第三百話 人間臭いところを見せられてしまうと敵でも憎み切れないものである。
「…ええと、大丈夫…ですか?」
アルセリアが尋ねた相手は、友人でも隣人でも通りすがりでもなく、れっきとした敵である。
敵ではあるが、尋ねずにはいられない。
戦闘開始前に、いきなりヒスって泣き出すのを無視して先に進むことが出来ない程度には、彼女は付き合いの良い勇者であった。
「あー…いやいや、お見苦しいところをお見せしまして」
今だにスンスン言っているアビゲイルの背中をさすりつつ、クェンティンは恥ずかしそうに頭を下げた。横のノエは、やれやれ…といった風に肩をすくめている。
「えー…じゃ、アビーも落ち着いたところで、あらためて紹介。彼女は、アビゲイル=ウィシャート。オレたちの紅一点で…」
「…クェンティンの、婚約者です……」
鼻をすすりながらも、きっちりと主張するアビゲイル。と言うかそんなとこ主張してどうする。
「はい、お互いの自己紹介終わりー!んじゃ、サクッと殺し合い、いっちゃう?いっちゃう?」
今までのゴタゴタをしれっと水に流し去り、突如クェンティンの表情に最初の残忍さが甦る。
その態度の豹変に、5人は表情を引き締めて身構えた。
「…ま、そうよね。このままお友達ってわけにもいかないし」
そう不敵に笑ったアルセリアに、それ以上に不敵なアリアが相槌を入れた。
「そうよのう。まぁ、そやつらがどうしてもと言うのであれば、全て事が済んだ後に考えてやっても良いがの」
「考えてどうするんですか」
冷静なツッコミを入れたのは、ベアトリクスである。
話しながらも闘気を研ぎ澄ましていく侵入者たちを見て、殺し合いの合意は形成されたと確信した天使組もまた、戦いの準備を始める。
互いに距離を開け、全身に霊力を張り巡らせた。
「………行きます」
意外にも、真っ先に動いたのはアビゲイルだった。
引っ込み思案を隠すことなく暴露しまくっている彼女は戦いにも消極的かと思われたが、決してそんなことはないようだ。
彼女が手にするのは鞭。お仕置き用の小さくて華奢な玩具ではない。
それは、細い細い金属をより合わせた糸で編まれ、茨の如き棘を散りばめた凶悪な兵器。
5人は、アビゲイルが右腕を閃かせた瞬間に…攻撃が届くより前に、その場を退いた。そしてそれは正解だったに違いない。鋭くもしなやかなその攻撃は音速に届くほどで、鞭の迫るのを目視してから回避したのでは到底間に合わなかっただろうから。
飛び退いたその場所に、痛々しい斬線が刻まれる。まともに受ければ肉がズタズタに引き裂かれるだろう。そういった傷は刃傷に比べ治療が難しく、厄介だ。また、剣では受けきることが出来ない。
「‘母なる神よ、その慈愛を以て我らを守り給え’」
ベアトリクスが、“聖母の腕”を起動させた。瞬時に柔らかな光が周囲を包み込み、彼女らには祝福が、天使たちには呪いが降り注ぐ。
「……これ、は………?」
自分たちに生じた異変に気付き、天使たちは狼狽を隠せなかった。それもそのはずで、本来祝福を与えることが出来るのは主たる創世神だけなのだ。それを廉族が為したことに、信じがたい思いを抱くのも当然のこと。
「……小癪な。不可思議な技を使いおって…」
ノエは苛立ちを露わにしながら腰の刀を抜き放った。その動きは、“聖母の腕”で制限されているとはとても思えないほど流暢だ。
しかし、呪いは間違いなく彼らに降りかかっている。その証拠に、顔色を悪くしたアビゲイルの第二撃は初撃ほどの威力を持ち合わせておらず、躱すアルセリアたちにも余裕が生まれたのだった。
無論、だからと言って勝利が確約したわけではない。いくら成長した“神託の勇者”と言えども、廉族と天使族では、種族としての位階が違いすぎる。
この場で天使族に勝るとも劣らない存在値を示しているのは天空竜アリアと特殊事例であるクォルスフィアのみ。アルセリアたちは、“聖母の腕”によってようやく自分たちの勝機を五分ほどにまで近づけたのだ。
「それじゃ、オレもいくとするかな」
クェンティンが構えを取った。その型といい、身に着けた手甲といい、彼が拳闘士であることに疑いはない。
天使族が徒手空拳で戦うことに彼女らが驚く暇もなく、クェンティンは僅か一歩でヒルダに肉薄した。近接格闘の遣い手として、誰を真っ先に狙うべきか十分に承知しているのだ。
一般の例に漏れず、魔導士であるヒルダの身体技能は素人同然である。アルセリアでさえ目で追うのにやっとな動きを捉えられるはずがない。懐に入られてしまえば、魔導士ほど無力な存在はないだろう。
だが、クェンティンの空気を切り裂く拳を受けたのは、ヒルダではなかった。
咄嗟に間に割って入ったアリアが、自らの腕でクェンティンの拳をガードしたのだ。
「……!へーぇ、ちょっとオレの拳を止めるとか、スゴイじゃない彼女」
