第二百三十二話 天使の要求
聖堂に、光が満ちた。
鮮烈な、神々しい光。しかし同時に、全てを照らし出すかのような、容赦のない光。
そこに、温かみはない。
突如現れた存在…その背に白い翼をはためかせている天使…に、教皇を始めこの場にいる者は皆、一言も口を聞けずにいた。
息を呑み、荘厳な光景に心を奪われる人間たちを睥睨し、その天使は満足そうに微笑んだ。
そして、告げる。
「小さき者たちよ。ついに魔王が世界に牙を剥いた。我ら全ての神の子は、これを打ち滅ぼさねばならない」
囁きのような、小さな声。
しかしその声は、広い聖堂の隅から隅まで響き渡った。
波紋のように、楽の音のように。
気付けば、教皇は御簾から出てグリードたちのところまで降りてきている。
高位生命体を前に、上座に居続けることなど出来なかったのだ。
そして真っ先に教皇が、以下の全員がそれに続いて、天使に跪く。
天使は、その光景をさも当然であるかのように見下ろしていた。
「我が聖母の僕たち、汝らの身を、力を、その全てを捧げよ」
「全ては、御神の御心のままに」
天使の言葉に、教皇は頭を垂れたまま答える。
彼も、他の枢機卿や大神官たちも、顕現した天使の姿に心を打たれ、そして希望を見出し、その態度を以て忠誠を誓おうとしていた。
その横でグリードは唯一人、警戒する。
彼は、自分のすぐ横にいた同輩と目が合った時、その目が「どうだ、やはり天界は我らにお味方下さるのだ」と語っているのに気付いた。
味方………本当に、そうだろうか。
味方となる者に対して、「全てを捧げよ」などと、要求するのだろうか。
「尊きお方よ、お教えください。我らは、どうすれば良いのでしょうか」
懇願する教皇に、天使は鷹揚に頷いた。
「じきにこの地上界は、戦場となるだろう。汝らは、それに備えるのだ」
「…しかしながら、脆弱な我らに、どのように備えろと……?」
口答えされた天使は一瞬表情を曇らせるが、すぐにそれを消した。そして再び笑みを浮かべると。
「我らはこれより、この地に強大な幻獣を召喚する。汝らは、そのための依り代と贄を用意するのだ」
美しい微笑みで、告げた。
「…依り代…………贄……?」
天使の口から飛び出した単語に、教皇は絶句する。
彼には、その言葉が意味するところが十分に理解出来ていた。
おそらく……彼以外の、全員にも。
「そう…二、三千もあれば、巨獣べへモスを五十体は召喚出来よう。汝ら廉族には、神の尖兵として殉ずる栄誉が与えられる。喜ぶがいい」
天使は、冗談で言っているようには見えない。本気で、神と自分たちのために地上界の民がその身を喜んで捧げると、信じている。
或いは……信じてなくとも、そうさせるつもりでいる。
「お待ちください……それは、二、三千の人の命を、犠牲にしろということですか…?」
恐る恐る訊ねた教皇にも、天使はさも当然、と頷いた。
「これは、世界の命運…存続を賭けた戦いである。我が聖母亡き今、悪しき王を打ち滅ぼすためには全ての生命が全てを捧げるより他ない。汝ら廉族は、その先駆となるのだ」
「………………!」
教皇は絶句し、背後の面々を振り返る。
その顔は蒼白で、誰かに救いを求めているかのように見えた。
天界の要求。
彼ら廉族に、拒むことは赦されない。
何故ならば……
「もし……もし仮に、ですが…ご要求にお答えすることが出来なかった場合………」
「そのような選択肢は汝らには存在しない。が、仮に汝らの力及ばず我らの望みが叶わなかった場合は、我らが直接、贄を選別するだけのこと」
最初から、天使たちは廉族に一つの答えしか求めていない。
嫌だと言ったら、出来なかったら、などという事態は容認するつもりはないのだ。
「汝ら自身に、殉教者を選ばせてやろうという慈悲だ、光栄に思え。そして我らの慈悲を拒むと言うのであれば、汝ら地上界の民は須らく、聖戦に殉ずることとなるだろう」
「………そんな………」
それは則ち、贄を差し出さなければ地上界を滅ぼす、と言っているに等しい。
しかし、だからと言って数千もの人間を生贄に差し出せと言われて即断することは、出来ない。
信仰の在り方は変わってきている。かつてならば、身を捧げろと言われて歓喜し応じる狂信者も少なくなかったかもしれないが、現在は違う。
いくら世界を守るためとは言え、信者に命を捨てろとは言えない。
「……尊き御方よ、猶予を戴きたい」
絶句する教皇を見かねて発言したのは、グリード。
