第三百五話 形勢逆転
一番冷静さを保っていたのは、ノエだった。
表情と声を強張らせながらも、変貌したアリアを分析しようとしている。
「……まさか、竜族だったとは。しかも、貴様……その魔力、その異彩、ただの竜ではあるまい」
空色に輝く鱗に、純白のたてがみ。竜種としては特に巨大と言うわけではないが、それでも地上生物としては最大級の体躯から迸る魔力は、その質も量も彼らが竜と聞いて想像するレベルを遥かに超越している。
「……ふむ、やはりワタシの素晴らしさは黙っていても通じてしまうらしいな」
口調こそ今までとは変わらないが、発声器官が大きく変化したためにその声は今までの艶っぽいものとはまるで違っていた。腹の底に響くような唸りにも似た声で、アリアは嗤う。
「ワタシをここまで追い詰めたのだから、貴様らも大いに誇るが良い。その力に敬意を示し、全力で以て相手をしてやろう」
喉の奥から漏れる唸り混じりの笑い声は、どちらかと言うとラスボスの悪竜っぽいな…とアルセリアは思ったが、そこは何も言わないでおいた。
アリアの傷は、塞がってはいない。
しかし身体が巨大になった分、深手だったはずの傷はまるでかすり傷程度になっていて、今のアリアには何らダメージがないように見えた。
「……魔力の感触からすると……風の眷属か……?いや、しかし………」
力量差のある相手と戦う場合、属性を考えなければ勝ち目はない。ノエはアリアの弱点を探ろうと、自身の知識を総動員して彼女の属性を確定しようとしている。
「風の眷属は、鱗を持たないはず。しかし、あの翼は地の眷属でもなさそうだ」
一般的な話だが、竜種は属性によって大きく特徴が分かれている。
例えば風の属性を持つ種族の場合、全身が鱗ではなく体毛で覆われている個体が多い。また、地属性の竜は竜種の中でも最大の大きさを誇るが、概して翼が退化している。さらに、火属性の種族とは明らかに翼の形状が異なっていて、水属性の場合はたてがみを持たない。
これらの一般常識に照らして考えてみて、ノエはアリアがそのどれにも該当しそうにないと気付いた。
「……分からぬ。お主は、一体………?」
「ノークスさん、そんなことよりさっさと始末してしまいましょう!」
訝しむノエに、アビゲイルが震える声でしがみついた。本能的に感じる恐怖が耐え難くて、何でもいいから早く終わらせてしまいたいという気持ちが透けて見える。
「…待った、アビー。こいつ、何か危険な感じがする……」
クェンティンが、それまでとは違う真剣な声で警鐘を発するが、
「分かってる!危険だから、さっさと殺してしまうのでしょう!!」
アビゲイルは聞く耳を持たず、迅雷の如き鞭の一閃を振るった。
石造りの床さえ切り裂く凶悪な茨の一撃。しかしそれは、アリアにミミズ腫れ程度の傷も残すことは出来なかった。
アダマンタイト並みに硬い上に魔力によるコーティングも為されたアリアの鱗は、通常武器では傷一つ付けることも出来ない。それが出来るのは、手練れの猛者が振るう神授の武器くらいであろう。
「そ……そんな……そんなの、私…………認めない!」
全力での攻撃が全く無効であることに愕然とし、しかしそれを認めようとはせず、続けて鞭を振るうアビゲイルだが、アリアは躱そうとすらしない。
「どうして……どうして、通じない?どうして、通らないの!?」
認めたくない気持ちと、焦りと、恐怖は徐々にアビゲイルを侵食し、鞭を振るえば振るう程彼女の中で大きくなっていく。
しまいには半狂乱になって、ただ滅茶苦茶に鞭を振り回すばかりになっていた。
「アビー、落ち着くんだ!!」
「うるさい!くそっくそっ…死ね、死んじゃえ!!」
最早許嫁の言葉すら聞こえないアビゲイルに、ノエは危険な兆候を感じた。
元来、理性の制御が不得手な彼女は、想定外の事態に自力では対処出来ないのだ。
「クェンティン、彼女を下がらせろ!」
「分かってる!……アビー、もういいからこっちへ……」
強引にアビゲイルを下がらせようと手を伸ばしたクェンティンだったが、アリアの方が僅かに速かった。
「……ふむ。これはちと、興ざめよの」
慈悲の欠片もない声でそう呟くと、彼女の全身から紫電が迸った。一つに収束しまるで蛇のようにしなりながら、棒立ちになったアビゲイルを打ち据える。
「……………!」
アビゲイルは、悲鳴すら上げなかった。身をのけぞらせて硬直し、雷が去った後に糸の切れた人形のように、地面に転がった。
「ア……アビー……?」
震える声で、クェンティンが恋人の名を呟きながらその傍らに膝を付いた。
アビゲイルの身体を抱き起すが、その頭が、腕が、だらりと力なく垂れて彼女の絶命をクェンティンに告げる。
「………ア………アビー……アビゲイル…?…おい、しっかり…しろよ……なぁ、おい……」
