第二百二十七話 忠誠の裏側
イオニセス=ガラントは、一人森の外れに座していた。
自分の呪術を突然妨害した魔力の感覚に既視感を覚えて、解析を試みようとしているのだ。
「…やあ、イオニセス。調子はどうだい?」
軽い調子で、武王の先輩であるフォルディクスが話しかけてきた。
主君である魔王に対してはよそよそしいまでの慇懃さを隠さない彼だが、魔王の眼のない場所ではこのように、気さくでやや軽薄な態度に戻る。
新任であるイオニセスと他の武王の間には、純然たる差異…壁がある。
彼以外の武王は皆、天地大戦以前からの忠臣。天界、地上界との熾烈な戦を魔王とともに駆け抜けた、その後の世代にとっては御伽噺の英雄のような存在。
不死の呪いにより永い時を生き続けてきたイオニセスだが、現在は五百歳。通常の魔族の倍以上を生きている。
だが、そんな彼をしても届かないような古の時代を戦い抜いたのが、六武王なのだ。
それが分かっているからこそ、なかなか馴染めない。若輩の自分が武王を名乗ることに、気が引けてしまうのだ。
結果、他の面々と距離を置きがちになってしまうイオニセスだったが、フォルディクスはそんな彼にも壁を感じさせない態度で接してきていた。
始めは心強いと思ったが、今は若干の引っ掛かりを感じる。
彼は、頑なに自分自身を見せようとしないからだ。
「フォルディクス様…」
「もう同僚なんだから、様はいらないよ」
「……では、フォルディクス殿。今までどちらに?」
「そりゃ、森の周囲を哨戒してたさ。まだ残ってる敵が逃げ出してくるかもしれないからね」
フォルディクスの熱心さが、忠誠の証なのか破壊欲の現れなのか、分からない。分からないが、今回の戦においてフォルディクスの働きは他の誰よりも大きい。
「…そうですか。しかし決して森には立ち入らないように願います、まだ蟲たちが沈静化しておりませんので」
つい先日も、残敵掃討とばかりに血気盛んに先走った方面軍の兵士数名が、森に入った途端ドラゴン顔負けの巨大蜘蛛に負われて這う這うの体で逃げ帰って来た。
「分かってるって。しばらくは森に入るなって、陛下のご命令でもあるしね。大人しくしてるよ」
「…………………」
「……どうかした?」
急に黙り込んだイオニセスに、訝しげな声を掛けるフォルディクス。
フォルディクスの内心が分からないイオニセスだが、フォルディクスもまた、イオニセスが何を考えているのかが分からない。
分からないから、警戒するしかない。
「その……このようなことをお聞きしてもいいものかとは思いますが……貴方は陛下のことをどのように考えておいでか?」
やや躊躇いながらも、ずばりと切り込むイオニセス。
まだ魔王軍に来て間もない彼であるが、フォルディクスの魔王への態度は、他の武王たちのそれとは明らかに違うことくらい、気付いている。
忠誠を誓っているはずなのに、彼が時折見せる、魔王を試しているかのような言動が、不可解なのだ。
「どう考えてるって……それ、俺みたいな臣下が言うことじゃないよね」
「そうでしょうか?少なくとも陛下は、貴方の心の内を知りたがっておいでです」
フォルディクスに比べると、魔王は非常に分かりやすい。案外表情豊かだし、自分の望みをはっきりと伝えてくる。どう考えているかも含めて。
また、一人だけ新入りの自分が気まずくないように、何かと配慮してくれる。
イオニセスは今まで、魔王がここまで気配り上手だとは思わなかった。
伝承にある冷酷無比な絶対の君主…というよりも、面倒見の良い親方…といった印象だ。
だが、短い期間ではあるが魔王の側に仕えるようになり、フォルディクスがそんな魔王に対して不満を抱えていることは明らかで。
イオニセスは目が見えない分、近くにいる相手の声の調子や呼吸、身に纏う空気でその内心を感じ取る能力に長けている。
フォルディクスの声には、明らかに苛立ちと失望が込められていた。
