第三百四十七話 忍び寄る異変
「……アルシー、まだ食べないのですか?」
「んー、もうちょっと後で。先に食べちゃってて」
ベアトリクスの声を背後で聞きながら、アルセリアが動きを止めることはない。
その様子に諦めたように溜息をつくと、ベアトリクスは再び家の中に引っ込んだ。
ここ数日、リュートが任務で出てからずっとこの調子なのだ。今日も朝から、ロクに食事も摂らず鍛錬に精を出している。
今は庭で素振りの真っ最中。使ってるのは模擬刀なので、クォルスフィアは縁側でそれを見守っていた。
室内に戻ったベアトリクスは、ダイニングテーブルで待つヒルダに首を振ってみせる。
「…アルシー、どうしちゃった?」
「彼女なりに、色々と考えることがあったみたいですよ。…さ、私たちは先に済ませてしまいましょうか」
なお、リュート不在時の食事は一応当番制ということになっているが、惨事を避けたいベアトリクスが率先してほとんど引き受けていた。
「あまり、根を詰めすぎなければいいんですけど…」
「アルシーのばあい、そうもいかない」
「……ですよねぇ」
二人で顔を見合わせて、はふぅ、と溜息。リュートが帰ってきたら注意してもらおう。そんな、お父さん的役割まで彼に押し付けようとしている二人である。
庭では、周囲のことなど目に入らないように一心不乱に剣を振るうアルセリアの姿を、クォルスフィアが複雑そうな表情で見つめていた。
彼女には、アルセリアの抱えているモヤモヤが何なのか分かっている。そして、こんな鍛錬で解消するような類のものではないということも。
それでも無我夢中で身体を動かしていれば、余計なことを考えなくても済むだろうと、口を挟まないことにしたのだ。無論、あまりに無茶が過ぎなければ…の話だが。
「……まったく、困ったもんだよねぇ……アルシーも、ギルも」
間抜けなくらいに青く高い空を仰いで、クォルスフィアは大切な相棒と愛しい相手に対し、届かない愚痴をこぼすのだった。
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その頃、ルーディア聖教会総本山ルシア・デ・アルシェでは、一連の出来事のせいですっかり実質的な指導者になってしまった枢機卿グリード=ハイデマンが、膨れ上がった仕事に忙殺されていた。
もともと、教皇に次ぐ権力者と見なされていた彼ではあるが、分を弁えることくらい知っている。だからあくまでも最高権者は教皇であり、自分はその下で実務を取り仕切る…くらいが丁度いいと思っていたのだが。
「…グリード、結局魔王は、何を求めているんだ?」
最近、教皇ファウスティノが何故か彼の部屋に入り浸っているのだ。正確に言うと、グリードにべったりなのである。
別に蜜月なわけではない。彼らは幼い頃からの親友関係にはあるが、友愛は友愛で割り切っている。そうではなくて、教皇のグリードへの依存度が、やたらと高まってしまったのだ。
天使と対等に交渉し、自分たちの要求を呑ませるのみならず、魔王ですら顎で使う。
彼が契約した“七翼の騎士”の新人、勇者アルセリアの随行者が実は魔王であったという事実は既に教皇も知るところだが、グリードはかなり早い段階でそのことに気付いていたというから驚きだ。
知っていてなお、魔王を手駒として利用しようとする人間など、おそらく歴史上どこを探しても他には見当たらないだろう。
信仰と地上界を守るためならば、世界をも滅ぼしうる恐ろしい存在を懐に入れてしまおうというグリードの胆力は、とても常人のものではない。
であるからして、教皇はすっかりグリードをアテにしてしまっている次第である。
「……ファウスティノ、いい加減自分の執務室に戻ったらどうかね」
グリードはやや呆れ顔。教皇がこの調子なので、他の枢機卿や大司教たちも「とりあえずグリード猊下に任せておけば大丈夫」的な思考に陥っていたりする。
「…いや、まあ、そのうち………」
「そのうち…かね。………まぁ、執務さえしっかりしてくれれば構わないけどね」
