第三百十六話 猫もツラいよ。
「ごめんねぇ、にゃんこ。おなかすいちゃったね?」
…いや、別に…すいてないけど。
「ミルクって、このままでいいのかな?それとも人肌の温度?」
…それは乳幼児のミルクだろ。
セレニエレは俺を自室と思しき部屋へ連れて来た。
まさかここに寝泊りしているのだろうか、そこには寝台あり、座椅子あり、生活するのに困らない程度の家具が備え付けてある。
「ちょっと待っててね」
セレニエレは俺を寝台に乗せると、一旦外へ出て行った。
どうでもいいが、自分の寝る場所に動物を入れるなんて、余程動物好きでないと出来ないことである。
…あ、このベッド、羽毛布団だ。猫の軽い体だと押し返されそうなくらい、ふっわふわ。マットレスも固すぎず柔らかすぎず。いいなー、こんなの欲しいなー。
ベッドの上でグルグルしていると、やがてセレニエレが戻って来た。
皿を手にしている。
「おっまたせー」
さっき議場に入っていったのと変わらないテンションで、彼女は皿を床に置いた。中には、ミルクが満たされている。
「……………」
「あれ、どしたの?おなかすいてないの?」
……いや、腹が減ってるわけではないということもあるのだが………
あの、俺、魔王なんですけど。
今はこんなナリだけど、勇者や臣下に茶化されたりしてるけど、ちょっと最近威厳がないかなーとか自分でも思わなくはないけど。
一応、世界の頂に座す、神の一柱なんですけど。
……床に置かれた皿から飯を食えと、言うわけですか?
「ほらほら、我慢しなくていいんだよ?」
……いやいや、我慢とかじゃなくて。
セレニエレに警戒されないためにも、ここは猫のフリを貫き通すのが一番だってのは分かっている。このまま中央殿に何食わぬ顔で居座って、状況をつぶさに見届けることが出来るのも、俺が人畜無害な愛らしい猫だからだ。
が、俺の中のなけなしの自尊心が、それでいいのか!?って語りかけてくる。
「どうしたの?ちょっとだけ温めてもらったんだよ、冷たいとにゃんこお腹壊しちゃうかもしれないからね」
……優しさが痛い。
「…おっかしーなぁ。お魚の方が良かった?」
…いや、固形か液体かの話ではない。
「…猫って、生肉食べるかなぁ?」
……頼むから、火は通してくれ。
……止むを得ん。このままだと、生肉を口に押し込まれかねない。
ここは、非常に腹立たしいが、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……
「なーんだ、やっぱりお腹すいてたんだねー」
………何コレ何この羞恥プレイ。俺の中の目覚めてはいけない何かが目覚めてしまいそうで怖い。
姿形というのは不思議と精神と密接に繋がっていて、例えば美男美女が自信に満ちていたりその逆もあったり、性根の悪い奴の面構えが悪かったり、外見が精神に影響を与えるのか精神が外見に影響を与えるのかは分からないが…その両方かもしれないが…外見と中身というのは釣り合うように出来ているものである。
何が言いたいかというと、皿のミルクを全部平らげる頃にはほとんど抵抗を感じなくなっていたわけである。ゆゆしき事態だとは思うが。
「満足した、にゃんこ?」
「にゃにゃなーお」
どうでもいいが、ミルクはおやつだよな?まさか飯まで液体ってことはないよな?
それを確認したいと思ったのだが、
「そっかー。気に入ったかぁ。良かったー」
……多分絶対分かってくれてない。
大丈夫だろうか、こいつ、猫飼ったことあるんだろうか。猫とは言わず、何の動物でもいいけど、ペットの飼育経験あるんだろうか。もしくは、こいつの身近にそういう奴は?
まさか、猫にはミルクを与えておけばいいとか考えてるわけじゃないよね?ね?
