第二百七十七話 恋心は蝶の如くに移ろいて。
「そう言えば、連れてこられた飼育係の方々は、どこにいらっしゃるのでしょう?」
神笏を奪還し、エヴァレイド別邸を後にしようとしたときに、マナファリアがそんなこと言い出した。
…そう言や、忘れてたけど……女中さんの話では、けっこうな数の廉族が連れてこられてたはず…だよな。
その答えは、帰りの道中に判明した。
往きはスルーしていた部屋を覗きながら帰ったのだが、その中の一つに魔獣の部屋らしきものがあったのだ。
何故それが分かったかと言うと、寝床として寝台の代わりに柔らかそうな藁が山と積み上げてあったのと、その周りに散乱する、夥しい人骨が目に入ったから。
「……これ、は………」
見慣れない光景だろうに、然程怖れる様子もなく人骨の前に屈みこんでそれを手に取るマナファリア。
「………なるほど、飼育係じゃなくて、餌だったわけか」
話を聞いた女中さんの口振りだと、エヴァレイドが廉族を集め始めたのは最近のことのように聞こえた。が、実際は怪しいもんである。
長年に渡って、イデのペットのためにあらゆる手段で食材を集めていたのではないか。
ティトと名付けられた魔獣がいつからイデに飼われていたのか分からないが、あの愛着からするとそれなりに長い付き合いなのだろう。その間、エヴァレイドはティトに食事を提供し続ける必要があったのだから。
……余罪はまだまだありそうだ。
しかし、俺たちがすべきはエヴァレイドの非人道的な所業を明るみにすることではない。神笏を持ち帰って、ローデン卿の潔白を証明することだ。
ここで無念の死を遂げた大勢の人々には申し訳ないが、墓を作ってやる余裕はない。
姫巫女らしく彼らの残骸の前で静かに祈りを捧げていたマナファリアが立ち上がるのを待って、地上へと向かう。
死者の魂は霊脈を通じて“星霊核”に還り、またいつの日か再び星を巡り、命の灯となる。
残された遺体は最早ただの物質に過ぎず、供養だとか何だとかは生きている者たちの気休めでしかない。
だがそれでも、俺の中に未だ日本人だった頃の意識が強いためか、落ち着いたらきちんとした形で供養してやりたいと、他人事ながらそう思った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ミシェイラ=ローデンは、一人ロセイールの街を歩いていた。
街は花祭りの喧騒に彩られ、あちこちに配置された篝火のせいで日の暮れた現在でも独り歩きに支障はない。
これだけ人通りが多ければ安全だろうと、彼女は一人になることを求めた。
実際には、離れたところでエウリスが見守っているのだが(アリアは屋敷の留守番である)、彼女はそれに気付いていない。
すれ違う人々は皆、色恋沙汰に浮かれ切っている。たとえ恋仲の相手がいない者でも、今日こそは…と張り切るのが花祭りの常なのだ。
彼女も、今までならばこの喧騒を楽しんだものだ。未だ恋愛事には積極的になれない彼女ではあるが、それを差し置いても祭りの雰囲気は心を躍らせる。
しかし今の彼女の心は、躍るどころの話ではなかった。
エヴァレイドの別邸へと赴いたリュートとマナファリアは、無事に帰ってくるのだろうか。
そして、無事に神笏は見付かるのだろうか。
待ち続けるしかない彼女にとって、祈る以外の選択肢は持ち得ない。
だが、自分の祈りは気休めにもならないということも、彼女にはよく分かっていた。
居ても立ってもいられずに屋敷を飛び出したのはいいものの、ただ無意味に街を彷徨うだけ。彼女の中の不安は、屋敷で座り込んで待っているときと何ら変わらない。
……やはり、屋敷へ戻ろう。
そう思い、方向を変えたそのとき。
「……ミシェイラさま!」
呼ぶ声がして、シグルキアスが向こう側から姿を現した。
人込みを掻き分けるようにして、ミシェイラの元へ。
すっかりミシェイラの心証も良くなったシグルキアスだが、今回の彼女とウルヴァルドの窮状を知っているせいか、いつになく真剣な表情である。
それが、自分と父を案じてくれているためだと、ミシェイラには分かっていた。
だから、無理にでも笑顔を作って彼に応じる。
「……こんばんは、シグルキアスさま。どうなさったのですか、そんなに慌てて」
「ミシェイラさま…その、私は……」
シグルキアスは少し言い淀んで、しかしきっぱりとした口調と態度で言った。
「ミシェイラさま。私は、貴女とローデン卿の味方です」
「……え?」
思いもよらない一言に唖然とするミシェイラに、シグルキアスはさらに続ける。
「立場上、お父君とエヴァレイド卿どちらかに加担することは出来ません。ですが、私自身はローデン卿を信じております。それを、貴女にお伝えしたくて………」
