第三百三十九話 出兵
「……あの、さ……ヒルダ?もう行かなきゃなんないんだけど……」
俺は、困惑している。
ヒルダが、俺に抱き付いたまま離れてくれないのだ。
俺とヴィンセント、イライザの三人は、いざペザンテ公国へ出発するべく聖都ロゼ・マリスの外に出ていた。ほとんど臨戦状態の“暁の飛蛇”200名も控えている。
……その装備を見るに、戦争準備なんじゃないかって思われても仕方ない。
で、それじゃ行ってくるからいい子で留守番してるんだぞ、といつものようにヒルダの頭を撫でて、いつものようにヒルダが俺にひっついて…までは良かったのだが。
その後、なかなか離してくれない。
確かにヒルダは甘えん坊だし淋しがり屋だし、何かと俺を引き留めようとはするのだが……ここまで頑なに離そうとしないってのは珍しい。言って分からない子じゃないのだ。
「…………どうしても、行かなくちゃダメ?」
「………ヒルダ?」
それに、こんな風に言ってくるのも珍しい。年齢以上に幼さを見せる彼女ではあるが、それでも“神託の勇者”の随行者、物事の道理だとか大人の事情だとか権力者の都合だとかは、十二分に理解しているはずなのに。
もしかしたら、俺が感じているアルセリアの違和感を、彼女も嗅ぎ取っているのかも…
「…おにいちゃん、最近なんか変」
………俺?
アルセリアじゃなくて……俺?
「べ、別に変なことないだろ、いつもどおりだろ?」
しゃがみこんで目線を合わせて、ヒルダの目に真っすぐ射竦められて、その後に続けようとした言葉を飲み込む。
「変だもん。たまに怖い顔して考え込んでるもん」
「こ…怖い顔なんて……」
していた…のだろうか。
「急におうち作るって言い出すし。無理にはしゃいでるみたい」
「…………………そんなことはないよ」
そう言うのがやっとだった。
ヒルダの言葉が胸に突き刺さって初めて、それが図星だと知る。
確かに俺は最近、「あの御方」とやらの存在に神経を尖らせている。今回の件…ペザンテ公国の突然の叛意…にだって、もしかしたら奴が絡んでいるかもしれない。
否、タイミングや今までのことから考えて、絡んでいない方がおかしい。グリードが俺を今回の派兵に加えたのも、その可能性が高いからだ。
そう感じていたことを、見透かされたのか。ヒルダは驚くほど俺のことをよく見ている。
しかし、だからこそ俺は誤魔化すしかなかった。
「あの御方」は、間違いなく魔王である俺に喧嘩を売っている。廉族である彼女らが巻き込まれた場合、その身の安全は俺であっても保証出来ない。
俺の懸念を話せば、単細胞のくせに責任感と正義感だけは一丁前の勇者一行は黙ってはいないだろう。だから、彼女らを「あの御方」から遠ざけておきたかった。
「あの家はな、ずっとずーーーっと俺が憧れてたものでもあるんだよ」
「……おにいちゃんが?」
「そう。天地大戦よりもずーっと前から。けど、家だけじゃダメなんだ。ヒルダたちが居てくれないと意味がない。だから、あの家で待っててほしい。俺にも、「おかえり」って言ってくれるね?」
「…………分かった」
やっと手を離してくれたヒルダの前から立ち上がり、俺はグリードと目配せをした。
彼には、全てを話してある。三人娘とキアを、あの家から極力出さないように、と念を押してもいる。
あの家…俺たちの家。多分、俺が今までで一番思いを込めて作り上げた存在。そこに働く加護は他の比ではない。
あそこにいる限りは、彼女らは安全だ。生活物資はグリードに届けてもらうことにしてある。しばらく不便をかけるだろうが、俺が帰るまでの間あの家で籠城していてくれれば、俺も安心して「あの御方」を探ることが出来る。
「さ、ヒルダ。…いつまでも駄々をこねていると、リュートさんを困らせてしまいますよ?」
ビビが後ろからヒルダの肩に手を置いた。
彼女にも「あの御方」のことは話してはいないのだが、俺の様子から何か異常事態を感じ取っているのかもしれない。その表情は、いつになく真剣だった。
それでも何も聞こうとしないのは、俺への信頼の証……だと考えてもいいのだろうか。
「……アルセリアは?」
「アルシーは…なんだか調子が良くないみたいで…………」
アルセリアの姿がここにないことに得も言われぬ不安を感じつつ、しかしグリードが心配要らない、といった感じに首を振ったので彼女のことは彼に一任することにする。
「ビビ、あいつのことなんだけど…最近ちょっと様子が妙なんだ。気を付けて見ておいてくれないか?」
「分かってますよ、長い付き合いですから」
