第三百四十六話 魔王の甘言
「魔界は嫌いか?」
「当たり前じゃないか。あたしは天使なんだ、魔族なんかと慣れ合えるはずがない」
予想どおりの答え。おそらく、どの天使に尋ねても同じ答えが返ってくるだろう。そしてその逆もまた然り。
しかし、それは本当に思考した上で、理解した上での返答なのだろうか。ただ単純に、自分が天使族だから、魔族だから……というそれだけの理由しかないのであれば、そんなものは簡単に揺らいでしまうものだ。
何故ならば、自分の立ち位置を基準にしているから。立ち位置が変わってしまえば、価値観も共に変化してしまう。
天使族だからと魔族を拒む彼女は、天使族でなくなってしまった今、その理由を失いつつある。
だから俺は、
「……お前は、まだ自分が天使族だと思っているのか?」
残酷だとは思うが、そう尋ねさせてもらった。
そしてその問に彼女は口ごもり、彼女自身すらそうだと言い切ることが出来なくなっていると分かる。
彼女の翼。見事なまでの黒に染まったそれに目を遣ると、彼女は顔を伏せた。まるで酷く恥じているように……否、本当に恥じているのだろう。
天使族にとって翼は、自分の存在の象徴でもある。それが魔属に堕ちてしまったことに彼女が抱く羞恥と絶望は、魔王には想像も出来ないものである。
椅子から立ち上がると俺は、俯いて黙り込む彼女の傍へと近付いた。腰を屈めて、彼女の耳元で囁く。
「もうお前には分かってるはずだ……今の自分が何者なのか」
「…………………あたしは……」
「お前は俺の眷属だ」
甘い声で囁くと、彼女の肩に力が入ったのが分かった。既に魔王の神力に染められている彼女が俺を拒むことは難しい。
我ながら下衆い遣り方だと分かってるけど、まあ、魔王なんだしこんなもんだよな。
「これも分かっているはずだが、俺は魔王だ。この魔界で、絶対の権力を握る存在。だが、本当の意味で魔王の眷属と呼べる者は、たった三人だ。お前は、選ばれたその三人のうちの一人。だから、お前が心配するようなことは何もない」
「………どういう…こと……?」
よしよし、食いついたな。結局のところ、彼女の心中を占めているのは、揺らぎやすい立ち位置に支えられた価値観を除けば、恐怖に由来するものばかりなのだ。それを解消してやればいい。
「俺以外に、お前の行動を咎められる者はいない。俺に忠誠を誓い俺の命に従う限り、お前を害することは誰にも赦されない。お前は、この魔界で特別な存在なんだよ」
魔王の甘言に、彼女の瞳が揺らいだ。楽な方へ身を委ねてしまえ、と心の中の囁きに、抗いきれなくなっている。
しかし彼女は、まだ首を横に振る。
「あ、あたしは…火天使だ、天界の最高位、四皇天使なんだ!その誇りに誓って…」
「お前の誇りとは何だ?」
間髪を入れず尋ねてやると、彼女が固まった。
俺はさらに追い打ちをかける。
「四皇天使の誇りと言うが、お前がその誇りとやらの下に成し遂げたことは何だ?秩序を守護したか?報われず苦しむ者に手を差し伸べたことは?善良な民のささやかな願いを叶えるために奔走したことは?お前の誇りは、お前にどんなことをさせたんだ?」
「………ど…どんなこと…って………」
答えられないだろう。彼女も水天使も、本来天使族が是としていた在り方から遠く離れてしまっているのだから。
別に天使族が善で魔族が悪とかいう話ではない。だが、彼女らが天界でしてきたことは、魔族が魔界でやっていることと何一つ変わらない。であれば、天使の誇りにかけて…などと言う権利は彼女にはない。
「別に責めているわけじゃない。欲望のままに行動するのは魔族の十八番だからな。ただ、無意味な意地を張るのはやめた方がいい」
「……意地…………?」
