第二百十六話 弟の苦悩
アスター=マスグレイヴは、執務室で一人、頭を悩ませていた。
由緒正しき血統と、飛び級に飛び級を重ねて神学校を歴代トップの成績で卒業した類稀な頭脳で、僅か十歳にも満たない年で枢機卿に任じられた彼ではあったが、薄皮一枚剥いでしまえば只の子供だ。
答えの決まっている問題に関しては、何の労もなく対処することが出来る。
が、その解答が自身の望みと大きく乖離しているという経験は、幼い彼にはまだなかった。
何故、姉が…あのベアトリクス=ブレアがこんな暴挙に出たのかが分からない。
彼の知る姉は、慎重で冷静、合理的かつ現実的。その生い立ちからすると当然なのかもしれないが、だからこそここサン・エイルヴに戻ってくるなど考え難かったし、ましてや、言い逃れの出来ない罪を堂々と犯す愚行など、彼女の所業としてはありえなかった。
まさか、“聖母の腕”を手中に収め既成事実を作ってしまえば逃げ切れるとでも思ったのか?
……否、それは通用しないことは、彼女でなくとも分かる。
ただでさえ、エスティント教会は彼女を排除する理由を欲しがっているのだ。なぜ、敵の望みを易々と叶えようというのか。
……自棄を起こしたようにしか、思えない。
ベアトリクスの処遇に関しては、自分の権限でなんとか抑えている。
その罪状を発表し、ルーディア聖教を冒瀆した大罪人として彼女を堂々と処刑してしまおうと、長老会の連中は息巻いていた。
そこをなんとか凌いでいるのはひとえに、彼のエスティント教会における名声と信徒たちからの支持、そして功績なのだが、それとて限界があろう。
……かと言って、聖央教会に助力を求めるのは……
姉の行為に、同情がないわけでもない。
出来ることなら、穏便に済ませたい、具体的に言えば彼女の罪を不問にしたい。それが彼の個人的な願望だ。
だが同時に、彼女が教会に対して働いた罪を黙認するわけにもいかないのが、枢機卿という彼の立場であった。
罪は罪。彼女には、相応の罰を受けてもらわなくてはならない。
過去に、謂れの無い罪で罰を受けていた姉を思うと、これで帳消しにしてしまえばいい、という考えもよぎるが、それを実行に移せるほどには彼は幼くなかった。
毎日のように溜まり続ける執務も手に付かず、どうすればエスティント教会にも姉にも一番良いように事を収められるかと、ここ数日そればかりを考え続けている。
だから、突然の闖入者に即座に反応出来なかった。
「……時化た面されておいでじゃないですか、枢機卿猊下」
揶揄するような調子の声に、疑問を感じるより前に俯いていた顔を上げる。
「…………君、は…………」
いつの間に入室したのやら、聖央教会の“神託の勇者”アルセリア=セルデンの補佐役である、リュート=サクラーヴァが目の前に立っていた。
「こうして見てると、年相応のお子様にしか見えないのになー」
自分を見下ろしながらウンウンと頷いて、リュートは言う。
「ま、俺なんかには分からない苦労とかもあったりするんだろうけど」
言葉面は共感するような物言いだが、彼が自分を責めているだろうことは分かった。
彼は勇者の補佐役、グリード=ハイデマンの片腕(とアスターは思い込んでいる)であるから、そんな彼がここに来た理由もすぐに分かった。
……分かったのだが。
「………………え?君………リュート君?どうして………衛士は何を…………」
枢機卿たるアスターに面会するには、取次を介する必要がある。また、武芸の心得のある神官が衛士として彼の執務室の前や、執務室のある棟を警護・巡回しているため、無断でここに立ち入ることは不可能。
だが、アスターは来客の報など受けていない。
そして、“七翼の騎士”であるリュートを、ここの神官たちが自分の元へ無断で通すはずもない。
リュートは、アスターの疑問には答えなかった。
「とある重要な聖任で、ご不在あそばしてるんじゃなかったのか?」
代わりに、彼に詰め寄って訊ねる。
口調は軽い。が、その眼光は鋭いなどというレベルではなかった。
アスターは、幼い頃より英才教育を受け、大人顔負けの厳しい環境で育てられてきた。
それは全て、不義の子である姉のせいで(本来は不義を犯した両親のせいなのだが)汚されたエスティント教会の誇りを再び取り戻すため。
いずれは教皇へ…という祖父の希望もあり、まだ見習いの頃から海千山千の長老たちに揉まれて育った。
冷徹な感情も、権謀術数も、腹黒い計算も、一通り目にしてきた。
その中で自分も、年齢にそぐわない他者を圧する威厳を持ちうるに至ったと、思っている。
だが、目の前の男のそれは、あまりにも格が違った。
未だ、アスターに対して敵対行動はとっていない。ただ、世間話をするように立っているだけだ。
