第二百三十一話 侵攻
かつて、世界中の全ての生命を巻き込んだ戦乱が起こった。
魔界に巣食う悪しき存在…魔族と、その魔族を統べる魔王。
魔王は、天界、そして地上界を手中に収めんと挙兵し、人々を恐怖と絶望の大渦へと引き摺り込んだ。
殊に脆弱な地上界の住民は当初、為す術もなく蹂躙されるがまま。
次第に団結し知恵を振り絞り多少の抵抗を見せるようになってはいったが、その戦力差は歴然。主戦場となった地上界は、荒れ果てた。
そして二千年前、創世神が己の全てを投げうって、魔王を封印することに成功する。
しかし、その代償として、創世神は存在を保つ力すら失い、消滅した。
神のいなくなった世界はしばらくの間、混迷の道を突き進んだ。
それでも少しずつ復興は進み、やがて荒廃した地上界も再び栄華を取り戻し、神の手から離れた人々は自分たちの足だけを頼りに立ち上がり、歩き出す。
いつしか大戦の記憶も失われ、人々は痛みを忘れた。
次第に、国同士の争いが見られるようになる。
それは、強大な敵を失ったが故の、自然の摂理だったのかもしれない。
それでもかつてのような、地上界滅亡の危機が訪れるわけでもなく、国家間の様々な取り決めも結ばれて、少しずつ少しずつ、人々は前進を続けて行った。
創世神を崇めるルーディア聖教会が中心となり地上界をまとめ、局地的な衝突は未だ見られるものの、概ね世界は平和になったと宣言出来る程度には、世界情勢は安定した。
だが、安寧は長くは続かなかった。
封印されていた魔王が、再び目覚めたのである。
魔王復活の報に、地上界は恐怖した。
かつてと違い、自分たちを守ってくれる創世神はもういない。
自分たちの身は自分たちの手で守らなければならず、そして身を守るだけの力を彼らは持たず。
彼らの唯一の救いが、創世神の意思を継ぐとされる、“神託の勇者”の存在。
まだうら若き少女でありながら、その名に恥じず超人的な力を有する勇者と、その随行者に相応しき才能を持つ二人の朋友。
そして、現れた“勇者”は、一人だけではなかった。
その後に神託を受けた二人目の勇者もまた、比類なき強さを誇る青年だった。
人々は安堵し、期待を寄せる。
彼女たちであればきっと、自分たちを守り導く光となってくれる、と。
復活した魔王はしばらくの間、目立った動きを見せなかった。
不気味な沈黙は、嵐の前の静けさか。
しかし続く沈黙に、人々が恐怖を忘れかけた頃。
魔王が、動いた。
ある日、聖都の一つであるサン・エイルヴが壊滅した。
宣戦布告も何もなく、突然降り注いだ破滅の光に灼かれ、近隣都市を含めて200万近い命が失われた。
己が力を誇示するためなのか、魔王は供も連れず、唯一人で街を破壊し尽くした。人々を救いに来たと思しき天使たちは、無慈悲な魔王の手によって惨殺された。
そして、何より人々を絶望させた一つの事実。
失われた尊い命の中に、“神託の勇者”アルセリア=セルデンとその随行者たちもまた、含まれていた、ということ。
勇者ですら、魔王の前では「その他大勢」の一人でしかない、ということ。
大多数の犠牲者と同じように焼き尽くされたのだろう、彼女らの死体は、見つかっていない。
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ルーディア聖教会の総本山、ルシア・デ・アルシェ。世界の信仰の中心地。
最高評議会以外で、教皇の下に枢機卿が全員集まるという異常事態が、世界の緊迫を示していた。
「サン・エイルヴを壊滅させた後の、魔王の足取りは分かっているのか?」
静かな口調の教皇、ファウスティノ十五世。
平時において、彼が発言することは非常に少ない。
だが、これほどの非常事態の中では、彼こそが地上界の人々を導く旗手となる。
「調査団の報告によりますと、魔王は天使族を殺害した後、何処へかと去ったとのことです。おそらくは、魔界へと帰還したのではないかと」
答えるのは、十二人の枢機卿の中で最も教皇に近いとされる、グリード=ハイデマン。“神託の勇者”及び随行者の後見人であり、補佐役の雇用主でもある。
「……調査団、か。戻って来た者たちの大半が、昏迷状態に陥っていたというのは本当かね?」
「そのとおりです。魔王と間近に相対したことが原因ではないでしょうか」
グリードの返事に、教皇は御簾の向こうで溜息をつく。
ただ相対するだけで意識を奪われるような存在。
そんな相手に、自分たちは一体どう対抗すればいいのだろう。
「そう言えば、調査団の中に君の私兵がいたね、確か……ラムゼン子爵だったか。彼は何と?」
“七翼の騎士”の有能さは、教皇も知るところである。
