第三百四十五話 緊張と恐怖は持続させるのが難しい。
「…待たせたな」
三時間ほど放置されていたセレニエレは、俺が現れたときも未だに混乱から立ち直っていないように見えた。
無理もない。彼女が連れてこられたのは、牢獄でも拷問部屋でもなく、ごくごく普通の部屋だったからだ。
椅子があって、テーブルがあって、調度品があって。
魔王城にあるいくつもの部屋の中の一つ。ごくごく普通の応接室。格式としては低い方だが、その分アットホーム感が溢れていて寧ろリラックスしやすい。
さらに、椅子に座っている(座らされている?)セレニエレの膝の上には、大きな猫が寝そべっている。エルニャストではない。いくら俺でも、そう何度も臣下を猫にするほど非道ではない。
それは、セレニエレの警戒を解くために用意した本物の猫である。ノルウェージャンをさらに一回り大きくした感じの巨大猫で、小さなセレニエレの膝に収まりきらずにずり落ちかけているが、そんなところも実に愛らしい。
天界での感じから、猫嫌いではないと思ったのだ。そして事実、敵地の真っただ中に居ながらにして彼女は猫を唯一の拠り所としている。今もまるでクッションのように抱きしめて、何とか自分を保とうとしていた。
彼女が警戒しているのは、現在の自分の待遇。見張りがいるとは言え、捕虜たる自分がこんな部屋に連れてこられるとは思っていなかったのだろう。何か裏があるのではないかと疑心暗鬼になっているようだった。
「……何をするつもりさ」
怯えつつ反抗的に言うセレニエレだったが、その先を続けようとして口をつぐんだ。
俺の一瞥を受けて…ではない。衛兵に制止されたわけでもない。
彼女の腹の虫が、盛大に鳴き声を上げたからだ。
……ふっふっふ。思ったとおり。
いくら最高位天使と言えども、相当長い間眠り続けていたのだ。そして目覚めてからも、ロクに食事を摂っていない(ハンストなんて柄じゃないだろうに)。
そんな中、狂暴なまでに食欲を刺激しまくる匂いが漂って来れば、空腹を覚えるのも当然。
勿論、彼女はその程度で音を上げたりしない。流石に宿敵の前で腹が鳴ったのには赤面しているが、ふいっと顔を背けて言い訳すらもしなかった。
「……腹が減っているのか?」
意地悪く問いながら、俺は手にした大皿をこれ見よがしに彼女の前に置いた。テーブルの上で湯気を上げる出来立てミートパイに、彼女の視線が固定された。
セレニエレが目覚めたらこの手を使ってみようと、数日前に作って冷凍してあったパイ生地があったので拵えたものだ。エルネストのおかげで小麦の精製技術も格段に向上し、薄力粉も強力粉も使い放題なのが純粋に嬉しい。
「……自白剤入りってわけ?空腹に耐えきれなくなったら……って」
俺はセレニエレの減らず口に構わず、パイにザクザクとナイフを入れて切り分ける。で、そのうちの一切れを小皿に取ると、そのまま自分でパクリ。
……うん、我ながら良い出来だ。パイのサクサクさ加減とジューシーな肉汁、トマトソースの酸味もマッシュポテトで緩和されてて、とても良いバランスを保っている。
無言で二、三口を楽しんだ後で、ニヤリと笑って見せる。セレニエレが、ごくりと喉を鳴らしたのが分かった。
「何も入れていないことは分かると思うが?」
俺はそれ以上意地悪はせず、もう一切れ切り分けると今度はセレニエレにずいっと差し出した。
反射的にそれを受け取るセレニエレ。しかしすぐに口にする気分にはなれないのか、逡巡している。
だが、彼女は分かっていなかった…彼女の膝の上にいるのが、一体何であるのか。
「………あぁっ!」
両手で皿を持ったまま固まっているセレニエレの膝の上で、猫が頭を持ち上げた。そして少し鼻をクンクンさせると、目にも留まらぬ電光石火で皿の上のパイに齧りつき……そのまま床へ飛び降りた。
部屋の隅で本日の獲物に満足げにかぶりつく猫を見るセレニエレの物欲しそうな目といったら。
「そう落胆するな。まだ残っているから安心しろ」
もう一切れを手渡すと、今度は素直にフォークを突き刺す。そこからしばらく動かなかったのは、彼女の中で脳ミソと胃袋が真っ向勝負をしていたからだろう。
そして勝利したのは胃袋の方だったようだ。やがて俺とパイとを何度か見比べた後で、彼女は恐る恐る…小さめの一口を、頬張った。
