが頭から離れてくれない。ひどくスッキリしない。これはいよいよ、すっごく重要なことをド忘れしているのではあるまいか。
しかも、時間の感覚が変だ。俺は早朝の散歩をしていたはずなのに、そしてまだ太陽が昇って間もない時間だったはずなのに。
気付けば、商店街の正午の時報メロディが聞こえてきた。
……おかしいよな。朝の散歩でいつものコースをいつもと同じペースで歩いていたのに、いつの間にか半日も過ぎてるなんて。
知らないうちに迷子になってたとか?
……いやいやいやいや、流石にそれはないよな。よく見知った地元で道に迷うってのもあり得ないし、迷ったのに気付かないなんてますますあるはずない。
なんとなくすぐに家に帰る気分になれなくて、俺は同じ道をぐるぐると回る。けど、やっぱり道にはいつもと違ったところはない。
いつもの道。いつもの風景。何の変哲もない日常の一ページ。
いつの間にか、花が手向けられている例の交差点にまで戻ってきていた。
ふと視線を上げると、道路の向こう側に見知った顔を見付けた。
……あ、竹内と三村とマサやんだ。駅の方向から歩いてきてたから、ゲーセン帰りとかかな。真昼間っからゲーム三昧とはけしからんが、まあ健全な青少年の休日の過ごし方としては概ね正しい。
「おう、お前らゲーセン行くならなんで声かけてくれなかったんだよ」
道路の向こう側に声をかけたのだが、行き交う車の音のせいか彼らの耳には届かなかったみたいだ。そのまま、俺には気付かず歩いて行く。
信号が青になったから、追いかけようと思った。三人は俺がクラスで一番仲良くしている連中だし、その行動パターンは知っている。
あいつらがゲーセンだけで終わるはずはなくて、これからバーガー屋で腹を満たした後、ショッピングモールに併設のペットショップで熱帯魚の水槽を熱心に見て(マサやんは熱帯魚フリークである。唆されて三村までその道に足を踏み入れつつあるのだ)、それから再びゲーセンに行って夜まで遊ぶか、誰かのウチに行って夕方までダベるか。
正直俺は熱帯魚に興味はないが、小動物は嫌いじゃない。だから彼らと合流しようと思ったのに。
……どうしてか分からないけど、脚が動かなかった。
物理的に…或いは肉体的に動かないってわけじゃないはず。今まで俺の脚は元気に動いていたんだから。
だけど、どうしても動かす気分にならなかった……と言うか、動いてくれそうになかった。
俺の脳ミソが、脚を動かせという伝令を出すことを渋ってる……みたいな。
不思議で不慣れな感覚に戸惑っているうちに、三人は俺に気付かないまま遠ざかっていった。角を曲がって、完全に姿が見えなくなる。
……まぁいいや。また月曜には学校で会うんだし、遊びたければ放課後でも誘えばいい。
…………なのに。俺は何故か、ひどく貴重な機会を永遠に失ってしまったような、後悔にも似た気分を感じていた。
これまたどうしてか分からないのだけど、俺は今、淋しくて堪らない。晩秋の落ち葉と木枯らしが、その気持ちにいっそうの拍車をかける。
………………帰ろう。俺の家、家族の待つ場所に。悠香にこのバカげた気持ちを話して、笑い飛ばしてもらおう。
俺は踵を返すと、脇目も振らずに自宅への道を辿った。
玄関のドアを開けた途端、いい匂いが漂ってきた。
これは……ビーフシチュー?
キッチンを覗くと、朝と同じように悠香がエプロン姿で料理をしていた。
…けど、昼食にしては随分と手の込んだことをしてるような…………
「なぁ、悠香。それって、夕飯の仕込み…」
「たっだいまーーー!」
問いかけた俺の言葉を遮るように、やたらと明るい声が玄関から響いて来た。
………って、
「舞香サン!?なんでこんな早いうちから帰ってきてんの?」
リビングのドアから現れた母親の姿に、俺はビックリ。イベントプランナーである彼女はひどく忙しくて、連日会社に泊まり込みもしょっちゅう、帰宅出来たとしても深夜。
いくら土曜日だからって、明るいうちに帰ってくるなんて、俺が知る限り初めてじゃないか?
「お帰りなさい、お母さん」
料理の手を止めて悠香が舞香サンを出迎えた。で、舞香サンはそんな娘をギュッと抱きしめる。
……何かあったんだろうか。俺の知る母親は、こんな風に大げさな愛情表現をする人じゃない。
「ただいまー、悠香。ゴハン作ってくれてるの?ありがとうねー」
「今日も定時?嬉しいけど、お仕事大丈夫なの?」
母親に抱き付かれたままの悠香の言葉に、俺は驚く。驚いて時計を見て、さらに驚く。
時計の針は、午後六時半を指していた。
…………なんで!?さっきまで、昼だったじゃん!正午の時報を聞いてから、一時間も経ってないよ!?