……どうやら余計なお世話だったようだ。考えてみれば、俺なんかより彼女らの方がアルセリアの変化には敏感に決まってるよな。
俺の出発準備がようやく整ったところでヴィンセントが、“暁の飛蛇”に号令を出す。随分待たせてしまったのに文句の一つもないのは、それが自分の妹のことだからか俺に遠慮しているからなのか。
動き出した隊列を横目に馬に飛び乗ると、俺はグリードにもう一度視線を送った。彼が力強く頷いてくれたのを見て、安心する。
勇者一行に関しては、グリードに任せておけば間違いない。俺なんかよりよっぽど深謀遠慮の持ち主である彼ならば、そして他ならぬ娘たちに並々ならぬ愛情を抱く彼ならば、決して悪いようにはしないだろう。
と、いうことで。
「あの御方」とやら、来るなら来い。返り討ちにしてやろうじゃないか。
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“暁の飛蛇”の隊列は進む。
街道沿いの集落は何事か、と不安そうな視線を向けてくるし、途中の関所では番兵が腰を抜かさんばかりに驚いていた。
何でも、ここまで大掛かりな「異端審問」は随分と久しぶりらしい。
「どう?驚いたでしょう」
イライザが寄ってきて言った。彼女は何度かこういった派兵を経験しているそうだ。
「ああ……驚いた。まるで戦争に向かうみたいだ」
「ほとんど戦争だもの。…向こうが抵抗してくるなら…ね」
イライザの口調には緊張感がない。それにしたって、いくらペザンテが小国といっても一つの国相手に200の兵じゃ戦争にならないと思うんだけど…
……いや、だからこその“七翼の騎士”ってわけか。忘れがちだったが、彼らもまた一騎当千の強者だった。
イライザは、何も気にしていない。おそらくそれは今回に限ったことではないのだろう。他の兵士たちにも、それほどの悲壮感は見られないし、多分、険しい顔をしているのは俺くらいなものだ。
俺の懸念はペザンテとの戦いではなくその裏にあるものに対してなのだが、周りは初めての大規模派兵に緊張している新人…と勝手に勘違いしてくれている。イライザがこうして話しかけてくるのも、その緊張をほぐしてやろうという気遣いからだろう。
「大丈夫、そんなに気負う必要はないわ。状況によっては、周辺諸国から応援を頼むことだって出来るんだし」
「…それは、心強いな」
当たり障りのない会話を交わして、彼女はヴィンセントの方へ向かっていった。
彼女と入れ替わるように、一人の兵士が俺にさりげなく近付いてくる。
「……今回の件ですが、解放主義を名乗る民衆の動きから始まったもようです」
並んで馬を進めながらその兵士は、まだここにいる誰も掴んでいない事実を俺に…俺だけに報告する。周りの兵士たちは、俺たちの会話の中身には気付かない。
「…民衆、か。公王はどうした?」
「民衆の動きに流されているようです。愚君ではありませんが、名君という程の者でもないかと」
真面目な顔でそう言われると、じゃあ俺はどうなんだろう?ってちょっと不安になってくる。
訊ねたとしても、どうせ教科書どおりの答えしか返ってこないんだろうけど。
「今のところ、天使族の気配もありません」
「そうか……引き続き探らせろ」
「御意」
一礼すると、“暁の飛蛇”に扮したルガイア=マウレは再び隊列へと戻っていった。
……天使族は動いていない…か。「あの御方」にしてみれば、俺の目が光っている魔界よりも主不在の天界の方が利用しやすいとは思うけど、地天使が(魔王と勘違いしていたとは言え)その存在を警戒しまくってるからな、思いの外好きには動けないのかもしれない。
実は今回の天魔会談、相互不干渉条約の中に地上界は触れられていない。地上界にも一切干渉しない、としてしまうと、こうして“戸裏の蜘蛛”を展開させることも出来なくなるし、そもそも俺が地上界にいることも出来なくなってしまう。
それに、地上界まで監視の目を厳しくしてしまうと、動きにくくなった「あの御方」が地下に潜ってしまうことも懸念された。
だったら、地上界で泳がせてしまおう…というのはギーヴレイの案。さらに“戸裏の蜘蛛”を状況に応じて各地に展開し、「あの御方」に通じるような異変を早期に発見すべく最大限の注意を払う。
今頃は、世界中に散った俺の臣下たちが「あの御方」の尻尾を掴むべく動いている。奴の存在は既に天界の指導者である央天使・地天使・風天使の三名に、地上界では実質的な最高権者であるグリードに伝わっている。各時空界からの包囲網をかいくぐるのは、奴と言えども簡単ではなかろう。
いつまでも、後手に回るだけとは思うなよ。