それなのに、彼の意にそぐわない回答をしたならば即座に命を奪われるのではないか、という本能的な恐怖が、幼い枢機卿を支配していた。
アスターは、実戦的な戦闘力においてそれほど優れているわけではない。
無論、聖職者が嗜む法術は、一部例外を除いてほぼ全てを習得したと言える。
姉ほどではないが、そこそこ戦えるだろう…という自信もなくはなかった。
しかし……リュート=サクラーヴァが報告に受けたとおりの戦士であるならば、自分に勝ち目はない。
それに、アスターには彼と戦う理由はなかった。
リュートにしても、ベアトリクスが教会に対して罪を犯したことが事実である以上、エスティント教会を敵に回してまでこれを救うことなど出来まい。
あのグリード=ハイデマンが、一人の聖職者のために無用な派閥間抗争を望むことは考えられない。
彼の手駒であるリュートが出来ることなど、たかが知れている。
「……何の用かな、補佐役殿」
言いようのない恐怖と不安を冷静な仮面の下に押し隠して、アスターもまた軽い口調で訊ね返す。
立場的には、自分と彼とでは大きな隔たりがある。
枢機卿である自分と、同じく枢機卿の私兵に過ぎない彼との間には。
それなのに、何故自分は彼に屈しそうになっているのか。
訳が分からない。今すぐにでも、平伏して赦しを乞いたいと思うのは何故なのか。
「どうして、ベアトリクスはここにいないだなんて嘘をついた?あいつをどうするつもりだ?」
口調も視線も変わらないまま、リュートは質問を重ねた。
その態度に、枢機卿であるアスターに対する敬意など微塵も込められてはいない。
「……君は、彼女を救いに来たというわけか。……なら、僕の話も聞いて欲しい。立ち話もなんだから、こっちで……」
来客用のソファに彼を誘導しようと、執務机を回り込んだアスターだったが、リュートは動かなかった。
一層の焦りをひた隠し、アスターはそんなことは全く気にしていない、というフリをして自分だけソファへと腰掛けた。
「まずは、お茶でもどうかな?」
不自然さを感じさせないようにさりげなく、呼び鈴を鳴らす。
これで、彼の側役の神官がすぐに駆け付ける。
望まない来客は、丁重にお帰り頂くことになるだろう。
「………………?」
しかし、次の間に控え彼の求めには即座に応じるはずの側役は、一向に現れなかった。
聞こえなかったのかと、アスターは再度、鈴を鳴らす。
「……………え…?あれ、なんで……………」
二度、三度。いくら鈴を鳴らしても、返答はない。
その間、リュートは無言でアスターを見つめていた。
側役は、全部で六人控えている。その全てが、次の間を空けることは決して有り得ない。仮に全員がそこを去らなければならないような緊急事態が起こった場合、何よりもアスターの身柄が優先される。
……と言うことは、彼らは応えられない状況に置かれている…ということ。
茫然として呼び鈴をテーブルに戻したアスターを目にして、そこでリュートはようやく彼の向かいに腰を下ろした。
その態度から、彼が何かを仕出かしてくれた、ということは確かだ。
「………ここの神官たちに、何をしたのかな?」
それでも、なんとか場の優位を保とうと虚勢を張るアスター。
「いくらグリード猊下のお気に入りでも、そんなことをしてタダですむはずが」
「ここの連中はピンピンしてるよ」
てっきりリュートが彼の側役に危害を与え沈黙させたとばかり思っていたアスターは、その言葉に虚を突かれる。
「ピンピンって……じゃあ、どうして……」
「今現在、俺とお前の存在はここの誰にも知覚出来ない。…ここだけじゃなくて、世界中の誰からも、だけど」
事も無げに言うリュート。アスターは、彼が何らかの術式を用いたのだと解釈した。
知覚出来ない…ということは、精神干渉系か。
しかし、続く言葉はとても信じられるものではなかった。
「なんなら、お前の存在を本当になかったものにすることも出来るけど……どうする?」
「何を言い出すかと思えば、まさか枢機卿の僕を脅迫でもするつもりかな?……仮に僕を殺めたとしても、君は枢機卿殺しの大罪人だ」
リュートが“七翼の騎士”の一員であるならば、聖教会を敵に回す恐ろしさは十分に理解しているだろう。
そんな彼が、聖教会を実質的に支配する枢機卿の一人を殺すなど、出来るはずがないのに。
「ただ殺すだけなら、な。……けど、ここの連中の認識からお前を取り除いてしまえば、何の心配もいらないさ。存在しない人間を殺すことなんて出来ないし、したがってそんな罪も存在しないことになる……だろ?」
アスターがその言葉の意味を理解するには、しばらくの時間が必要だった。
「…………何…?……何を、君は言っている…………?」
理解した後で、そんなことが人間に可能であるはずがないと思い至る。