真剣な眼差しでミシェイラを見つめるシグルキアス。
執政官の一人である彼にそう言ってもらえたことに安堵と喜びを感じて、ミシェイラは思わず目を潤ませた。
「……ありがとうございます………」
そしてシグルキアスはと言えば、目をウルウルさせて微笑むミシェイラを前に、ここが勝負時だと直感した。
今こそ、厳しい修行の成果を見せる時だ…と。
「ミシェイラさま!」
一際強く名を呼ぶと、シグルキアスはミシェイラの手を取る。
急なことに驚くミシェイラだったが、シグルキアスのどこか思い詰めたような表情に、その手を振り払うことが出来なかった。
「私は、今回の件は関係なく、貴女をお慕いしております。貴女を守りたい、支えたいと…思っております。どうか、これを受け取ってはいただけませんか?」
そう言うと、シグルキアスは胸に挿した一輪の花を、ミシェイラの目の前に捧げる。
淡い虹色に輝く花弁の、凛としながら儚げな花。
それは、天界の中でもごく一部の聖域にしか咲かないという、天嶺花と呼ばれるものだった。
咲く場所が限られているだけでなく、開花条件もまた限られているため、幻の花とも言われ、その価値は非常に高い。
ミシェイラは一瞬その輝きに目を奪われ、しかし心までは奪われていない自分に気付いた。
シグルキアスは、変わった。
それまでの、傲慢で自分勝手な面はもう何処にも見えない。
見栄や外聞でミシェイラを求めているのではなく、本心から彼女を想ってくれている。
今のシグルキアス=ウェイルードであれば、生涯の伴侶として受け容れることに抵抗はない。きっと、自分を幸せにしてくれるだろう。今は彼に対して抱いていない恋愛感情も、共に過ごすうちに芽生えてくるに違いない。
自分の将来や、ローデン家のことを考えれば、彼の申し出を断る理由など見当たらなかった。
しかし……
「そのお心は、ありがたく思います。……けれど、申し訳ありません」
ミシェイラは、捧げられた天嶺花の前に深く頭を下げた。
彼女が待っているのは、シグルキアスでも、彼との穏やかで安定した未来でもない。
彼を傷付けると分かっていても、こんな優良物件を手放すなんて愚かだと分かっていても、彼女は、今の自分の気持ちを偽ることは出来なかった。
「……そう、ですか………」
見事フラれる形になったシグルキアスはしかし、落胆は大きそうだが食い下がることはしなかった。寂しさと安堵が入り混じったような弱々しい笑顔を浮かべ、
「なんとなく…ですが、そんな気がしておりました。……貴女には、他に待つ人がいるのですね?」
ミシェイラに訊ねると言うより、自分に確認するかのように呟いた。
「それは………」
すでに結論を出しているシグルキアスとは反対に、ミシェイラはどう答えていいのか分からない。
確かに、現在における彼女の心を占めるのは、父のことだ。そして、そのために危険を冒しているリュート=サクラーヴァという廉族の少年に対して、親愛の情を超えた想いを抱いていることも事実。
だが、彼女はリュートに想いを伝えることに躊躇を感じていた。
それは、身分や種族の差のためではない。想いの前にそんなものは些事に過ぎないと彼女は思っている。
しかし、彼の中には既に大切な相手がいるのだということも分かっている。
確かにリュートは言っていた。自分には大切な相手がいて、それに顔向け出来ないような真似はしたくない…と。
それが恋仲なのかどうなのかは、一切言及していなかった。だが、自らの誇りを奮い立たせるような相手ならば、たとえ恋仲ではなかったとしてもそれ以上に大切な存在なのだろう。
だからミシェイラは、自分の気持ちに蓋をしようと思っていた……今の今まで。
しかし、続くシグルキアスの一言に、彼女は自分の意気地なさを恥じた。
「…隠さずとも良いのです。誰かを想う気持ちが尊いものであることは、この身に染みて分かっております。そして、貴女が想いを寄せられているというなら、そのお相手はさぞ素晴らしい方なのでしょう。ですから貴女も、ご自分の気持ちに背を向ける必要はありません」
たった今フラれたばかりのシグルキアスは、だからこそミシェイラに諦めてほしくはなかった。
控えめで、いつも自分の気持ちを後回しにしてしまうミシェイラのことだから、もしかしたら自分に気兼ねして素直になれないのかもしれない。
だが、それは間違いなのだと伝えなければ。
「自分の想いを否定することは、自分自身を否定することと同義です。貴女は、ご自分の気持ちに向かい合わなくてはなりませんよ……私のように、ね」
