第三百二十一話 堕天
「なんなの……?おにーさん、一体、何なのさ……?」
セレニエレは、怯えていた。
「単独で、無詠唱で、【断罪の鐘】を使えるのなんて、四皇天使以外には……」
怯えながらも、半べそになりながらも、必死に冷静さを保とうとしている。子供とは言え、腐っても四皇天使だ。
……それにしても。
魔族だったら、武王以外にも極位術式を無詠唱で行使出来る者は存在する。例えばルガイアとか。まあ、彼は特別と言えなくもないが、それでも広い魔界を探せば、彼以外にも見つかるだろう。
やはり、創世神の消滅に伴い天界…天使族の弱体化が進んでしまっているのか。
創世神の加護を受けていたのは地上界も同じだが、創世神に依存しすぎていた結果が、天界のこの状況を生み出してしまっているのかもしれない。
だが、そんなことはどうでもいい。俺には、こいつに聞かなければならないことがある。
「なあ、セレニエレ。お前の言う、「あの御方」ってのは、何処の誰のことだ?」
俺の問いに、セレニエレは一瞬ハッとして、それから目を背けた。肩が震えている。俺の要求を拒む報いを怖れていると同時に、「あの御方」とやらの情報を開示する恐怖もまたあるのだろう。
板挟みにしてしまうことは悪いと思う。が、既に彼女には選択肢を与えてやった後なのだ。俺と敵対しないのであれば今までのことは水に流すとまで言ってやったのに、それを突っぱねたのは彼女らの方。であれば、それ以上情けをかけてやる必要などない。
俺は、何も言わないセレニエレに、もう一歩近付いた。
「…もう一度聞く。「あの御方」ってのは、何処の誰で、何の目的で、お前らに何をさせようとしている?」
セレニエレはしばらく黙ったままだった。恐怖と忠義心と矜持と、あとよく分からない諸々が彼女の中でせめぎ合っているのが分かる。が、彼女の忠義心の向かう先が創世神なのか「あの御方」なのかは分からない。
「まさか、急に無口になったなんて言わないよな?」
「…………し…知らない…」
知らないと言いつつ、それは嘘だと忙しなく動く視線が物語っている。こいつは、そんな白々しい嘘でこの場を切り抜けられると思っているのか?
「知らないはずないだろ。知りたいならこの前の続きをしてくれって、お願いしてきたのはそっちじゃないか。言うとおりに遊んでやったんだから、次は俺の頼みを聞いてくれよ」
「し…知らないったら、知らない!知らないもん!!しつこいんだよぉお前!!」
あらやだ、俺ってばしつこかっただろうか。いやまあ、重要なことだし。けどしつこく問い詰められてセレニエレは自棄を起こしてしまったのかもしれない。
その霊力が、突然爆発的に膨れ上がった。
螺旋。
それを一目見たときに浮かんだのは、その言葉。彼女の周囲に、渦巻く力場がいくつも形成されたのだ。それに触れた途端、床が、壁が、柱が、ひしゃげて捻り潰されていく。
これは…特殊、いや固有スキルか。術式ではない。権能でもない。術式のように理論と公式でもって理へ働きかけるものでも、権能のように理に直接干渉するものでもない。
強引に、力づくで理を歪めている。
「潰れちゃえ!どっかいっちゃえ!!」
癇癪を起こした幼子そのままに、セレニエレは叫ぶ。いくつもの螺旋が、俺を取り囲んだ。
特殊スキルや固有スキルといった常識の範疇外の力というものは、驚愕に値するものだ。理論も権限もそっちのけで理を歪めるなんて真似は、そうそう出来るものではない。
だが、そんな遣り方には無理が生じる。そして何より、そんな遣り方には限界がある。
具体的に言えば、そんな力では俺を傷付けることなんて出来ない。
螺旋の力場が、四方八方から俺をぐしゃぐしゃに捻り潰し引き千切ろうと迫る。俺は、無造作にそれらを手で払い除けた。
ただ、それだけだった。
荒れ狂う炎の壁が生まれたわけでも、猛々しい雷の槍が降ったわけでもなく。
ただ纏わりつく羽虫を払い除けるのと同じ動きで、セレニエレの螺旋は全て吹き飛んだ。
「…………………え……?」
再び茫然とするセレニエレ。彼女には、俺が何をしたかさえ分かっていない。ただし、自分の渾身の攻撃が俺にとっては羽虫同然のものだ、という事実くらいは分かったはずだ。
その証拠に、彼女の顔はみるみる青ざめていく。
激しい運動をしたわけではないだろうに、呼吸が荒く不規則だ。全身が、小刻みに震えている。眼を見開き、口をパクパクさせて声にならない声を上げようとしている。
俺はやっぱり子供には甘いようで、そんな姿を見て心が痛まなくもない。だから、もう一度だけチャンスを与えてやることにした。
「…これが最後だ。答えろ、お前の言う「あの御方」とは、何者だ?」
ただし、最後のチャンスだと彼女にも知ってもらうために、少しばかり密度の高い光球を作って彼女の目の前に突きつけてやった。まあ、小さな太陽だと思ってもらえればいい。
「……わ、分かったよ、話すから……話すからぁ!」
…ふぅ。ようやく素直に白状する気になってくれたか。意地を張らなければ、こんなに苛めることはなかったのに。ああ良心が痛む。
「なら、話せ。「あの御方」とやらについてお前が知っていること、全てだ」
降参してくれたセレニエレから光球を離してやる俺も、やっぱり甘いよなー。
「………う…うん。………あの御方は……………」
ぼそぼそと語り始めたセレニエレだったが、すぐに言葉を止めた。
おいおい、この期に及んでまだ抵抗するつもりか?一度話すつもりになったんだから、もう観念しろっての。
「あ……あの、御方……は……………………」
………うん?何か、様子が変だ……?