あれ?あれあれ?やっぱり俺、何か変……?
「……リュートも。……ただいま」
「ん、あ、おかえり」
悠香を抱きしめたまま舞香サンが背中越しにそう言った声が、やけに優しくて面食らってしまう。
彼女、別に母親として冷たいとか愛情不足とか言うわけじゃないんだけど、忙しいせいかあまり子供たちに構ったりはしなかったのに。
……何か、心境の変化でもあったんだろうか。
夕飯は、やはりビーフシチューだった。悠香のヤツ、こんなものまで作れるようになったなんて。朝はああ言ってたけど、やっぱ気になる男子とかいるんじゃないだろーな。
手早くテーブルに料理を並べていく悠香を眺めていたら、舞香サンがリビングの隅に座り込んだ。
……………?何してるんだろう、そんなところで。
怪訝に思った俺の耳に、涼やかな金属音が届いてきた。
これは……おリン?あれ、ウチに仏壇なんてなかったよな………?
………あるじゃん、仏壇。
え、いつの間に買ったの?てか、こういうのってきっかけとかなければ普通買わないよね?
第一、熱心に手を合わせてるけど、誰に向かってるんだ?ウチはまだじーちゃんばーちゃんも健在だろ。親戚の誰かが死んだって話も聞かないし……。
桜庭家は、曹洞宗である。地味目な色合いの仏壇を覗き込むと、さっき交差点で見たのと同じ色合いの花が飾られた花立と、位牌と、位牌の横に写真立て。
写真の中で、はにかむように微笑んでいるのは…………
「今夜は、ビーフシチューですって」
舞香サンの声が、遠くに聞こえる。
「悠香ったら、アンタの味を再現しようと必死なのよ?レシピの一つでも遺していってくれれば良かったのに」
優しげで、穏やかで、寂しげな声で、舞香サンは写真に向かって語り続ける。
写真の中の……俺に向かって。
………あれ…?なんで俺、あんなところにいるんだ?
………………いや、そうじゃない。そうじゃなくて。
…なんで俺、こんなところにいるんだろう。
「ねぇ、お母さん。お父さんは今日早いの?」
「ええ、そんなこと言ってたわね」
悠香がキッチンから出て、舞香サンの傍らに寄り添った。労わり合うように、二人は肩をくっつけて俺の写真を見つめている。
「私も、征人さんも、こんなことになるまであなたたちに全然向き合えてなかったわよね、ごめんなさい」
「…気にしないで、ちゃんと分かってるから大丈夫。悠香も、お兄ちゃんも」
…………行かなくちゃ。
ここにいちゃいけない。ここは、今俺がいるべき場所じゃない。
ここはとても暖かくて心地よくて、春の陽だまりのような温もりに包まれていて、永遠に離れたくないと思えてしまうけど。
けど、俺はここにはいない。
仏壇の写真にも、桜庭家の墓にも、俺の魂は眠ってない。勿論、千の風になって大空を吹きわたっているわけでもない。
俺には、俺のいるべき場所がある。やるべきことがある。だから、行かなくちゃならない。
俺は、聞こえるはずのない二人の背中に、語りかけた。
「…ごめんな、悠香、舞香サン。俺、まだちょっとやらなくちゃいけないことがあるからさ…行ってくるよ」
二人に聞こえることはないと分かってる。俺の姿が見えないことも、俺に触れることが出来ないことも、分かってる。俺はもう、この世界では存在していないモノなのだ。
だからこれは、一種の自己満足みたいなものなんだろう。心の準備も別れの言葉もなく死んでしまった桜庭柳人が、遅ればせながら最後の願いを叶えている…的な。
「もしいつか、全部終わらせることが出来たらさ、そしたら……きっと帰ってくるから。ここに、帰ってくるから。だから……」
サヨナラ、俺の十六年間。俺の、ちっぽけでありふれた平凡な毎日。もう二度と訪れることのないささやかな未来。
いつかまた、会えるかもしれないときまで。
「……行ってきます」
それが、最愛の家族に向けての、俺なりの別れの言葉だった。
桜庭母、舞香サンはイベントプランナーですが、父の征人サンは警察官です。
忙しくてなかなか子供との時間をつくれなかったりしましたが、良い両親ですよ。