相対している魔王もそれには気付いているようで、しかしこちらは戸惑いが大きい。対処の仕方に迷っているようだ。
魔王とフォルディクスの間に何があったのか、イオニセスには分からない。が、同じ陣営にいる者同士、そして武王という立場上、第三者である自分が仲裁を買って出た方がいいかと思う一方で、無関係の自分が首を突っ込んでいいものかとも思う。
「どうかな?陛下は結局、俺たち臣下が何を考えてるのか、何を望んでるのかなんて無関心なんじゃないかな」
「そうでしょうか?陛下は貴方のことをとても気にかけておいでのようですが」
「…いや、そんなはずはない」
イオニセスの言葉に答えたフォルディクスの声は、平静を装いつつも僅かに…他者ならば気づかない程僅かに、震えていた。
「何故、そこまで言い切れるのですか」
「あの方は、ご自分を変えようという気がまるで無い」
言い捨てる声も、また。
「君は知らないと思うけど、かつての陛下はそれはもう、圧倒的で絶対の君主であらせられた。俺たち六武王でさえ、気安く声を掛けるなんてことは許されなかったし、俺たちなんかとてもとても手の届かない高みから世界を見下ろしておいでだった」
過去を思い浮かべて語る声だけは、穏やかだった。
「…私からいたしますと、現在の陛下は下々の者によく配慮して下さっていると…」
「そこなんだよ!」
しかし、その穏やかな口調はすぐさま消え去る。
「あの頃の陛下は、何があっても揺るがない、不変の強さを持っていらっしゃった。臣下が逆らおうが死のうが世界が滅びようが、そんな些事には囚われない強さを」
世界の滅亡を些事と言ってしまったら、どんな出来事を重大と呼べばいいのかイオニセスは疑問に思ったが、ここは黙っておいた。
「だが、今はどうだ?臣下との距離はやけに近いし、廉族の小娘どもには執着するし、かつての崇高なあの方は、何処にもいないじゃないか!」
かつてを知らないイオニセスからすると、今でも充分すぎるほど崇高な君主ではないかとも思うが、ここも黙っておいた。
フォルディクスの声は、次第に熱を帯びていく。
「他の連中が何故平気にしていられるのかが分からない!俺たちの主は、変わってしまった。俺たちが忠誠を誓ったあの方は、もう何処にもいない。それなのになんで皆、変わらずあの方をお慕い出来るんだよ!!」
普段からは想像も出来ない率直な感情を口調と声に込めて、フォルディクスは吐き出す。
それを聞いたイオニセスは、合点した。
「なるほど…。フォルディクス殿は、強く不変で、臣下などまるで気にも留めない冷酷な魔王陛下をお慕いし、忠誠を誓っていたというわけなのですね」
「…ああ、そうだよ……」
「そして、それを求めようにも陛下は了承して下さらない…」
「…ああ、求めるったって、あの方は最初からその点に関しては譲る気がないんだから、仕方ないじゃないか」
「仕方ない……だから陛下を見限った…ということなのですね」
「………………何を言って………」
淡々と告げたイオニセスに、フォルディクスは言葉を失った。盲目の呪術師の瞳は虚ろなままで、その代わりに容赦のない言葉が、フォルディクスを射抜く。
「これはあまり知られていないことなのですが、魔力には感情が宿ります。その気配は例え魔力反応を改竄や隠蔽したとしても変わることなく残るのですよ」
魔力解析を極めたイオニセスだからこその、発言。
魔力には個性があり、それは視覚・触覚的情報に現れるとされる。
だが、魔力制御に長けた者であれば、それらを改竄することは可能。追跡の手を逃れるために常套的に使われる手段である。
イオニセスの得意とする呪術の分野ではそれは特に顕著で、呪法返しを防ぐ手立てとして、魔力改竄は遮断と並行してよく見られる。
それに対抗するため、イオニセスは従来の方法に頼らない魔力検知・解析の手段を見付けた。
「魔力に込められた感情は、声や匂いに似ています。取り繕っても、隠しきることの出来ない特徴。………私の呪術を妨害した魔力には、とても特徴的な感情が残っていました」