クェンティンは何度もアビゲイルを揺するが、彼女が目を開けることはもうない。その事実についていけてないのか、彼はただ彼女の名を呼び続ける。
あまりに容赦のない一方的な殺戮に、アルセリアたちまで一瞬慄いてしまったのだが、いち早く復活したのはヒルダと、そしてソロウだった。
呆けている場合ではない、と咄嗟に鋼筒を構え、ソロウが照準を定めた先はベアトリクス。単純な攻撃力ではアビゲイルの鞭に劣る自分の武器では、今のアリアを傷付けることは出来ない。そのことを知った彼は、まずは確実に殺せる相手を狙うことにしたのだ。
しかし、ヒルダはそれを見逃さなかった。
「……ベル!」
彼女が短く呼びかけた相手は、金色の精霊ベルンシュタイン。常に彼女と共にあり彼女に付き従うそれは、どんな魔導術式よりも速く、彼女の願いを即座に聞き届けた。
「!?」
引き金に力を込めようとした瞬間、ソロウの視界のベアトリクスが歪んで消えた。標的を見失ったソロウではあったが、すぐさまそれが幻術に類するものだと察し、魔力反応からベアトリクスの位置を探ろうと集中する。
射手として鋼筒を極めた彼には、視力に頼らない狙撃さえ可能なのだ。
「…見つけた。姿を隠しても、無駄なことだ……」
幻の向こう側に狙うべき敵の姿を感じ取り、ソロウは不気味な笑みを浮かべた。そして躊躇なく、引き金を引き絞る。
しかし、それだけの時間があればヒルダには充分だった…彼女が必要な術式を構築するのには。
ソロウが引き金を引くのと同時に、彼女が発動させたのは加速術式。
それは、式そのものには名前さえ付いていないものである。本来ならば、従来の術式の中に組み込んでその威力を増幅させる補助式でしかないそれを、あろうことかヒルダはソロウの鋼筒の中に差し込んだのだ。
普通、外部から他者の術式に干渉して手を加えることは不可能である。
だが、ヒルダが用いたのは術そのものとしては完成されていない補助式であり、完成された術式に組み込むことを前提に作られたもの。
兄譲りの精緻な魔力制御と絶妙なタイミングで、ヒルダはソロウの術式に手を加えることに成功した。その効果は、増幅。そしてその対象属性は、炎。
火と風の絶妙なバランスで成り立っていたソロウの射出術式は、予想外のところから差し込まれた増幅補助により、その均衡を崩された。
ソロウの制御を離れたところで爆発的に増大した火炎因子は、術式を破壊し、鋼筒の中で暴発を引き起こす。
ソロウの手の中で、彼の超至近距離で、範囲こそ極小だが超高密度の爆発が起こった。
遠距離攻撃に特化した戦士…大抵は魔導士が多い…は、大抵が防御用に障壁を用いるものである。仮にヒルダが攻撃術式を放ったとしても、ソロウの障壁に阻まれて本来の威力を発揮することは出来なかっただろう。
そしてそのことに気付いていたヒルダは、敢えて未完成の補助式を用いることにより、ソロウの障壁をかいくぐることにしたのだ。
かつての彼女であれば決して用いなかった、威力に頼ることのない術式運用。
ヒルダが、それまで忌避し軽蔑してきた実兄の戦い方を受け容れた瞬間だった。
障壁の内部で爆発に見舞われ、右腕の肘から先を失ったソロウは、衝撃でひっくり返った。
そしてそのまま、動かなくなる。
「……ソロウ!…クェンティン、いつまでそうしているつもりだ!?」
仲間を二人失い、ノエはアビゲイルを抱きしめたままのクェンティンを叱咤した。
趨勢は、既に決していた。しかし負け戦だからと言って侵入者をむざむざと逃がすわけにはいかないと、ノエは目の前の敵…アルセリアを見据え、静かに刀を構える。
ノエの落ち着きに、アルセリアは内心で舌を巻いた。伏兵により形勢逆転…と思われた直後にそれをひっくり返され、戦力が半減したにも関わらず、ノエは冷静さを取り戻していた。一度乱れた心を落ち着けるのは、最初からずっと冷静で居続けるよりも遥かに難しい。
それを難なくやってのけたノエの自己制御には脱帽である。
「……見事だ、廉族の娘らよ。だが我らとてこの地で英傑などと呼ばれた戦士。このままで済ませるつもりは毛頭ない」
「そうね、私もそろそろ決着を付けたいと思ってたところなの」
ノエに応えるように己も“焔の福音”を構えるアルセリア。
負けじと精神を研ぎ澄ませ、外界のざわめきをシャットアウトする。
「では、終わらせるか」
「ええ、終わらせましょう」
集中するあまりに当初の設定(エドニス云々…)をすっかり忘れているアルセリアであったが、いい加減面倒臭くなっていたクォルスフィアはそれでいいと思ったので、ツッコむのはやめておいた。
ヒルダが受け容れたのは、あくまで実兄の「戦い方」です。あ、これ意外に使えるじゃん…みたいな。
兄弟仲最悪なのは変わりないみたいです。いつか和解できるといいですね(他人事)。