実際のところ、俺は魔王なわけで食事の必要もないと言えばないのだが、栄養補給とかいうのとは別の話で食事抜きはツラい。とてもツラい。
なので、セレニエレが動物愛護の精神に目覚めてくれることを切に願う。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
あれから半日経った。
ヒマである。
と言っても、中央殿でヒマしているのは俺くらいなもので、ドアの外…廊下ではいくつもの足音が慌ただしく行ったり来たりしてるのが聞こえてくるし、それに混じって緊迫感ある会話も届いてくる。
ミルクを堪能し(とても鮮度のいい良質な牛乳だった)うつらうつらと微睡みに身を委ねていた俺だったが、しばらくしてから気が付いた。
……俺、こんなことしてる場合じゃないじゃん。
情報を集めるならまだしも、セレニエレの部屋で惰眠を決め込んでいても時間の無駄でしかない。こんなとこアルセリアに見られたら何を言われることやら。
セレニエレは、少し前に部屋を出て行った。子供に見えて…子供なわけだけど…あれでも四皇天使、こんな緊急事態に猫と戯れてばかりはいられないってところだろう。
よし、探索してみるか。
以前にシグルキアスの秘書として潜入したときと違い、猫姿(しかも火天使の飼い猫)である。前より好き勝手に動けるはずだ。
俺はふわふわベッドから飛び降りると、ドアの前へ。
幸いなことに、鍵は掛かっていなかった。ドアノブは回すタイプじゃなくて、押し下げるタイプ。ちょっと苦労したが、無事にドアを開けることが出来た。
うん、猫って器用でいいね。犬だとこうはいかないところだった。
さてはて、まずは何処に行こうかな。ほんとはグリューファスと話したかったんだけど、何処にいるんだろう。もしかしたらクーデター鎮圧のために外に出ちゃってるかも。
俺は何となく、シグルキアスの執務室へと足を向けていた。大した理由があったわけじゃないのだが、知ってる場所がそこだけだったからだ。
おそらくシグルキアスに報告を持ってきたのだろう、一人の天使が彼の部屋を出て来たので、開いた扉の隙間に身体を滑り込ませる。こういうところも猫は便利だ。
「…なーお」
何となく、鳴いてみた。いきなり元の姿に戻ってビックリさせるのも面白いかなーと思ったのだが、今こいつをビビらせて遊ぶのも不謹慎な感じがしたのだ。
「……猫?なんでこんなところに………ああ、セレニエレ様がお連れになっていたものか」
いきなり闖入した猫にシグルキアスは少しだけ驚いたようだったが、既に議場でセレニエレが俺を抱っこしている様を見ているのでそれほど疑問は感じなかったようだ。
「こんなときに騒がしい所へ連れてこられて、お前も災難だったな」
そう言いながら執務机を回って俺のところへ歩いてくる。
しゃがみ込むと、俺の頭を撫で始めた。
……うむむむむ、嫌な感じはしないが、何か嫌だ。女の子に優しく撫でられるならやぶさかではないが、何が悲しゅうて野郎にナデナデされなきゃならんのだ。
「なー、なー、なーお」
「…ん、どうした?嫌なのか?」
…ぬぬぬ、シグルキアスの奴。猫飼ったことがあるに違いない。どこを撫でると猫が喜ぶのか、熟知してる手付きだぞこれは。
まずい、このままだと倒錯的世界が繰り広げられてしまう。こいつが猫好きなのは意外だったが、ここは撤退するのが良策……って、
わわわわわ、抱っこするな!
「それにしても、ロセイールで猫は珍しいな。我が家の領地ではよく見かけたものだが」
いつもの取り澄ましたいけ好かない気障なキメ顔じゃなくて普段からこういう表情してたら絶対めちゃくちゃモテるに決まってる!って感じの甘いマスクで俺を抱き上げるわけだけど、ちょっと、中身は俺なんですけど!?
「…こんな時だが、こうしていると癒されるな」
…ややや、お前は癒されるかもしれないけど俺としては気色悪いというか危機を感じるというか何と言うかゴロゴロゴロゴロ…
「ふふ、可愛いヤツだな」
……俺、新手の危機である。
別に、魔王と執政官天使のめくるめく倒錯の世界を描くつもりはありません。