「………………………!」
後は無言である。そこまで小さく切り分けたわけではないのだが、四、五口で全部平らげてしまった。
小皿の上の最後の一口を呑み込んで、セレニエレは俺の方をチラリ。物足りなさそうな顔。
その表情にほだされて二切れ目を追加してやると、再び猛烈な勢いで食べ始めた。
同じことを何度か繰り返し、大皿の上のミートパイはなくなった。結構大きいのを焼いたハズなんだが、流石の食欲である。
「…………ごちそうさま」
ぼそぼそとではあるが、きっちりそれが言えるあたり彼女の育ちの良さが分かる。しかし、まだ満足はしていないだろうことも、一目で分かった。
俺が軽く右手を上げると、衛兵が即座に扉を開けた。そこから入って来た侍従が押しているワゴンの上には、最終兵器が。
「…お前たちはもういい、下がれ」
俺の命に、その場にいた臣下の全てが深く一礼して部屋を出て行った。躊躇もなかったのは、忠誠のせいもあるだろうけど多分俺と同じ空間に居続けることが怖くて堪らなかったからだろうと思う。
臣下たちが居なくなってから、俺はワゴンの上で手早くお茶を淹れる。ラベンダーとカモミールをベースにしたハーブティーだ。
さらに俺が取り出したのは、ちょうど良いタイミングで焼き上がった、フォンダンショコラ。焼きたてのこいつに勝る猛者は、そうそういない。
フォンダンショコラの皿の上に、別に持ってこさせたバニラアイスをたっぷりと添える。で、ベリーとミントも散らして…っと。
それをテーブルの上に置いた時、セレニエレの瞳が一層輝いたのを俺は見過ごさなかった。女子は大抵、チョコとアイスと可愛いものに弱い。……ペザンテ大公夫人とかは例外かもだけど。
俺はハーブティーを飲みながら待つ。セレニエレを急かすことも強引に勧めることもしない。が、フォンダンショコラの攻撃力が最大値を誇るのは焼き上がり後数分の間なので、
「それは、温かいうちの方が美味いぞ」
とだけ、忠告しておいた。
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明るく柔らかな雰囲気の部屋。膝の上の猫(ややデブめ)。美味しい食事(しかも空腹期間が長かった)。温かくとろけるチョコレートケーキと冷たいアイスのデザート。リラックス効果のあるラベンダーとカモミール。
専門の訓練を受けた工作員とかでもない限り、この中で警戒心を保ち続けるのは容易ではない。
胃袋も満たされ、すっかり満足した表情になっているセレニエレに、俺は切り出す。
「…それで、だ。今後のことだが」
しかしまだ俺への恐怖は残っているのか、話しかけられた瞬間に彼女は身を強張らせる。
そこで俺は、少し態度を軟化させることにした。
具体的には、口調を和らげた。
「まあ、そう固くなるなって。臣下もいないし、寛いでくれ」
と言いながら、でも彼女が一番怖がってるのは臣下じゃなくて俺なんだよなー…。まああれだ、一時的にとは言え飼い主と猫の関係だったこともあるくらいだし、もうちょっと心を開いてくれると嬉しい。
「……何を考えてるのさ………こんなことしたって、あたしは…」
「まぁ聞けって」
彼女の言いたいことは分かる。例え堕天してしまったとは言え、それは彼女の望みではない。天使族であるという誇りや矜持が、そう簡単に魔王へなびくことを彼女に赦すとも思えなかった。
が、彼女は現実に目を向ける必要がある……それを俺が言うのも酷い話だとは思うが。
「お前の意思や望みがどうであれ、お前はこれから魔界で生きていくしかない。それが何を意味するかは、分かるか?」
「あ……あたしは………お前の下僕じゃない……」
魔王の神力により変質してしまった彼女は、もう天界へ戻ることは出来ない。そこは既に彼女の居場所ではなくなった。
それでも俺を拒もうとするセレニエレは、確かに最高位天使に相応しい。
「お前がそう思うのは自由だ。そこについては、強要するつもりはない」
忠誠だとかそういうものは強制するようなものではない、ということもあるが、強要する必要もなかったりする。
彼女は既に、もうどうしようもなく魔王の眷属なのだから。