「私が得た情報は、全てヴィンセント=ラムゼンからもたらされたものです。…と言いますか、彼以外の調査団員たちは皆、まともに報告できる状態ではなく…」
辛うじて意識を保っていた者たちも、まるで魂を抜かれたように呆けるばかりだった。
それは、直面した恐怖から精神を守るための防御反応であるのだが、結局、理性を保っていられたのはヴィンセント一人だけ。
それは、彼の強靭な精神力もさることながら、彼が魔王を知っているからに他ならないと、グリードは気付いていた。
だが、それを口に出すことはしない。
いずれは、自分の子飼いであるリュート=サクラーヴァの件を…彼の正体を、教皇に告げるつもりではあった。
グリードは、幼馴染でもある教皇ファウスティノのことをよく知っているし、信頼もしている。
彼にならば、話しても差し支えないだろう……と。
だが、魔王ヴェルギリウスの出方が分からない現状では、そうするわけにはいかない。
幸い、補佐役リュート=サクラーヴァは勇者と共に命を落とした、と思われている。それが事実ではないと知っているのは、グリードとヴィンセントのみ。
であれば、今は沈黙し様子を見るしかないだろう。
グリードは、まだ希望を捨ててはいなかった。
「そうか……では、彼は他に何か言っていたかね、魔王の企みであるとか、次の狙いであるとか」
「いえ、それについての言及は何もなかったと聞いております」
「…そうか」
沈黙が、聖堂を支配した。
この場にいるのは、教皇の他、枢機卿と大神官たち。
普段から人々の上に立ち導き手となっている彼らでさえ、今は途方に暮れて互いに顔を見合わせるばかりだった。
「魔王は、地上界を滅ぼすつもりなのでしょうか……」
枢機卿の一人、エウラリオ=フェラーが呟くように発言した。
「…考えたくはないが、そう考えるしかあるまい…?」
答えたのも枢機卿、ジュリアス=マクニール。
「サン・エイルヴでは、天使たちが魔王に対抗した形跡があったのですよね。天界が、我らに力をお貸しくださるという可能性は……」
「それを期待するのは危険だ」
エウラリオの楽観的な発言に、グリードが釘を刺す。
「天使族は、地上界の守護者ではない。彼らの行動原理は魔王と魔族を滅するただ一点のみ。そのために地上界が利用出来るとあらば駒として利用し、障害になると思えば排除する。彼らの逆鱗に触れて消滅した国々の伝承を、読んだことがないわけではないだろう?」
「しかし……同じ魔族を敵とする、言わば同志のようなものでは……」
「君は、我ら人間に、天使族の同志たるに相応しい力と資格があると思うか?」
「そ…それは…………」
グリードにやり込められて沈黙するエウラリオ。
ファウスティノは、そんな若輩の枢機卿に助け舟を出すように、
「そうは言っても、期待したくなる気持ちは確かにある。現状、我らが魔族に対抗するには、天使族の力を当てにするしかないのだから」
そしてそれは、廉族全ての希望と言ってもいい。竜種でもない限り、魔族と渡り合える生命体など地上界には存在しない。
「しかし聖下。魔族の排除であればまだしも、我らの守護を天使族に期待するのは楽観に過ぎます」
伝承以上に、リュートからの報告で天使族の姿を聞かされているグリードには、それらを全面的に信用することは出来そうになかった。
と同時に、この期に及んで自分はまだリュート=サクラーヴァの言葉を信じているのかと、グリードは不思議な気持ちになる。
…否、グリードだけではない。サン・エイルヴの惨状を目の当たりにしたヴィンセントもまた、こう言っていたのだ。
「猊下、私には、あいつがサン・エイルヴを破壊したとは、とても思えないのです」
……と。
ヴィンセントは、自分の目で見たままを報告したに過ぎない。
壊滅した都市。
顕現した魔王。
殺害された天使たち。
それらの情報だけで、聖教会は結論を下した。
それらの情報だけで、結論を下すには充分すぎると判断した。
何故ならば、聖教会にとって…人々にとって、魔王とは恐るべき邪悪の権化なのだから。
しかし、グリードとヴィンセントにとっては、魔王とはリュートなのである。
お人好しで、お節介で、シスコンで、ヘタレの、補佐役なのである。
彼の中に、邪悪という言葉がしっくりくる面は見当たらなかった。
それに、
「もし奴が犯人であり、地上界に対して敵対することを選んだというのならば…そして勇者殿を殺害したのであれば、我々を見逃した理由が分かりません」
ヴィンセントは、そうも言っていた。
「あの時の奴の目に、我々に対する敵意は一切ありませんでした」