「………………………」
フォルディクスの沈黙に促されるように、イオニセスは続ける。
「激しい怒りに隠されたそれは、深い失望と哀しみ。私は、その感情にとても覚えがあります」
イオニセスは、そこで言葉を切った。
フォルディクスに反論や弁明を求めることもなく、責め立てるわけでもなく、ただ静かに待つ。
しばしの沈黙の後。
「……参ったな、匂いでバレたってこと?それじゃどうしようもないじゃないか」
観念したように、しかしそれにしては軽い口調で、フォルディクスは認めた。
イオニセスの呪術を妨害したのは自分であるということを。
それは則ち、魔王に対する裏切り、叛逆であると知っていながら。
「貴方が陛下を裏切る理由は、お聞きしません。それは私には理解し難いことでしょうから。しかしながらフォルディクス殿。このようなことをしても無駄であると、貴方もお分かりのはず。それなのに何故…」
「無駄?本当にそう思うかい?」
静かに問いかけるイオニセスを嘲笑うように、フォルディクスは笑みを浮かべる。
イオニセスにその表情は見えない。だが、その声は伝わる。
「そりゃ、俺だって自分が魔王陛下を害することが出来ないことくらい、分かってるさ。どんなに足搔いたところで、たとえ完全に不意を突いたとしても、俺じゃあの方の躰に傷一つ付けることは出来ない」
「でしたら、何故……」
「傷付ける方法は、何も直接的な攻撃に限らないってことさ」
フォルディクスは、一層笑みを深めた。
「俺はただ、時間を稼げればそれで良かった。それで俺の仕事は終わりさ。後はあの連中が上手くやってくれる。陛下は、決して癒えない傷を負うことになる。ご自分の決断に後悔し、嘆くことになるだろう!」
声に狂気を潜ませて、フォルディクスは叫んだ。
そして次の瞬間。
「………………っ!」
イオニセスの胸を、光の矢が貫いた。
魔力の流れを察知したとほぼ同時。盲目である彼には、躱しようがない。
「が……はっ……」
ごぼりと血を吐き、崩れ落ちるイオニセス。
その彼を見下ろすフォルディクスの表情は、冷たく歪んだ笑みだった。
「突き止めてみせたのは素直に凄いと思うけど、君は愚かだね。未だ“権能”を与えられていない君では、俺に勝ち目はない……そうじゃなくても、君は俺の魔砲術との相性が最悪なんだからさ。……こんな風に」
続けて、腹部にも穴が穿たれる。
遅効性の攻撃しか持ち合わせていないイオニセスには、即時起動のフォルディクスの攻撃に対抗する術がない。
「直接問いたださずに、黙って陛下に報告してれば良かったものを、看破して得意にでもなったか?それでこのオチじゃ、ザマぁないな」
しかし、歯を食いしばりながらも上体を起こしたイオニセスに、眉を顰める。
明らかに致命傷である攻撃を受けてなお、イオニセスは生きていた。
「……ああ、そっか。そう言えば君、不死なんだっけ。それじゃあ、そうだな……細切れにして肉片を別々の場所に埋めてしまったら、どうなるのかな?」
残忍な笑みに相応しい光撃が幾条も放たれ、イオニセスに突き刺さる。
その肩を、腹を、脚を穿ち、右腕が千切れ飛ぶ。
「…ふむ。俺の力だと、切り刻むってのが出来ないのが不便だよな。…ま、少しの間ガマンしてくれよ。どこまで意識が持つのかは知らないけどさ」
「……この、ような…こと、を…して…何の…意味、が………」
「意味なんてないさ!」
一際強く言い放ったフォルディクスの周囲に、さらに多量の魔砲陣が浮かぶ。
「言っておくけど、裏切ったのは俺じゃない、陛下だ!あの方は、俺の信頼を、忠誠を裏切った、だからこうするのさ!あの方が苦しむ姿を見られれば、俺はそれで…」
「それで満足か」
突如割って入った声に、フォルディクスはピタリと言葉を止める。
そのまま静かに、背後を振り返った。
そこに佇む、魔王の姿を見た。
かつて彼が敬愛してやまなかった、今や憎悪の対象と成り果てた存在を。




