第二百三十話 災厄の予兆 始まりの終わり
サン・エイルヴが壊滅した。
第一報の直後、ルーディア聖教会は大混乱に陥った。
サン・エイルヴは、ルーディア聖教の三大派閥であるエスティント教会の総本山。この都市の担う役割は大きい。
人口約100万の大都市が、物の数分で破壊し尽くされたという現実は、彼らに、自らの無力さを痛烈に突きつけた。
情報は錯綜していて、誰も正確に状況を把握することが出来ていない。
ただ、避難用転移法陣を用いて辛うじて逃げ延びたアスター=マスグレイヴ枢機卿とその側近たちが、僅かな情報をもたらした。
しかしそれも、突然天から鐘の音のようなものが聴こえてきたと思った瞬間、目を焼かんばかりの鮮烈な光が幾条も降り注ぎ街を焼き尽くした…という現象のみ。
一体その音と光の正体が何であるのか、何者の仕業であるのか、それはアスターたちにも分からない。
ルシア・デ・アルシェに転移し、自身の領地が壊滅したという衝撃の事実を教皇に伝えた彼は、突然降りかかった災厄に茫然とし、小刻みに震えるばかりだった。
そして何より彼らに衝撃を与えた事実……
それは、“神託の勇者”アルセリア=セルデンとその一行が当時サン・エイルヴに滞在しており、現在消息不明である…ということ。
聖教会の希望の一つが消え去ったという事実は、彼らに少なからぬ絶望をもたらした。
サン・エイルヴ及び近郊都市との連絡は完全に途絶え、事態を重く見た教皇はただちに調査団の派遣を命じる。
もう一人の“神託の勇者”、ライオネル=メイダードとその随行者は、ルシア・デ・アルシェで待機。
アルセリア=セルデンの生存が絶望的である以上、聖教会としては、ライオネルだけは何としてでも守り抜かなければならなかった。
残された、たった一つの希望として。
サン・エイルヴへ遣わされたのは、教会騎士の一個大隊と、各枢機卿の私設部隊から選抜された数人。
その中に、グリード=ハイデマン旗下である“七翼の騎士”、ヴィンセント=ラムゼンがいた。
ヴィンセントは、己が主の取り乱した姿を初めて目にした。
彼の知るグリード=ハイデマンは、常に冷静沈着で先見の明があり、あらゆる事態を想定し最善の手を選ぶことの出来る人物である。
その彼が、狼狽している。
理由を想像することは容易かった。
グリード=ハイデマンという男は、サン・エイルヴが壊滅した程度では取り乱すことなどない。憂慮はするだろうが、彼にとってそれはあらゆる想定の中の一つ。
そうではなくて、アルセリア=セルデンとその仲間たちが巻き込まれたという事実が、グリードを打ちのめしたのだ。
しかも、あのリュート=サクラーヴァとも連絡が付かない…という。
グリードも、ヴィンセントも、リュートが死ぬはずはないと確信している。
例え世界中が炎に包まれたとしても、その中で彼は平然としているだろう。彼は、そういう存在だ。
だが、その彼とも連絡が取れないという事実は、一体何を示しているのか。
それは、サン・エイルヴ壊滅など些事だと断じてしまえるような、災厄の兆しなのかもしれない。
グリードから、リュートと接触した場合はその真意を問いただせ、との密命を受け、ヴィンセントはサン・エイルヴの地に降り立った。
本来、ヴィンセントのいたタレイラからルシア・デ・アルシェ、そしてサン・エイルヴまでは、一日二日でいけるような距離ではない。
だが、この期に及んで隠している場合ではないと解放された転移法陣…各大神殿を結ぶ避難用経路…を用いて、彼らは瞬時にサン・エイルヴ、タイレンティア大聖堂へと、到着した。
到着して、都市の惨状を目の当たりにし、言葉を失い、恐怖に震えた。
常識外れの同輩のせいで多少の耐性が身に付いたヴィンセントはまだマシな方だ。他の教会騎士や、彼が率いてきた“暁の飛蛇”の面々は、完全に委縮している。
これでは、サン・エイルヴ襲撃犯と相対したときに戦うことはおろか、まともな調査も出来そうにない。
「しっかりしろ、お前たち。今は、臆している場合ではない。まずは、この地で何があったのかを教皇聖下にお伝えするのが、我らの使命だ!」
燃え盛る炎にたじろぐ調査団を叱咤激励し、彼は陣頭に立ってタイレンティア大聖堂を…タイレンティア大聖堂と呼ばれていた建物の残骸を後に、歩き出す。