その時のリュート…魔王の様子はどんなだったかと問われたときヴィンセントは、しばし考え込んでから
「私の目には……途方に暮れているように…見えました」
躊躇いながらも、そう断言した。
その場にいなかったグリードは、ヴィンセントの言葉を熟考する。
自分としても、やはりリュートは敵ではないのだと思いたい気持ちが大きい。だからこそ、感情に影響されて真実を見誤ることは避けなければならなかった。
リュート本人から、話を聞きたいとグリードは思った。
彼ならばもしかしたら、アルセリアたちの消息も掴んでいるかもしれない。
グリードは、リュートを信じたいのと同等以上に、大切な娘たちの安全を信じたかった。
一瞬意識が外へと傾きかけて、グリードは慌てて現実へと自分を引き戻した。
今為すべきは、叶えようもない願望に胸を焦がすことではない。
「……問題は、我々のこれからの方針だ」
教皇の、疲れ果てたような声。
どの道を選んだとしても、希望を見出すことが出来そうにない現実に、打ちのめされている。
そしてそれは、彼だけのことではなく。
「竜族に、共闘を呼び掛けては如何でしょうか。魔族が地上界に侵攻してくるとなれば、彼らも無関係ではいられますまい」
「しかし、そのようなことをすれば魔族を刺激することになるのでは?攻勢を早めるきっかけにでもなってしまったら……」
「ならば、ただ成り行きを待つと言うのか?それともまさか、魔族どもに慈悲を求めるとでも?」
「バカな!奴らに情などあるはずがない!」
「ならば、抵抗するしかないだろう。大人しく滅びを待つわけにはいかないのだ」
「やはりここは、無理を承知で天界に保護を求めてみては?」
口々に、思い付いたままを発言する枢機卿たち。
教皇ファウスティノは、彼らの喧々諤々の遣り取りをしばらく黙って眺めていた。
そして、白熱した議論が着地点を見つけられないまま萎みかけたところで、口を開く。
「……グリード、君はどう思う?」
教皇のその言葉を聞いて初めて、彼らは未だグリードが案を出していないことに気付いた。
普段であれば、最も合理的で的確な判断を下すグリードが、沈黙している。
彼らの視線を一身に受けたグリードは、いつもの評議会と変わらない平静さを保っているように見えた。
「今はまだ、下手な動きを見せない方がよろしいかと」
様子見という、彼にしてはらしくない発言に驚いた者も少なくない。
「しかしグリード殿。後手に回っては状況は悪化するばかりでは?」
だから、そう反論の声が出るのも当然。
「今は、情報が少なすぎます。それに、魔族が他地域へ侵攻したという知らせもない。ですが、我らが動き交戦の意思ありと魔族に判断された場合、それが全面戦争の入口になるやもしれません」
グリードは、自分を見つめる一人一人に視線を移しながら、最後に教皇へ向き直ると。
「天地大戦の再現だけは、何としてでも防がなければなりません」
しかしそれは、何も知らない彼らにとっては理想論にしか聞こえない。
「だからと言って、手をこまねいていろと?待っていても、何の解決にもならないではありませんか!」
そう叫んだのは、大神官。格下であるはずの彼女が枢機卿であるグリードに声を荒上げることなど、本来はあってはならない。
しかし、それを咎める者は、グリード本人も含めて誰もいなかった。
グリードはそれには答えず、教皇を見据えたまま。
何かを決意したかのように、告げる。
「……聖下、この件に関しましては、私に一任していただけないでしょうか」
その言葉に驚愕したのは、教皇だけではない。
「何を仰るのかグリード殿!いくらなんでも、貴殿一人でどうにかなる問題ではないだろう!」
「貴方が判断を誤らないという根拠がどこにあるのですか?」
「そのような無謀を、認められるはずがない!」
困窮した状況で、彼一人に責を負わせるつもりがないあたりは流石と言える。
尤も、世界の命運をグリード一人に負わせることが怖いのだ、ということもあるのだが。
「……グリード、君には何か考えが……」
そう、教皇が言いかけた時だった。
突如、鋭く無機質な音が彼らを襲った。
ガラスを引っ掻いたような、生理的に不快感をもたらす耳障りな音。
「な……なんだこの音……!」
「う……耳が…!」
脳みそを掻き混ぜるような不快な音にある者は呻き、ある者は頭を押さえ、苦悶する。
そして。
ふっと音が消えた瞬間。
神々しい存在が、彼らの前に降臨した。
さてはて、一応第二部ということになりますが…しばしグリードが活躍?です。
なんだか魔王の情けなさが一層明るみに出てきますよ。
あと、進行上勇者たちの描写がしばらく少なくなるかも……