否、仮に創世神に愛された天使族でさえ、そんなことは不可能だろう。
それなのに何故か、リュートの言っていることに偽りはないのだという気がしてならない。
彼ならば、それが可能なのではないか………と。
「ま、そんなことをすれば大勢の人間の因果が狂っちまうからな、お前がどうしてもってお願いするんでなければ、そこまではしないよ」
「因果が………狂う?…君は……自分が何を言ってるのか、分かってるのかい?」
因果が狂う。因果を、狂わせる。
リュートは、自分ならばそれが可能だと、言っているのだ。
アスターの疑問を、リュートは軽く笑い飛ばした。
「当たり前だろ。自分の言ってることも分からなくなるほど耄碌しちゃいねーよ」
どう見ても十代後半くらいなのに、まるで老人のような物言いをするリュート。
アスターは、目の前の男に対する自分の認識は大きく間違っていたのだと、気付き始めていた。
“神託の勇者”の補佐役であり、“七翼の騎士”の一員、第三等級遊撃士、そして魔導士であり剣士。
だが、彼の本質はそんなところにはないのだと、アスター=マスグレイヴは気付いてしまった。
彼は、得体の知れない何かなのだ…と。
「まあ、そんなことはどうでもいい。俺は、ベアトリクスが無事戻ってくれば全部を水に流すつもりでいるからな」
許す立場にあるのは自分なのだ、と言外に示し、リュートは続ける。
「お前らの都合とか、立場とか、そういうくだらない話はここに持ち出すな。俺が聞きたいのはそんなことじゃない」
まるで絶対の君主であるかのような、理不尽な要求。だが、アスターに拒む気持ちは起こらなかった。
拒むことなど、出来そうになかった。
ごくりと喉を鳴らして頷いたアスターに、リュートは恭順の意を汲み取ったのだろう、少しだけ威圧感が和らいだ。
「…で、ベアトリクスのことだ。あいつの元へは、今アルセリアたちが向かってる。このままここから連れ出そうと思ってるけど、その前にはっきりさせておきたくてな」
「……彼女は、エスティント教会の秘宝を無断で持ち出そうとしました。その罪状は、どうするつもりですか?」
アスターの口調は、自分でも知らないうちに変わっていた。
枢機卿という地位など、彼の前では無意味だと悟ったのだ。
「……それも、お前らの都合だ、と俺は思うんだけど………」
リュートは少し思案し、
「お前なら、不問にすることが出来るんじゃないか?」
「無茶を言わないでください。枢機卿とて、独裁者ではありません。誤魔化せるようなことであればいくらでもしますが……彼女は、正面からルーディア聖教に喧嘩を吹っ掛けたわけです。僕の権限では、長老会を黙らせ…る、ことは………」
言いながら、アスターはこれもリュートが拒んでいる「自分たちの都合」だと気付き、徐々に語尾が怪しくなってくる。
しかし、リュートはそれについて彼を責める様子がなかった。
「…ふぅん、ま、グリードのおっさんならやってのけるんだろうけど、他の枢機卿もアイツと一緒だって考えるのは無理があるか」
それは、聞きようによってはアスターに対するこの上ない挑発ないしは侮蔑なのだが、アスターはそれに腹を立てる余裕はない。
寧ろ、彼が分かってくれたことに、安堵と感謝さえ感じていた。
「……ベアトリクスが、ここのお宝を盗み出そうとしたってのは、本当なのか?」
「はい。それは確かです。“聖母の腕”と呼ばれる、大いなる創世神の加護を具現化した神具で……」
彼は、事の真相と経緯を説明する。
古より伝わる神授の秘宝、“聖母の腕”。
それは、天地大戦の折、非力な廉族を哀れに思った創世神がもたらした、“神露”の結晶。
三十年前よりこのタイレンティア大聖堂で厳重に保管されていたそれを、ベアトリクスが求めてやってきたということ。
しかし、それはルーディア聖教全体の宝であり、彼女一人の求めに応じることは出来ないと、それを断ったこと。
そして、こともあろうにベアトリクスは、神殿最奥部に侵入し、“聖母の腕”を手にしてしまったということ。
「……彼女に、遣い手としての資格がなければ、まだ良かったのかもしれません。けど、姉は、選ばれてしまった…“聖母の腕”に、認められてしまったんです。一度持ち主を定めたあれは、外部から切り離すことは出来ません。それこそ、遣い手の命が尽きるまで………」
だからこそ、アスターは苦悩している。
ただ取り上げて終わり、であれば、どうとでも出来た。
多少強引に、祖父である大神官と、彼の率いる長老会を黙らせて、必要ならば枢機卿としての全権力と教皇とのコネクションも最大限に利用して、ベアトリクスが秘宝を盗み出したなどという事実を、揉み消してしまうことも。
