第三百十話 思惑
「一体どういうことだ!!」
老人の皺枯れた、それでいて威圧感たっぷりの怒声に、報告をもたらした使者は身を竦ませた。
彼が自分に腹を立てているわけではないと分かってはいるが、その怒りを買えば自分の命はないからだ。
その老人…天界の最高執政機関である中央殿のトップ中のトップ、四皇天使筆頭、水天使リュシオーンは、怒りに任せて立派な椅子の立派な肘掛に拳を打ち付けた。
握りしめた拳が、怒りに震えている。
使者はそれ以上何も言えず、ただリュシオーンの言葉を待った。
使者がもたらした報告……それは、大陸南部のリシャール地方で起こったとある騒動の一件だった。
リシャール地方一帯を治める領主とその屋敷が、無法者たちの集団に襲撃を受けたのだと言う。幸い、領主の義弟にあたる者と民衆が武器を取り、その無法者たちを討伐することには成功した。
それだけならば、特段注意を払う必要もない。
リシャール地方は、風光明媚な一大観光地としての価値を除けばただの辺境、領主が誰であろうとそれが中央殿に忠誠を誓う者である限りは構わないのだ。
だから、面倒な混乱を避けたかった彼は、すぐさま無法者を討伐した領主の義弟を、新たな領主へと任じることを許可した。
それを進言したのは、新領主とも親交があるという風天使グリューファスと執政官のシグルキアスだったが、仮にそれらの推薦がなかったとしてもリュシオーンは同じ決定を下しただろう。
主のいない地というのはすぐに秩序を失うものである。であれば、大義名分を持つ者をひとまずはその地位に付けておくのが一番手っ取り早い。
仮にそれが相応しい資格を持たない者であった場合は、すぐに他の者をあてがえばいいのだ。
だから、彼の怒りの原因はそれではない。
その重要性を知らない使者の口からはまるでおまけの出来事のように(それでも十分重大事件だとは思っている様子だが)語られた、もう一つの事件。
ラシャ・エルドのレプス月照石鉱山が、破壊された。
あろうことかその無法者たちは、稀少な月照石を産出する鉱山を徹底的に破壊し尽くしたのだ。坑道だけでなく、周囲の精製施設まで。
無論、その連中が破壊したのは鉱山だけではなくて、領主の館は勿論、執政補佐の役人の屋敷や番兵の詰所、執政館も悉く…であったのだが、リュシオーンにとって価値を持つのは鉱山のみだ。田舎貴族連中がどうなろうと、彼の知ったことではない。
しかし、レプス鉱山だけは別だ。そこから採れる月照石がなければ、べへモス召喚計画に大幅な狂いが生じてしまう。
地天使ジオラディアに命じた生贄集めは、地上界の聖職者との約束で半年ほど時間を与えることになっている。だがその猶予期間が終わればすぐさま儀式に入れるように、時間を計算して採掘を進めていたのだ。
それなのに、今レプス鉱山での採掘が滞ってしまえば、どれだけ計画に遅れが出ることか。
報告によると、その破壊は徹底されていたと言う。元の坑道を掘り出すことは不可能だろう。
一から新たに坑道を掘り進めるとなると、相当の時間と労力を要することになる。
かと言って、他の地方で僅かに産出される月照石はどれも低品質のものばかりで、べへモス召喚に耐えられる代物ではない。
しかし、ここで歯軋りしていても埒が明かない。リュシオーンは、新たなリシャール辺境伯に採掘の一刻も早い再開を命じることにした。
「急ぎ、イライアス=エイヴリング卿に伝えよ。レプス鉱山での月照石採掘の再開が最優先だ。必要な人手は中央からも派遣する。とりあえず第三・第四等市民を五百ほどそちらへ送るゆえ、必要に応じて使え、とな。費用に関しても、必要な概算書を取り急ぎ送るように」
人も金もまるで惜しむ気がない、と言わんばかりのリュシオーンの大盤振る舞いに、使者は驚いたようだった。が、彼に異を唱える権限は与えられていないので、何も言わず伝令へと走る。
使者が去り一人になった正殿で、リュシオーンは深く息をついた。これまで何も問題なく上手くいっていたというのに、何故あと少しで…というところでこんな邪魔が入るのだろうか。
「……これでは…こんなことでは、あの御方のご期待に沿うことが出来なくなってしまう……」
昏い表情でブツブツと呟くリュシオーンは、先ほどまでの威厳は何処へやら、一人の疲れ果てた老人のようであった。
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「ねぇねぇ、グリューファス。グリューファスってさ、好きな人とかいる?」
「………………」
「なんでダンマリなのさぁー。教えてくれたっていいじゃない」
「………………」
「もう、つまんない!」
風天使グリューファスに纏わりついているのは、火天使セレニエレ。
一見、幼い少女が年の離れた兄に懐いているようにも見えなくはないが、グリューファスの眉間の皺と一文字に閉ざされた口元を見ればそうではないことが分かるだろう。
「ねーねー、これから同じ仕事するんだからさーあ、少しは仲良くやろうよー」
「仲がどうであれ、仕事に支障をきたすことはない」
「………やっぱり、つまんない」
どれだけセレニエレが話しかけても笑いかけても、グリューファスの態度は変わらない。ずっと仏頂面でずっと不愛想だ。
尤も、それがグリューファスのデフォルトだと知っているセレニエレに、めげる様子はない。
