第二百六十五話 シグルキアス、立つ。
なーお、なーお、んなーーお。
黒猫が、啼いている。
「エルにゃん、どう?」
そんな黒猫に、庭仕事の最中に強すぎる日光を避けるためほっかむりをした少女が話しかけた。
猫に「どう?」と話しかけたところで、返事が返ってくるはずもない。だが、その黒猫は振り返ると、少女の肩にぴょんと飛び乗って、
「…駄目ですねぇ。やはり、天界とでは距離がありすぎるようです」
……と、答えた。
ここは、天界の中央都市、ロセイール。その一等地に立ち並ぶ、豪奢な屋敷の一つ。
天界のエリートである士天使、シグルキアスの邸宅である。
「そっかー。魔界と連絡が取れれば、ギルに私たちの無事を伝えることも出来るかもしれないのにね」
がっくりと肩を落とすクォルスフィア。
未だに、リュートとは連絡がついていない。さぞ心配しているだろう…自棄を起こして暴れなければいいんだけど…といい加減心配になってきた今日この頃。
兄と時空間を超えた通信が可能なエルネストならば、せめて魔界に自分たちの無事を知らせることが出来るのでは…と思ったのだが、地上界と違い、天界と魔界は離れすぎていて(物理的な距離ではない)、上手くいかないようだ。
「ああ……いつまでもこんなところでこんなことをしている場合ではないのですけどねぇ…」
いつも飄々としているエルネストも、流石に参っているようだ。
…と、クォルスフィアは思ったのだが。
「魔界では、仕事が山積みなんですよ……ああ、進捗状況が気になる……」
「仕事?エルにゃんの仕事って、何?」
魔王の側近なのだから、何か征服活動とか弾圧とか虐殺とかそういう血生臭いものを期待して訊ねたクォルスフィアに、エルネストは誇らしげに、
「私が陛下より賜った使命は、多岐に渡ります。まずは、穀物の改良・生産。それから、安定的な食肉生産のための公衆衛生の向上、乾燥と病気に強い作物の品種改良……」
自分が総責任者として任されている仕事を、次々と列挙していく。
「え……ちょっとエルにゃん、それって……仕事?」
「当然じゃありませんか!実にやりがいのある、崇高にして壮大な責務です!」
四足歩行でなければ、胸を張っていたに違いないエルネスト。
「…やりがい……崇高……壮大…?」
「その他に、発酵食品の研究も仰せつかっております」
「………薄幸?発光?」
「陛下は、これらは世界統一に勝るとも劣らない重要な戦略だと仰っておりました」
「……ギル………魔界をどうするつもりさ……」
エルネストが魔王より与えられた理への干渉権限、“権能”は、「分析・解析・改良」。
用途によっては、世界をも改変しうる性質を持った恐るべき力だが、与えた理由も使わせ方も、完全に魔王の趣味嗜好に偏っているのだと、クォルスフィアは確信したのだった。
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「決めたよ、アルシー」
すっかり爽やか好青年になってしまったシグルキアスが、きっぱりと言った。
「僕は、ミシェイラさまに求婚しようと思う」
おおーぱちぱちぱち。
それを聞いたアルセリア他使用人一同は、思わず感嘆の声を漏らし手を打ち鳴らしていた。
アルセリアのスパルタ恋愛講座は、もう一月ほど続いていた。
その間、シグルキアスは理不尽にも思えるアルセリアの厳しい教えに必死で食らいつき、見る間に欠点を克服していった。
今や、意識しなくても他人の話をきちんと聞くことが出来る。自慢話も、驚くほどに減った。会話にユーモアを交えることさえ可能になり、考えてみればそれはごく当たり前のことだったりするのだが、あのシグルキアスがここまで成長するとは、当のアルセリアですら思っていなかったのだ。
しかも、こんな短期間で。
自身の成長を実感しているのだろう、シグルキアスの態度の端々には、いい意味での自信が見られるようになっていた。
今のシグルキアスは、何処に出しても恥ずかしくない名門の若旦那である。
……ようやくスタートラインに立ったばかりだ、というご指摘はご容赦願いたい。
「…そうですか。とうとう、決心されたんですね」
そう言うアルセリアも誇らしげだ。後ろで仲間たちが微妙な顔をしていたりするのだが、それでもこの達成感は本物なのだ。
「今の旦那様ならば、きっと上手くいきます。…応援してますからね!」
「ありがとう。これもみんな、君のおかげだ」
アルセリアとシグルキアス、固く手を握り合う。
「……このコントっていつまで続くんでしょうか」
「しーっ、面白いから黙ってて」
エルネストとクォルスフィアがこっそり耳打ちしあっていたり、
「………アルシー、どこに行っちゃう…?」
「大丈夫、きっと彼女は戻ってきてくれますよ……いつの日か」
不安げなヒルダをベアトリクスが宥めているのだが、的外れな使命感(シグルキアスを無事ミシェイラとくっつけるという)に燃えているアルセリアは、それに気付いていない。
「それでは、決行日はいつに?」
「それなんだが、最近ミシェイラさまはお父君のところに滞在することが多くて、なかなかチャンスが少ない……が、今度の花祭りは皇都で迎えると以前に仰っていたからね。その時を狙う」
花祭りは、身も蓋もない言い方をしてしまえば、男女のための祭りである。
礼節や貞淑が尊ばれる天界においては、意中の相手に積極的になるのも簡単ではない。が、花祭りの日だけは特別で、想い人に花を贈り気持ちを伝えるという行為に、普段は口うるさい年寄りたちも寛容になるのだ。
元々は、天地大戦時の悲恋物語から生まれた祭りなのだが、現在ではすっかり告白チャンスデーと化している。
「ならば、立ち止まっている暇はありませんね!」
「そうだとも。僕は、より一層の高みへと昇らなければ!」
祭りの日まではまだ少し時間がある。
スパルタ教師とボンボン生徒は、その日に向けて特訓のラストスパートをかけることにしたのだった。
現在リュートは勇者一行と同じ天界にいるのですが、まさかそうとは思っていないので霊脈を使って居所を探るとかやってません。やってたら話は早いのに、そこのところ間抜けな魔王です。
サファニールの認識操作のせいで勇者たちは姿と一緒に気配も変わってるので、もしかしたら気付かないかもしれませんけど。




