第二百三十三話 グリード=ハイデマン
さて、これからが一仕事だな。
ルシア・デ・アルシェに置かれた自身の執務室。
椅子の背もたれに体重を預け深く息を吐き、気合を入れ直したところで、グリード=ハイデマンは、自分が意外なほど落ち着いていることに気付いた。
問題は、山積みである。
魔王の顕現。
天使の介入。
そして、“神託の勇者”一行の消失。
そのどれもが、世界の命運を左右するレベルのトラブルばかりで。
正常性バイアスに近い心理かとも思ったが、違うようだ。現に、彼の頭の中では、最悪の展開もシミュレートされている。
現実から目を逸らして行動に移さないような愚を犯すグリードではない。
それでも、魔王だの天使だのという問題に関しては、慌てても仕方のない面がある。
ここまで人智を超えてしまえば、出来うる手は全て打った上でどうにもならないのであれば、それは仕方ない。
正しく、人事を尽くして天命を待つ、の心境。やるだけやってダメならば、諦めもつくというもの。
しかし……娘たちに関しては、別だ。
グリードは、娘同然である勇者たちが命を落とすようなことがあれば、自分はさぞ悲嘆にくれるのだろうと思っていた。
が、今の彼にそういった気配はなかった。
ならば彼は、娘の死にも心動くことのない冷血漢なのか。
……そうではない。
彼はまだ、三人は死んだと認識してはいない。
死体は見つかってない。
則ち、死んだと確定は出来ないのだ。
ならば、生きている可能性もあるだろう。
彼の娘たちは、こんな、訳も分からないうちに十把一絡げに殺されるようなタマではない。
死んだという確証を得ない限り、彼は、娘たちの死を信じない。
それは、多分に願望が込められた気持ちだろう。
だが、それで構わないと彼は思う。
何よりも避けなければならないのは、ここで狼狽えて、悲嘆して、立ち止まることだ。
せっかく天使から半年の猶予をもぎ取ったのだから、脆弱な廉族なりに、ギリギリまで粘ってみせよう。
それでは、どのような手で粘るか。
グリードは、会議の席で枢機卿仲間が提案したことを思い返していた。
……竜族に、助力を求める。
これは、なくはない話である。
尤も、竜族側からしたら廉族に協力する理由も利点も乏しい上、彼らの人間に対する印象は余り良いとは言えない。
天界を敵に回してまで、共闘してくれるかどうか。
だがしかし、話の持って行き方によっては、彼らを頷かせることも出来よう。
……問題は、竜種を味方につけたところで、天使族に勝てるかどうか。
天使の要求を突っぱねて竜族と組むということは則ち、天界に対する叛逆の意を示す。宣戦布告と受け取られても、文句は言えない。
面子を潰された天界は、全力で地上界を攻撃するだろう。ただでさえ、彼らは竜種を警戒しているのだから。
そうなった場合……個々の能力は優れているが個体数の少ない竜族と、数だけは多いが脆弱な廉族に、天界との全面戦争を乗り切る力があるのだろうか。
「……流石に、ムリな話だねぇ」
思わず、そうぼやいていた。
ならば、天使族の要求に応じるか。
確かに、数千の贄を献上すれば、それ以外の大多数は助かる……一時的には。
しかし、天界の要求がそれで終わる保証はどこにもなく、また、天界に従うということは魔界と完全に敵対するということでもある。
天使たちが贄を用いて幻獣を召喚した場合、その時点で開戦だろう。勿論、戦場は地上界。そうなれば、数千ではきかない数万、数百万の犠牲が生まれることになる。
…では、逆転の発想で魔界側につくか。
現在のところ、魔王には地上界を滅ぼそうという気はないらしい。ヴィンセントたち調査団が生きて帰ってきたのが証拠だ。
ならば、礼を尽くし忠誠を誓えば、もしかしたら受け容れてもらえるかもしれない。魔王の庇護があれば、天界を敵に回したとしても生き延びることが出来るかもしれない。
かもしれないだらけで、実に消極的な案である。
が、同時に、最も確実に地上界を守る道ではないかと、グリードは思う。
それは、彼が魔王を知っているから。
しかし、その案には致命的な問題がある。
彼以外の全ての廉族…ヴィンセントや姫巫女マナファリアは例外として…が決して是とは言わないであろうこと。
地上界において、魔王は全ての敵である。邪悪で、残忍な、破壊の権化。
魔王に膝を付くくらいなら、大多数の人間が喜んで天使の贄となることを選ぶだろう。
それほどまでに、地上界と魔界の断絶は深い。
ならば、どうするべきか。
煮詰まった考えをリセットしようと、彼は付き人にお茶を命じるため呼び鈴に手を伸ばす。
が、それを鳴らす直前、あわただしいノックの音が響いた。
あわただしくノックをした神官は、あわただしく部屋へ入ってくると、あわただしく用件を告げた。
「グリード猊下には、ただちに第一聖堂へお越しいただくようにと教皇聖下のご指示です。その、姫巫女マナファリアさまに神託が降りたとのことで」
「……神託だと?それは、本当かね」