「お前はただ、変化を怖れているだけ。だが、実際には何も変わる必要はない。唯一つ変える必要があるとすれば、自分は天使なのだという意味のない思い込みだけだ」
……何か俺、言ってて自分がメフィストフェレスみたいになってるんじゃないかと思った。地球にいる悪魔さんたちも、こういう風に人々を誘惑して堕落させてるのかな。
「……意味は…ないの?」
「ないとも。天使族だとか魔族だとか、そんな主観には何の意味もない。何故なら、種族がどうであれお前がお前であるという事実には変わらないのだから」
「…………………あたしは、あたし……?」
「そうだ。お前はセレニエレ。その名を奪うつもりはない」
俺は、セレニエレから一歩離れた。そして彼女のボーっとした表情を観察する。
まぁ、今日のところはこんなもんだろう。
「今日は色々と疲れただろう、もう休むといい。城内にお前の部屋を用意させたから、そこを使え」
俺はそう言い残すと、部屋を出た。入れ違いに侍従たちが彼女の元へ向かう。先ほど俺の前に連行したときとは打って変わって丁重に、セレニエレを優しく立たせて、彼女のための部屋へと連れて行った。
セレニエレは、放心したように大人しくなっていた。敵地のど真ん中で捕虜になってしまったという恐怖から一転、特別待遇を打診されたことで訪れた安堵に、どう対処していいのか分からず混乱しているのだ。
だいぶセレニエレの警戒も薄れたことだし、明日あたり「あの御方」について探ってみるか。彼女自身が忘れていても、消し損ねた記憶が残っているかもしれない。
………とは言え…ずっと魔界にいるわけにもいかないしなー。明日はペザンテで市民代表と会う約束してるし、ヴィンセントたちにも連絡入れないといけないし。
だが、流石にセレニエレを野放しにしておくのは怖い。何しろ、元・最高位天使だからな。万が一暴れ出したりしたら、武王たちでもなければ止められまい。
うーん、武王の誰かに見張りを命じとくか。ギーヴレイは忙しいから無理として…イオニセスはまだ地上界で働いてもらわなきゃだし、性格的にディアルディオは危険な気がする。面倒見の良いアスターシャかルクレティウスのどっちかに………………よし、ルクレティウスにしよう。アスターシャだと、セレニエレが暴れたときに止めることは出来るが魔王城がとんでもなく破壊されそうな気がする。
その点、魔界一の防御力を誇るルクレティウスなら上手い事やってくれるだろう。
簡単な指示を残すと、俺は再びイオニセスを連れて地上界へ。まったくもって忙しい。
セレニエレが落ち着いたら、「あの御方」の手がかりを聞き出すのは他の誰かに任せてしまおうか。多分、俺よりもギーヴレイの方がそういうこと得意そうだし、案外話を聞くだけならルクレティウスも適任かもしれない。あいつ結構聞き上手だったりするんだよな。
適材適所…と言うよりも、最終的には魔王がいなくても大丈夫なようにしたいのだ。
これからも魔界を統治するつもりではいるけれども、実はかなり役立たずな君主だしな、俺。きっと、他の才能ある連中に任せた方が、ずっと魔界は過ごしやすくなるに違いない。
そう思うのも、俺が日本人を経験したからだろうか。それとも、結局のところはこの世界は創世神のテリトリーだから、自分が関与することを重く感じているのだろうか。
……エルリアーシェと話がしたい。こればかりは、有能な臣下でも腐れ縁な勇者でも察しの良い腹黒中年でも、理解してもらうのは難しい。
二千年前に下らないことでヘソを曲げて戦争なんて引き起こした俺が今さらどの面下げて…って話だけど、やっぱり本当の意味で俺を理解して受け止めてくれるのって、それが可能なのって、アルシェだけ…なんだよなぁ。
もしかしたら、創世神がいなくなって一番影響を受けたのって、魔王なのかもしれない。