天使は、自分を前にして臆することのない力強さを持った彼の声に、興味を惹かれたようだ。
「猶予、とな」
「…は。崇高なる御身であればご理解いただいているとは存じますが、我ら地上界の民は、数も種族も非常に多く、またその信条も様々です。お望みどおりの数をご用意するには、時間が必要です」
猶予を求めつつも要求を呑むことを暗に提示したグリードに対し、天使は少し考える素振りを見せ、
「それは、どれほどだ?」
「少なくとも………一年は戴きたいかと…」
「長すぎる。悪しき王の魔手はそれほどの時間を我らに与えぬであろう」
予想どおりの天使の拒絶。ダメ元ではあったのだが、最低限でも欲しい期間を承諾させるためには必要なクッションだったのだ。
「それでは、せめてその半分……どうか、半年の猶予を、お慈悲を賜りたく……」
グリードは、苦渋の決断で猶予を希望の半分にした、と言わんばかりに震える声を絞り出して平伏し、頭を地面に押し付けた。
天使は、先ほどよりも長く思案していた。
グリードの頼みを突っぱねて自分たちの手で贄となる廉族を狩ってくるのと、贄の選別を廉族自身に任せるのと、どちらが良案なのか。
しばらく考えた後に、天使は頷いた。
「良かろう、ならば汝らには半年の猶予を与える。ただし、半年過ぎてもなお我らの求めに応じない場合は、償いとして地上界には滅びてもらうことになる」
「寛大な御心に、感謝いたします………!」
グリードは、感激に声を震わせる神徒を演じ、再び平伏。
置いてきぼりにされた形の教皇以下他の面々は、呆気に取られながらもそれに続いた。
「ならば、小さき者たちよ。汝らの信仰を、忠誠を示すがいい」
そう言い残し、来た時と同じ不快な軋み音と共に、天使は去って行った。
しばらくの間、誰も何も言わなかった。
自分たちの身に起きたことが、本当に現実だったと俄かには実感し難く、互いに顔を見合わせるばかり。
やがて、ちらほらと我に返る者たちが現れ、騒ぎ始めた。
「……グリード殿、どういうおつもりですか!贄などと……貴殿の独断でそのような…」
「落ち着いていただきたい。あの場で天使の要求を拒んでいれば、我らの命はありませんでした」
詰め寄る枢機卿を軽くいなし、グリードは立ち上がる。
そして、まだへたり込んだままの一同を見渡した。
「いいですか、天使族が…天界が我らに先の要求をした以上、我らに許された選択肢は限りなく少ない。勿論、そう簡単に応じることの出来るものではありません。が、拒絶したからと言って免れるものでもない!どのみち彼らは、どのような手段を用いてでも贄を手に入れることでしょう」
「しかし……どうすればいいのだ?まさか世界中に、贄を差し出せとお触れを出すわけにも…」
「残念ながら、私にも現在、妙案はございません」
俯いて呟く教皇に、グリードは告げる。
「しかし、そのための猶予です」
「…どういうことだ、グリード?」
妙案はなくとも何か考えがありそうな気配のグリードに、教皇は顔を上げた。
そして見たグリードの表情が決して明るくない、険しいものであることに落胆し、しかし同時に、諦めの表情ではないことに期待を寄せる。
「お前は、先ほど魔界の一件を自分に一任してほしいと言ったな。……その思いは、今も変わらないか?」
あまりに状況が変わり過ぎてしまったに関わらず、思わず教皇はそう訊ねていた。
そう訊ねたくなるような落ち着きが、グリードにはあったからだ。
「そうですね……無論、何か良き考えがありましたら提案していただけると助かります。しかしながら、陣頭指揮は私にお任せいただきたい」
グリードのその言葉に、先ほどは反対していた者たちも、今度ばかりは声を上げることが出来なかった。
天使族と交渉してみせるなど、彼以外の人間に出来ることではない。
彼ならばもしかしたら…。
「…分かった、君にお願いしよう。……けれどグリード、これだけは忘れないでほしい。もし、失敗したとしても……大勢の命が失われたとしても、その罪は君一人のものではない、ここにいる全員の…そして教皇たる私の、罪だ。……いいね?」
グリードが差し出した手につかまり立ち上がりながら、教皇はそう言って、周囲を見渡す。
異を唱える者は、いなかった。
「ありがとうございます、聖下。この身命を賭して、地上界をお守りいたしましょう」
グリード=ハイデマンは枢機卿であるのだが、この瞬間の彼は、勇者もかくやと言う決意を双眸に宿らせていた。
グリード、頑張ります。