泣き出しそうな笑顔で茶目っ気たっぷりに言われてしまっては、ミシェイラとしても腹を括るしかない。ここで逃げ出したりしたら、女が廃るというもの。
「……分かりました、シグルキアスさま。…ありがとうございます!」
だから、傷心をひた隠して自分の背中を力強く押してくれたかつての恋人候補に、彼女は多分今までで一番の、とっておきの笑顔で応えたのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「あ、旦那さま!どうでしたか!?」
屋敷で待つも落ち着かず、つい気が逸って外に飛び出たスパルタ教師は、通りをトボトボと歩く家主に気付き声をかけ、そのトボトボ具合に状況を察した。
「アルシー、すまなかったね。あんなに色々頑張ってくれたのに…」
申し訳なさそうな笑顔で謝罪するシグルキアスはしかし、アルセリアの予想とは違ってやけに晴れ晴れしい顔をしていた。
「…旦那さま?」
その表情が不可解で、アルセリアは首を傾げる。
シグルキアスのミシェイラへの入れ込み具合は本物で、一度フラれたくらいであっさりと引き下がるとは思えなかったのだ。
なにせ、これまでずっと控えめな拒絶を食らい続けていたのだ。それでも諦めることなくしつこくアプローチをかけていたシグルキアスが、好青年に生まれ変わった今、なぜもっと粘ろうとしないのか。
「……不思議なものでね。僕には、何故か分かっていたんだよ。彼女には……想い人がいるって。分かってはいたけど、自分の気持ちを伝える前に結論付けて諦めたくはなかったからね」
「……いいんですか?」
「いいも何も、彼女の気持ちを無視することは出来ないだろう?それに………」
「……………それに?」
言葉を切って、じっとアルセリアを見つめるシグルキアス。
その瞳に、得体の知れない熱を感じ取って、アルセリアは思わず一歩後ずさった。
「僕はおそらく…意地になっていただけなんだ。彼女はとても素晴らしい方だし、伴侶として迎えることが出来ればお互いにとって有益だとも思う。けれど、彼女に断られた瞬間、僕は気付いてしまったんだ」
アルセリアが後ずさった分、シグルキアスは前進。
「そのとき、僕は落胆はしたけれど悲嘆はしなかった。残念だとは思ったけど、そこまで悲しくもなかったしショックでもなかった。……何故か分かるかい?」
「え……あの、分かりません旦那さま。…て言うか、ちょっと近いです」
熱の籠もったままの眼差しで、シグルキアスはアルセリアの手を取った。
「僕の気持ちは既に、君に向かっていたからだよ…アルシー」
「……………はいぃ!?」
いきなりの告白タイムに、硬直するアルセリア。
「ちょ、急に何を言い出すんですか旦那さま???」
混乱するアルセリアに対し、シグルキアスは至って平静、至って真剣。
「急な話でもないんだよ。君は、この僕に対してへつらうことも恐れることもなく、本気でぶつかってくれた。家族よりも真っすぐに、僕に向き合って僕に寄り添ってくれた」
「え、いえ、あの、それは仕事だから……って、近い!近いですってば!!」
熱に浮かされたような顔で、シグルキアスはアルセリアに迫る。このままだと勢いでキスしちゃうのではないかというくらいまで顔を近付けて、
「僕が本当に求めているのは、本当に必要とするのは、君なんだよアルシー……」
「いや、それは駄目ですってば無理ですってば!!」
アルセリアは、世話の焼ける家主であるという以上の感情をシグルキアスに抱いていない。そもそも、忘れがちだがそれもこれも天界の情報を入手するという思惑のためであり、彼には非常に悪いが個人的に仲を深めるつもりはない……なかった、はずだ。
ついつい調子に乗って深入りしてしまったツケが、現在の状況なのか。
「確かに、君が気後れする気持ちも分かる。けれども、本当の気持ちの前に身分や種族の差など何の意味もないのだよ。必要なのは、愛。……そう、愛さえあれば、いかなる障害も僕たちを阻むことなど出来はしない!」
すっかり鳴りを潜めたはずのシグルキアスの暴走が、再び顔を出した。のけぞるアルセリアに、ぐいぐいと迫っていく。
「ちょちょちょ、ちょっと待って愛とかそういうんじゃ…」
「大丈夫、口さがない連中の視線からは、僕が守るよ」
「だからそういうことじゃなくって」
「君は何も心配せずに、僕の傍にいてくれるだけでいい」
「だからそういうわけにもいかないんで」
「何一つ不自由させないと誓うよ」
「話をきーいーてぇぇぇ!!!」
地上界の希望の星、神託の勇者アルセリア=セルデンは、かつてない危機に直面していた。
もしかして、作中で一番奥手なのって勇者かもしれません。