セレニエレは大きな目をさらに大きく見開いて、必死になって何かを考えている。額には脂汗がびっしりと浮かび、彼女の焦燥を俺に見せつけていた。
「………あ…あれ………?なんで…………なんで……………………」
一体、どうしたと言うのだろう。まるで知り合いの名前をド忘れしてすぐそこまで出かかってるのにどうしても思い出せない、みたいな感じで狼狽えている。
まさか、時間稼ぎなんてわけじゃないよな?
「おい、どうし…」
「思い出せない………」
…………は?
「おいおい、何を馬鹿なこと言ってるんだよ。そいつ、お前の上司か主かなんだろ?忘れるってどういう…」
「う、嘘じゃない!思い…出せない……名前も、あの御方の顔も、あの御方が何を言ってたかも、あの御方………………」
狼狽しながら頭を抱えるセレニエレが、ピタリと動きを止めた。そのままの格好で、しばらく黙っていた。
やがて、自分でも何が何だか分からない…といった表情で、顔を上げた。
そして、
「………あの御方…って、何だっけ…………?」
茫然と、愕然と、呟いた。
「おい、急に健忘症か?そんなんで俺が誤魔化されるはずないだろ」
「………?そう…だよね……あたし……知ってる…知ってた、はず……なのに。大切なこと…だったと…思うのに。………分かんないよ、どうして?」
どうして?と俺に聞かれても困る。が、べそをかいて俺を見上げる表情に、嘘は感じられない。
いきなり重要機密をド忘れしたなんて随分とムシの良い話ではあるが、俺を騙すための演技には見えなかった。
……信じがたいことだが、一瞬にして「あの御方」に関する記憶だけ、彼女の中から失われてしまったらしい。
「…あれ……?あれ、どうして……?なんだっけ……あたし、何のために……?」
セレニエレも、大切なことを忘れてしまった、という事実には気付いている。だが、忘れてしまったものが何なのかが分からなくなっているのだ。
おそらく、精神系術式…か。発動条件は、機密の漏洩、具体的には「あの御方」の正体を暴露しようとすること。その際に特定の記憶が消去されるように、あらかじめセレニエレに術を施していたとすれば……
ありえない話では、ない。
「はー、ったく、めんどくせーなぁ」
まったく用意周到な「あの御方」である。この俺になかなか尻尾を掴ませないあたり、相当に狡猾な御仁なのだろう。
せっかく手がかりを掴めると思ったのになー。結局進展は無しか。
さて、それじゃあとりあえず……
「な、何を……するの?」
つかつかと彼女の目の前まで近付いた俺と壁の間に挟まれて逃げ場のないセレニエレが、声を震わせながら問う。
その姿は怯えるか弱い子供そのもので、出来ればこの件の記憶をきれいさっぱり消した上で解放してやりたいという思いに駆られるが、そうもいかない。
彼女は、肝心な記憶を失ったとは言え、貴重な「あの御方」の関係者。いつどこで記憶が戻るとも知れないし、何らかの繋がりをまだ持っているかもしれない。
だから、どうしても手元に置いておく必要がある。
「………や」
「悪いな、勘弁しろよ」
何かを懇願しかけた彼女を遮って、俺は彼女の頭を掴むと、躊躇も遠慮もなく、俺自身の神力を注ぎ込んだ。
「……………………あ゛…」
セレニエレの小さな身体が引きつり、電流を流されたようにビクビクと手足が跳ねた。俺の神力は彼女の中に入り込み浸透し、彼女を存在の根源から変質させ……作り変えた。
…創世神の愛し児から、魔王の下僕へと。
「あ………あ、あぁ…………」
俺が手を離すと、彼女はかくんとその場に崩れ落ちた。
その背の、純白だった翼は、無明の闇の如き漆黒へと変化していた。
火天使セレニエレは、もう天使ではなくなった。
創世神を崇め創世神の秩序の元にあった天使は今や、魔に属する存在と成り果てた。
陳腐な言い方をしてしまえば、堕天使…といったところだろう。
ただし、本人の意志ではなく俺の手によって強引に堕とされたわけだが。
……我ながら、残酷なことをしたと思う。そう思うなら精神も書き換えてやればいいところなのだが、「あの御方」に繋がる可能性が僅かでもある以上、それを失うわけにはいかない。
結果、彼女は精神も自我もそのままに、肉体だけが魔王に依存する存在になってしまったのだ。
マウレ兄弟と同じと言えば同じ。ただし、彼らがもともと魔族(エルネストは半魔族だけど)であり俺への忠誠心を持っているのに対し、セレニエレは天使であり忠誠など微塵もない。
彼女は、最も嫌悪し唾棄すべき存在…魔王に、その心とは裏腹に従わなくてはならなくなってしまったのである。
可哀想だが、俺は魔王。自分の道を妨げる存在を容認するわけにはいかない。だからせめて、彼女の身柄はギーヴレイに任せて、丁重に遇してやることにしよう。
……まあ、性格的には魔界の方が似合ってるとも思うよ、うん。
さて、とりあえず、一旦セレニエレを魔界に連れていくべきか。こんな真っ黒な翼、他の天使に見られたら大騒ぎに……
「これは、どういう状況だ…?」
不意に、背後から声がかけられた。
や、やばい……目撃者?見られちゃった?一体どこから?
恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは……
驚愕と警戒を最大限に発している、風天使グリューファスであった。