「ええ、はい、そう聞いております、が、どうもその、要領を得ない内容とかで、聖下は判断を迷っておいでのようです」
……と、なんとも要領を得ないことではあるが。
とりあえず、グリードは指示された聖堂へ向かう。
神託の内容は分からないが、どうでもいい内容で降りるものではないことは確か。良い方向にせよ悪い方向にせよ、事態が大きく動き出すことになるはず。
彼が到着したとき、聖堂には教皇以下、他の枢機卿全員も集まっていた。
皆それぞれ、困惑した表情を隠さない。
そして彼らに囲まれているのが、聖央教会の姫巫女マナファリア。
熱に浮かされたような、ぼうっとした表情。
上気した頬に、潤んだ瞳。
……グリードは、以前に姫巫女のこんな姿を見たことがある。
「グリード、君のところの姫巫女なのだけどね」
教皇ファウスティノが、思案顔で問いかける。
「神託を受けたのだけど、どうも内容が我々にはよく分からないのだよ。君ならば、もしかしたら…と思ってね」
「承知しました。……姫巫女よ、何があったのか話してくれるかい?」
ファウスティノの依頼を受け、グリードはマナファリアへ語りかける。
マナファリアはグリードの姿を見ると、弾けるような満面の笑みを浮かべた。
…浮かべて、こう言った。
「グリード猊下、あの方が、愛しいあのお方がようやくお越しくださいます!私、ずっとずっとお待ちしていた甲斐がありました!」
抱きつかんばかりの勢いで歓喜している。
グリードには当然、彼女の言わんとしていることが瞬時に分かった。
が、他の面々の手前、もう少し情報を引き出そうとする。
「…マナファリア。君が受けた神託を、私にも教えてくれないか」
「はい!あの方は、遠い地より私に語り掛けてくださいました。…いと高き黒の王は、我らにそのご意志を告げに降臨されます。我らは、選ばねばならないでしょう」
途中から受託モードに切り替わったのか、マナファリアの瞳から意志の光が消え、無機質な声が超常の者の声を届ける。
それは……魔王からの、メッセージ…だろうか。
「その王とやらが現れるのは、いつになるだろうか」
「……月の最も高く昇る頃、おいで下さるとおっしゃっておりました」
そう答えるマナファリアは、元に戻っていた。
愛しい相手に会えるという期待に胸輝かせ、そのときを今か今かと待ち構える遠距離恋愛真っ最中の恋人のように。
……尤も、それは彼女の暴走ぎみの勘違いなのだが。
「グリード、どう思う?彼女は一体、何を告げているのか……あの方にお会いできると、そればかりで埒が明かないのだよ」
困り果てた様子の教皇。
だからグリードは、自分の分かる限りのことを伝えた。
「いと高き黒の王……これは、魔王のことでしょう」
字面的に不思議でもなんでもないのだが、それを聞いた周囲の驚愕は凄まじかった。
「な……魔王…だと!?」
「なぜ魔王が、神託を…」
「それよりも、現れると言うのか、此処に?」
無理もない。
魔王が聖職者に会いに地上界へ顕現するなど、彼らにとって正に青天の霹靂。
天使族ならばまだしも、魔王を迎える心の準備など出来ようもない。
そんな彼らに構わず、グリードは淡々と続ける。
「魔王とは、我らが創世主と対極にして同格の存在。神のように振舞い神託を降ろすことも、おそらく可能かと思われます」
可能も何も、既に実証済みだったりするのだが、それは言わないでおいた。
「姫巫女はおそらく、創世神と魔王とを混同しております。彼女の様子から、それは間違いないでしょう。そして問題は……」
「我らは、選ばねばならない……」
グリードの後を引き継ぐように、教皇が呟いた。
その言葉は死刑宣告のように、静まり返った聖堂の中にぽつんと落ちた。
「選ぶ……とは、天界か魔界か、ということ…でしょうか」
「服従か死か、ということかもしれんぞ」
「どのみち、同じことではないか!」
「しかし、魔王が我らに選択肢を与えようと言うのが不可解……」
口々に疑問を並べる枢機卿たちの中で、グリードもまた頭を捻っていた。
これは、どういう展開になるのかが読めない。
だが、間違いなく此処に現れるのはリュート=サクラーヴァではなく、魔王ヴェルギリウス。仮にリュートが来るのであれば、こんな大仰な方法を取らずに直接自分を訪ねてくるだろう。
それをしなかったということは……姫巫女まで使って聖教会のトップ連中に言葉を伝えたということは……魔王として、自分たちに求めるものがある、ということ。
内容如何では、天使よりも遥かに厄介なことになるかもしれない。
何らかの形でリュートに連絡を取ることが出来れば…或いは、内密に魔界の庇護を得ることが出来れば…などと考えたことは確かだが、まさかこういう形になるとは。
後は、この予想外の状況を、自分たちに都合の良い展開へと導かなくてはならない。
魔王を上手く言いくるめることが出来れば…光明は見えてくる。
そして今、そんな離れ業が可能なのは、世界中でグリード=ハイデマンをおいて他にいないようだった。
もう少しだけ、おっさんの活躍にお付き合いください。