「うう……ひでぇ……」
「何なんだよ、これ…」
「こんなの、人間の仕業じゃない………」
散らばる瓦礫と転がる死体に慄きながら、彼らは生存者を探す。
生きている者がいれば、ここで何があったのかも知ることが出来るだろう。
だが、どれだけ探しても、一向に生きている人間は見当たらなかった。
生きている……人間は。
それを見つけたとき、調査団の面々に共通して感じられたのは、後悔。
こんなところに、来るんじゃなかった。命令なんて、拒否すれば良かった。
その後悔は、絶望から派生したもの。
彼らの目の前に、それはいた。
流れる黒髪、蒼銀の瞳。怖気がするほど整った容貌はしかし、見る者を凍り付かせる。
ヴィンセントを除く全員が、それが何であるかを知らない。
だが、超常の何か…自分たちに絶望を与える存在…であると、生物としての本能が告げていた。
それの姿を目にした途端、ヴィンセントの背後で幾人かが意識を失い崩れ落ちた。
それは、何もしていない。ただ、佇んでいるだけ。
しかし、精神力の弱い者はその前で意識を保つことすら出来ない。
何とか耐えている者たちも皆、息も絶え絶え、といった有様で。
それの足元には、幾つかの死体が転がっていた。
引き千切られた翼、砕かれた頭部、両断された身体。恐怖に見開かれたまま凍り付いた瞳。
潰れた羽虫のように転がされているそれらは、高位生命体……天使族であった。
「リュー……ト…?」
ヴィンセントは、その姿の彼を見るのは初めてである。だが、目の前にいるのがそうだと気付き、呼びかけようとしたのだが。
それの視線を受け、心臓が握りつぶされるかのような錯覚に陥った。
そして知る。
彼は…今ヴィンセントの目の前にいるそれは、リュート=サクラーヴァではないのだと。
その事実に愕然とし、心中に絶望が忍び寄るのを感じた。
今ここにいるのが“魔王ヴェルギリウス”であるのならば、自分たちに…自分に打つ手などない。
そして何より……
壊滅したサン・エイルヴ。
惨殺されている、天使たち。
その場に顕現した、魔王。
これらの情報で導かれる結論は、一つだけ。
誰であっても、その結論に辿り着くだろう。
だが……ヴィンセント=ラムゼンは自らも達したその結論を、信じることが出来ないでいた。
何故ならば彼は、リュート=サクラーヴァを知っているからだ。
魔王と、目があった。
ヴィンセントの後ろで、さらに数人が意識を失う。
残った者たちも、恐怖に打ち震え声も出せない。
しかしヴィンセントは、気付いた。
魔王の瞳にもまた、絶望の色が浮かんでいることに。
もしかしたら……最悪の中の最悪の状況だけは、免れるかもしれない。
その考えに一縷の希望を見出し、ヴィンセントは再び魔王へ呼びかけようとする。
だが、彼の言葉を待つことなく魔王は視線を逸らすと、足元の天使族の死体には目もくれずに“門”を開いた。
「…ま、待て!ここで一体何が……」
叫びながら、魔王の後を追おうとするヴィンセント。配下の一人がその背中に必死にしがみついて彼の動きを止め、そうこうしている間に魔王は“門”の向こうへと姿を消した。
「……一体何が、あったんだ……リュート……」
ヴィンセントの問いかけは、街を灼く炎と共に空に吸い込まれて、消えた。
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サン・エイルヴは、復活した魔王の手によって滅ぼされた。
ルーディア聖教会の、正式見解である。
そしてそれは、地上界の人々にとって、恐怖と絶望と苦難の未来を指し示していた。
魔王に唯一対抗出来るとされた“神託の勇者”さえも、その前に敢え無く命を散らした。創世神亡き今、天界にも魔王を止められる者はいない。
残虐で冷酷な魔王が、サン・エイルヴだけで満足するとも思えない。次はいつ、自分たちの街にその手が伸びるのかと、人々は恐怖した。
恐怖し、祈った。
その祈りを聞き届けてくれる存在はもういないのだと知りながら、祈らずにはいられなかった。
祈る以外に、為す術がなかった。
はー……。やーっと、第一部完ですよ。ちょっと一段落な気分です。
なんだか大仰なサブタイですが、少ししたらいつもの調子に戻っちゃいます。