すっかり気弱になった幼馴染に溜息をつきつつ、突き放そうとはしないあたり、グリードにとっても教皇は特別な存在だ。
「……で、魔王が何を望んでいるか…なんて私に推し量れるはずないだろう?相手は魔王だよ」
「しかし……君は彼と懇意にして」
「リュート=サクラーヴァについてなら分かる。けど、魔王としての彼をそこまで深く知る訳じゃないしねぇ…」
そう念押ししてから、グリードは自分の考えを述べる。
「リュートが望んでいるものだったら想像はつく。別に大層なものじゃなくて、「普通」が欲しいだけなんだろう」
「…普通……?」
言われても、ファウスティノはよく分かっていない。そもそも、ルーディア聖教のトップにいる時点で、彼らも「普通」とは程遠い。
「そう、「普通」。彼は、この世界の日常に溶け込みたがっているのさ。特別な存在、異質な存在ではなく…………そうだねぇ、仲間外れは嫌なのだろうね」
「…分かる…ような分からないような………」
首を傾げるファウスティノには見えない角度で、グリードは先ほどもたらされた報告書に目を通している。それは、司教以上の役職を持つ聖職者の身辺調査書。と言っても、出自や経歴よりも寧ろ、最近の動向について詳細に記されているものである。
リュートの懸念。魔王である彼が警戒している「何者か」の存在。その息のかかった者が聖教会内にいた場合、早急に手を打つ必要がある。
さりとてその輩も、何の権限も影響力も持たない一般聖職者を手駒にしても役に立たないと理解しているはずだ。聖教会は厳格な身分制。どれだけ策を弄したとして、下級神官では得られる情報にも出来る裏工作にも限界がある。
間者がいるとしたら、一定以上の階級の者。大司教と枢機卿、そして司教クラスだが爵位を持つ或いは聖別を受けている出世街道まっしぐらの者たちが怪しい。
そう思って、該当者リストを作成させ片っ端から読み込んでいたのだが……
「……さて、これはどうしたものか……」
「な、何かあったのかグリード?」
「…いや、まあ………うん、そうだね。少しばかり、ゆゆしき問題に気付いてしまったようだよ」
本題とは直接関係ないと思われるところで、厄介な案件に遭遇してしまったのである。
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天空竜アリアは、自分の体躯と同じ色をした空を悠々と舞っていた。天界から地上界へ戻ってきてから、ほとんどマリス神殿には戻っていない。
気の遠くなるような長い時間をあの空間に閉じこもって暮らし、資格ある者…神託の勇者に聖骸を託した彼女に残された使命は、創世神との約束。世界の行く末を見守ること。
地下深くに引き籠っていては、それも叶わない。
……というのは、半分は建前で。
本音は、ようやく手に入れた自由を手放したくない、というもの。
しかし今、空を翔ける彼女は傍目には優雅で心地よさそうに見えるが、その表情は曇りがちだった。
「………何故だ……………御神の…あの御方の気配が遠い………」
その呟きは寂しげで、ひどく心細そうだ。母親に置いていかれた幼子のような。
世界中に散った聖骸のせいか、或いは創世神が遺した幾つもの託宣のせいか、存在そのものが消滅してからも、世界には創世神の気配がそこかしこに感じられた。
それが、急速に薄れていきつつあるのだ。
もしかしたら、自然の現象なのかもしれない。その可能性に、アリアとて思い至らないわけではなかった。
創世神が消滅して二千年余。そのぬくもりがいつまでも残っていると考える方が不自然である、と。
それでも、彼女は創世神を覚えている。
世界中の生命たちが、ほとんど御伽噺のようなものだと思っている神も、彼女にとっては直接言葉を交わし、微笑みを向けてくれた尊い相手。
そんなアリアにとって、世界が創世神を忘れつつあるかのようにその気配が失われていくことは、親の死にも等しく悲しいことなのだった。