そのことで長老連中の気分を害そうが、彼らの面子が潰れようが、それは自業自得であると彼は思う。
だが、肝心の“聖母の腕”がベアトリクスから切り離せない以上、取れる道は限られている。
見なかったことにしてベアトリクスを不問とし、“聖母の腕”を諦めるか。
彼女の罪を公にし、ルーディア聖教の裁きを待つか。
ベアトリクスを内々に処理し、盗み出された事実さえなかったことにしてしまうか。
枢機卿として、“聖母の腕”を諦めることは出来ない。
だが、一人の弟として、姉を諦めることもしたくない。
ならば、最善と言うにはお粗末だが、一番マシなのは、彼女の罪を公にすること。
彼女に、正当な裁きを与えること。
本来ならば、神聖冒涜罪で処刑されても文句の言えない所業ではある。
だが、彼女は“神託の勇者”の随行者。そして、枢機卿筆頭グリード=ハイデマンの秘蔵っ子。
その両者の尽力があれば、なんとか処刑までは免れるだろうという目論見があった。
……それでも不足ならば、自分もまた彼女の関係者であると…実の弟であると、発表することもやぶさかではない。
そのことによってエスティント教会が負うダメージは、彼女の受けた苦しみに比べれば可愛いものだ。
「だから僕は、枢機卿としても一人の人間としても、そして一人の信徒としても、一番納得出来る方法を選びます。そして姉にとっても、それが最善であると信じています」
それを聞いたリュートは、しばらく考え込んでいた。
何やらブツブツと呟いている。
“神露”ねー…とか、そんなもんのためにあの馬鹿…とか。
まるで“聖母の腕”が、取るに足らないモノであるかのように。
そして、再びアスターを見据える。
「そのお宝ってのは、此処になきゃいけない理由とかあるのか?」
「……いえ、確かに、此処になければならないというわけでは……」
勿論、長老連中は“聖母の腕”を手放したがらないだろう。それは権力争いの一つの成果なのだから。
だが。
「そもそも、なんでそんな秘宝がここに保管されることになったんだ?三十年前なんだろ、そいつはそれよりもずーっと前から存在してたはずなのに」
「……姫巫女の、神託によると聞いています。その姫巫女というのは、まあ、僕らの母なのですが…」
それを聞いたとき、リュートの表情が明らかに曇った。
グリードから、大体のあらましを聞かされているのだろう。彼らの母親に対する彼の印象は、最悪のものらしかった。
「ああ、ケツの軽い例の姫巫女さまね。……で、神託があったから此処がそいつの保管場所になったって?」
曲がりなりにも先代の姫巫女に向かって、軽蔑の念を隠そうともせずに言い捨てる。
が、アスターには、自分の母親への暴言を諫めることなど出来そうになかった。
「……はい。ルーディア聖教にとって、姫巫女の神託は絶対です。神託が下されたからこそ、“聖母の腕”は此処になければならないし、他の者の手に渡ってはならないのです」
「まるで、重要なのは秘宝そのものじゃなくって神託の方だって感じだな」
呆れたように言うリュートの気持ちも、分からなくはない。
言葉一つに踊らされる自分たちの、なんと滑稽なことか。
「…否定は、出来ませんね。そもそも、“聖母の腕”は、戦において使用されることが前提の神具です。こんなところで後生大事に飾り立てていても、何の役にも立ちはしないのに……」
「だったら、役に立てようとかは思わないか?」
即座に提案してきたリュートの考えは、アスターにもすぐに分かった。
だったら、ベアトリクスに渡して「対魔王戦」にて有効利用させればいいではないか、と彼は言いたいのだろう。
それは、アスターとて同感だ。しかし、正規の手続きを経て教皇の赦しを得たのならばともかく、彼女は無断でそれを持ち出そうとしたのだ。
その点が解決されなければ、彼女を正当な遣い手として認めることなど出来ない。
「……僕だって、そうできればどんなにいいか……。けど、姉さんには正当性がない……」
言った直後、アスターは目を疑った。
リュートが、笑みを見せたのだ。
どちらかと言うと、してやったり、だとか言質を取ってやった、だとかいう類の笑みだったのだが、それまでアスターを射殺す勢いで睨み付けていたのとは同一人物には思えない。
そしてアスターはその後、目だけではなく耳まで疑うことになる。
「なら話は簡単だ。……あいつに、正当性を与えてやればいい」
事も無げに言い放ったリュート=サクラーヴァは、まるで全能の神の如き自信に満ち溢れていた。
今回は、戦闘チートではなく権限チートですね。
あと、リュートに苛められるアスターがちょっと可哀想。彼のせいじゃないのに。
アスターが前代未聞の若さで枢機卿に就任したのも、彼の能力だけじゃなくっていろいろな思惑があったわけです。