同じ仕事。
セレニエレとグリューファスは、地上界で“神託の勇者”と呼ばれる存在とその随行者の探索を命じられている。
命じたのは、水天使リュシオーン。一応は中央殿の決定ということになっているが、それは取りも直さずリュシオーンの決定と同意義だ。
その“神託の勇者”とやらは、どうやら魔王の弱点になりうる存在らしい。調べたところによると魔王を倒す使命を持った者だというそれが何故魔王の弱点なのか理解に苦しむが、邪悪の化身が考えることなど彼らの常識では測れない。
だが、本来ならばとっくに天界の手中に落ちているはずの“神託の勇者”は、依然として行方が知れない。
天界の目から隠れおおせるということ自体が信じがたいが、現にそれらの身柄を確保出来ていない以上、何らかの方法で身を隠しているのだろう。
リュシオーンからその探索・捕獲を命じられた火天使と風天使は、子飼いの部下を地上界へと送りそれらしき者の情報を収集している真っ最中なのである。
勿論、最高位天使である彼らが直接地上界に行くわけではないので、今は報告待ちだ。
そして、待ちの退屈を持て余したのか、セレニエレがやたらとグリューファスに絡んでくる。
「あ、そう言えばさ、ちょっと前にここで変なのを見たんだけど」
「……変なの…だと?」
火天使であるセレニエレが「変な」と形容する存在には警戒を抱かざるを得ない。渋々グリューファスは話に付き合ってやることにした。
「そう。なんかね、変な廉族のおにーさん。結構可愛い顔してたから欲しいなって思ったんだけど、シグルキアスの秘書だか執事だかなんかそんなのなんだって」
廉族のおにーさん、というフレーズに、グリューファスは思わず反応を見せそうになってそれを押し隠した。
中央殿では、廉族は珍しい……と言うか、まず見られることはない。
そもそも中央殿は、天界の中でも特に神聖な場所。天使族であっても選ばれた一握りの者しか参内することを許されていない。ましてや、下等生命体である廉族など。
それらの情報から、セレニエレと接触したのがリュート=サクラーヴァとか言う男のことだとグリューファスは直感した。
魔族の一員ではあるが、廉族のフリをしているようであったから、間違いないだろう。
“黎明の楔”に参加している彼が中央殿をウロウロしている時点で不安しかないのだが、セレニエレとも接触しているとなると、さらに警戒を強める必要がある。
現在リュート=サクラーヴァはリシャール地方へ行っているため、これ以上セレニエレと接する心配は今のところないが、戻ってきたら釘を刺しておいた方がいいだろう。
尤も……彼がグリューファスの言うことを大人しく聞くとは限らないし、そうなったときに強制する力はグリューファスにはないのだが。
「最近そのおにーさん、見ないんだよね。シグに聞いても、長期休暇をやったって言うだけだし。あーあ、また遊んでもらいたいなー」
セレニエレの声の調子に含むところはなさそうだと感じ取り、グリューファスは密かに安堵した。が、これ以上この話を続けるのは得策ではない。何か別の話題を…と思ったところで、
「そうそう、聞いてみたいことがあるんだけどさ」
セレニエレの方から、唐突に質問をぶつけてきた。彼女のその唐突さは今に始まったことではないので、不自然に思うこともなくグリューファスは彼女の質問を待つ。
「……グリュはさ、今の中央殿って、どう思ってる?」
しかしその質問があまりに核心を突きまくったものであったために、即答することが出来なかった。
もしかすると、何かを勘づいているのかもしれない。そしてそれを探ろうとしているのか。そう考えると迂闊な返答は危険過ぎる。
「…質問の意図が分からぬ。中央殿は我ら天界の意思決定機関だ。それについて一天使に過ぎぬ私が何かを思うことなど、許されざることだ」
教科書どおりの答えに、セレニエレは納得していないようだった。が、それについて追及はしてこない。
「ふぅーん、らしい答えだね。私は、今のまんまじゃ、つまらないと思うんだけどー」
「………どういうことだ?」
中央殿に対し、「今のままでは」という表現は則ち疑念を抱いていることを示す。
中央殿を牛耳る水天使の腰巾着であることを自分でも明言しているセレニエレが言う台詞とは思えなかった。
だが、セレニエレは構わずに続ける。
「どうって、そのまんまの意味。つまんないよ。執政官はいっつも似たような顔ぶれだしさ、なーんか外はギスギスしてるしさ。中央と辺境じゃ、随分と温度差あるみたいだしさ。昔みたいに、天界中から尊敬してもらえるような場所じゃなくなってるんじゃないの?」
「………………」
それ以上、グリューファスは何も言えなかった。
セレニエレの意図が分からない。ただ言葉どおりに、子供らしい無邪気さで「つまらない」と言っているだけなのか、或いは自分が現在の支配体系に疑念を抱いていると暗に告げているのか。
「私はさ、面白いのが好きだから。で、つまらないのは大嫌い。だから、天界も面白くなってくれればいいなって、そう思うんだー」
無邪気に笑うセレニエレの表情には一点の陰りもない。穢れを知らない純真な子供の姿は、他のどの天使よりも神の使いに相応しく見えた。
中年おっさん書くのは楽しいんですが、おじいさんはあんまり楽しくありません。