驚嘆の中に何故か嬉しそうな響きを含め、クェンティンはひゅーぅと口笛を吹きながらアリアを賞賛した。
が、褒められたアリアは殊更得意になることもなく、
「ふん、見くびるでないわ小童」
そう鼻を鳴らすと、半身を翻して強烈な後ろ回し蹴りをクェンティンへと叩きこんだ。
しかしその動きはクェンティンにとって予想範囲内のものであったらしく、彼は大きく後ろに飛び退るとそれを易々と回避してみせた。
「ほう…やはり雑魚とは違うようだのう…」
クェンティンが最低限の動きで躱したのならば即座に二撃目を追加しようと意気込んでいたアリアも、彼の読みの正確さに感嘆を漏らす。
どうやらこの流れで、アリアがクェンティンの相手をすることになりそうだ。そしてアルセリアは、刀を構えるノエに静かに相対している。
となると、残るヒルダの相手はアビゲイル。金色の瞳で鞭遣いを見据えると、魔導杖を身体の前に掲げる。
「……鞭を超える射程なら、勝てると思ってますか…?」
アビゲイルもまた、ヒルダを自分の相手だと見定めたようだ。オドオドとした口調は変わらないまでも、その眼差しには廉族に対する嘲りを隠しもせず、ヒルダを挑発する。
「…五月蝿い。【爆炎雷渦】」
その挑発を一蹴すると、ヒルダが放ったのは彼女の最も得意とする炎熱系術式。上位術式に相当するが、黄金の精霊を獲得し一連の諸々で成長した“黄昏の魔女”が扱えば、それは特位術式にも匹敵する威力を発揮する。
アビゲイル程度の天使であれば、如何に高位に属するとは言えどもまともに喰らってノーダメージというわけにもいかない。
が、彼女は慌てることなく鞭を一閃させる。
アビゲイルの周囲を激烈な嵐の如く閃いた鞭とその衝撃波は、彼女に襲い来る雷を帯びた炎を絡めとった。鞭の素材である金属が特別なものであるのか、或いは何らかの特殊効果が付与されているのか、鞭は炎によって溶けることも燃えることもなく、それを掻き消した。
「遠隔攻撃なら自分に分がある…なんて、思わないで下さいね」
自信なさげに自信たっぷりな言葉でアビゲイルは告げた。
しかし、炎を容易く退けられたヒルダに焦燥も驚愕も見られない。その幼い顔は燃えるような髪や眼と正反対に、氷のように密やかだ。
彼女は既に、自分の魔導が遠く及ばない存在を知っている。その者との戦いで、己の無力を嫌と言う程思い知らされている。今さらこの程度のことで驚くようなことは何一つ無かった。
「…ふむ。あちらもなかなかに楽しそうだ。我らもそろそろ良いか?」
ウズウズと逸りを抑えきれないように、ノエがアルセリアに催促した。アルセリアもまた同感だったので、それに首肯するとクォルスフィアに視線を合わせた。
「…了解」
それだけで通じ合ったクォルスフィアは瞬時に剣…神格武装“焔の福音”へと姿を変える。
その様を見たノエは、攻撃が防がれたクェンティンとは比較にならない驚愕を見せた。
「お主……なんと面妖な…」
天使族を以てしても、クォルスフィアとヒヒイロカネの融合は想像し難い稀有な例である。見たことのない現象にノエが警戒を示すのも無理からぬことと思われた。
やや腰を落とし、刀を下段に構えてアルセリアに静かににじり寄るノエに対し、アルセリアは中段でそれを待つ。
両者の距離がある一点を超えた瞬間、ノエの姿が掻き消えた。
と思ったときには既に、アルセリアの目と鼻の先…彼の間合い内に飛び込んでいた。そして掛け声の一つもないまま、鋭い呼気と共にノエの刀は狙いたがわずアルセリアの首へ奔る。
アルセリアの動きは小さかった。構えた焔の福音を僅かに引き、ノエの刀を受け止める。その反動を生かして放たれた第二撃の逆袈裟も、力の流れを利用して受け流した。
自らの攻撃がいなされたと分かったノエは、アルセリアに対する認識を上方修正し一旦後退した。力の流れをコントロール出来る技量の持ち主に対して、無暗な連撃は愚策に終わる。
一見冷静に対応してみせたアルセリアはと言うと、実のところは驚嘆していた。
ノエの動きは彼女が今まで見た中で最も速く鋭く、そして重い。ひと昔前の彼女であれば、初撃に反応することすら出来ずに首を落とされていただろう。
だが、魔王との死闘、その後の様々な激闘、死を覚悟したアスターシャの特訓を乗り越えた彼女の中に今ありありと甦っているのは、今は亡き師匠の教え。
力より技。剛より柔。硬より流。力だけが強さではないと日々叩きこまれ、それでもそのときは体得しえなかった教えと技が、長い時間を経て彼女の中に根付いていたのだった。
「…さて、これほどの剣豪にはついぞ会ったことがなかったな。見事なものだ」
「それはどういたしまして。けどこれで終わりなんてはずはないんでしょう?」
ノエの称賛に軽口で応えつつ、アルセリアは自身を鍛えそして裏切ったかつての師に対してわだかまりを超えた感謝を抱いていた。




