第三百六十一話 苦労人グリード
グリード=ハイデマンは、“七翼の騎士”出身の叩き上げである。
今でこそ頭脳労働一辺倒の毎日を過ごしてはいるが、かつては異端審問官筆頭として数多くの戦場を経験し、また第一等級遊撃士の資格も有している。
年齢のこともあり、衰えは否定しきれないと自覚してはいるが、それでも往年の感覚はまだ残っている。
だが、自分の目の前に忽然と現れた人影に…それがいつからそこにいたのかすら分からなかった事実に、彼は今まで積み上げてきた自分の数十年など、他愛のないお遊戯程度に成り下がってしまうような相手が存在するのだと実感した。
実感はしたが、驚きはなかった。今まで自分が手駒として扱ってきた存在は、それどころではない化け物なのだと理解していたから。
だが、魔王は随分と自分のことを大目に見てくれていただけなのだな、と気付いたのだ。
音もなく、目の前にいるのに気配すら感じさせることもなく佇むその男に、見覚えはない。が、纏う服装には見覚えがある。それは、“暁の飛蛇”の制服だ。
グリードは、数百人いる実動部隊の人員について、その名前、外見、出身等の基本的データは全て記憶している。彼のデータベースの中に存在しないということは、その男は彼の管轄下にはない、ということ。
そして、それは則ち。
「貴殿が、ルーディア聖教会枢機卿、グリード=ハイデマンか」
感情の見えない声と表情で、その男は問う。
そこに、怖れていたほどには敵意や侮蔑が込められていないことに僅かに安堵しながら、グリードは素直に頷いた。
「左様、枢機卿筆頭、グリード=ハイデマンと申します。して、そちらは…魔王…陛下の配下の方とお見受けしますが」
因みに、普段グリードが自分のことを「筆頭」だと称することはない。そもそも枢機卿内には序列は存在しないということになっていて、筆頭云々というのは単に、最も能力に優れ発言力を持ち教皇の座に近い…という彼の状況を一言で表すための言葉に過ぎない。
が、彼は敢えて自分を枢機卿筆頭と名乗った。
地上界の責は自分が負うという覚悟を相手に示すためであり、同時に、出来る限りの権威を相手に伝えるためでもある。
男は、自分がまだ名乗っていないことに気付いたようだった。
「これは失礼した。我が名はルガイア=マウレ。魔王陛下の忠実なる下僕にして、その系譜の末端に連なる者也」
ルガイアの自己紹介は実に控えめなものであったのだが、そこに隠された事実にグリードは息を呑む。
魔族は、魔王の眷属ではない。
それはリュートに聞くまでもなく、世界の常識として知っていたことである。
世界を創ったのは創世神であり、全ての生命はその大いなる御手から生まれた。
それが、ルーディア聖教で信じられている「真実」。
則ち、魔族もまた創世神の手によって生まれた存在。
その魔族であるルガイアが自身を「魔王の系譜に連なる」と表現したということは、彼と魔王との間には通常の魔族ではありえないほどの繋がりがあるということ。
それが、魔界内での力関係のことなのか、もっと存在の根本に関わることなのかは、グリードには分からない。
だが、そんな特別な魔族が、この状況で自分の前に現れたのだ。
どうやら、時間稼ぎも出来そうにはなかった。
さてどう切り出そうか、と逡巡していたグリードだが、口火を切ったのはルガイアの方だった。
「単刀直入にお伺いする。魔王陛下に、一体何があったのかお教え願いたい」
「やはり……ご存じでしたか」
教えて欲しいと言っているので、彼らも詳細は知らないのだろう。だが、リュートの身に常ならぬ事態が起こったことは、既に掴んでいるようだ。
ならば、時間稼ぎはおろか、言い逃れも出来そうにない……否、すべきではない。
「……我らにも分からないのです。ただ、魔王…陛下は現在、原因不明の昏睡状態に陥っておられる。傍目にはただ眠っているようにしか見えないが、どのような性質の眠りなのかは判断することが出来ません」
実を言うと、先ほどからリュートのことを「魔王陛下」と呼んだり敬語を使ったりすることにとても落ち着かない気分を抱いているグリードであるのだが、ルガイアの怒りを買わないように、殊勝な廉族のフリをする。
尤も、リュートとの普段の遣り取りも彼らには既に知られているのかもしれないが。
グリードの言葉に、ルガイアの纏う空気が重圧を増した。
別に、グリードを威圧してやろうという思惑がルガイアにあったわけではない。ただ、魔王を案じる彼の内心が表出されただけであって。
しかし彼は高位魔族。かつて怒れる魔王の波動に触れたことのあるグリードでなければ、恐怖にへたり込んでしまってもおかしくないプレッシャーであった。
もし、このまま魔王の身にもしものことが起こったら…。
そう考えると、グリードの背筋を冷たい汗が幾筋も流れ落ちた。
今この場でグリードがなすべきは、魔族の怒りの矛先を地上界から逸らすことである。幸い、魔王の異変に関しては犯人の目星がついている。
「貴方がた魔族は、魔王…陛下が警戒しておられた何者かの存在を、ご存じなのでしょうか?」
「無論だ。我らは陛下の命を受け、その輩に関する情報を集めている最中だった」
魔族も知っているなら話は早い。グリードは、とりあえず地上界の安全は確保できそうだとこっそり安堵する。
「失礼を承知でお願いするのですが、そちらの、魔王…陛下の不在時における責任者の方と直接お話することは可能でしょうか」
ルガイアが魔王に近しい存在だということは分かったが、地上界に派遣されているということは、魔界の権力中枢からは遠いはず。
ならば、決定権を持つ相手と話すに限ると、グリードは魔界の最高幹部との直接対決を求めることにした。
「……貴殿の要望は伝えよう。しばし待たれよ」
ルガイアも、異論はなさそうな様子だった。頷いた後、ふっと姿が消える。
それがあまりにも一瞬で、前触れも何もなかったので、思わずグリードは自分が見ていたのは幻だったのではないか、と思ってしまったくらいだ。
ただ、ルガイアが消えた途端に軽くなった部屋の空気が、今までのことは間違いなく現実なのだと彼に伝えていた。
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……なんか、ここを散歩するのも久しぶりだな。
俺は、いつものお気に入り散歩コースをブラブラしていた。今日は土曜日だけど特に予定もないので、ひたすらのんびりしようと思ったのだ。
家の近所を流れる二級河川は、堤防があったり土手に桜が植えてあったり遊歩道があったり、ちょっとしたピクニックが出来るような芝生があったりで、散歩には打ってつけのコースである。
春は花見客で、夏にはBBQを楽しむグループで結構な賑わいを見せるが、シーズンオフの今は、朝早いということもあり、他に人影はない。
朝日を受けて煌めく川面を見ながら、ゆっくりと歩く。今だけこの場を独り占めしてるみたいで、気分が良いけれど……少し寂しい。
最近、何かと賑やかだったから……。
帰ったら何をしようかな。久々に釣り…は少し時期外れだし……親父は今日、非番だったっけ?暇そうなら近くの低山にトレッキングにでも誘ってみようかな。舞香サンはどうせ今日も忙しいんだろうし。
で、クラスの連中とゲーセンでも行くか。竹内のヤツにまだリベンジ出来てなかったしな。
……うん、久々に気楽な休日になりそうだ。こういうのも悪くない。




