第二百十話 彼女の世界
「……こ…ここは……………どういうことだ、娘?」
央天使は、完全に虚を突かれて動転している。
無理もない。ここは、ヒルダの中心、彼女の領域。
奴がヒルダを侵食し此処に至ったのではなく、ヒルダが自分の表層~中層を支配していた央天使を、強引に引き摺り込んだのだ。
それは、非常に危険な行為。
例えヒルダの領域と言えども、格の違う高位天使を無防備な中心地点に招き入れれば、そして此処を掌握されてしまえば、ヒルダの肉体は完全に央天使の所有となってしまう。
だが、ヒルダは依然として乗っ取られてはいない。
央天使サファニールは、ただ狼狽えるだけで、ヒルダに対し何ら働きかけることが出来ない。
ヒルダの意志力が、完全に央天使を抑え込んでいた。
……正直、吃驚である。
確かに、ヒルダの意志力は相当なものだと最初の出逢いからして分かっていた。
意地と根性で、命を削りながら魔導を行使し続けたくらいなのだ。
しかし、まさか五権天使筆頭を、自らの領域内とは言え完全に圧倒するとは、思わなかった。
勿論、運が彼女に傾いたということはある。
第一に、央天使は完全体ではないということ。
どうやら(原因は不明だが)奴の権能は健在のようだが、肝心の創世主の加護は完全に失われている。
加えて永い眠りの間に、最盛期よりもだいぶ力を削がれているようだ。
それから、この空間…ヒルダの領域に、魔王がいるということ。
精神世界でダイレクトに俺の加護が働いているわけで、それは通常の加護とは比較にならない効果をヒルダにもたらしている。
だが、それらを勘案しても、この事態は異常と言えた。
それだけ、ヒルダの意志が強いのだ。
意志…と言うよりも、もはや激情である。
「……娘よ。魔王の甘言に流されるな。それは、汝の想いを利用し」
「煩い、馬鹿」
央天使の言葉を、にべもなく遮るヒルダ。
…………なんだか、怒ってる…?
「…お前は、不愉快だ。嫌いだ。お前のせいで、考えたくないこといっぱい考えちゃったじゃないか」
やっぱり、ヒルダは怒っている。
言葉尻が僅かに震え、握りしめた拳も僅かに震え、眼差しはギラギラと。
ただ……「騙された」とか、「唆された」とか言うんじゃなくて、「考えたくないこと考えさせられた」から……と言うのは、何と言うか……とても、ヒルダらしいと思う。
……怒るポイント、そこ?……みたいな。
ヒルダ自身の未来とか、魔王との関係性とか、央天使に関係なくいずれは考えなくてはならないことなんだけど、そういう問題じゃないみたいだ。
気付いてしまった未来の可能性への恐怖や忌避感を、全て怒りに変えて央天使のせいにしてしまっている。
……………ま、いっか。
強い感情は、それがどのような種類であれ、意志の力を強化する。
そのおかげでヒルダは、本来であれば太刀打ち出来ないような格上を相手に優位に立っていられるのだから。
「………愚かな。いつか後悔するときが来るであろう……」
「自分で選ぶんだから、後悔なんてしない。……もししたとしても、お前の知ったことじゃない。……引っ込んでろ」
…うーん、ヒルダってば。
高位天使相手に一歩も引かずにメンチ切ってるよ。我が妹ながら、痺れる~。
………とは言え、余裕綽々で見ているわけにはいかないよな。
いくら奴の支配を拒んでいるとは言っても、こと精神系攻撃に関しては央天使は…奴の権能は、最強。
支配出来ないのならば消滅させてしまえ、とばかりに攻撃に転じられては、ヒルダにそれを防ぐ術はない。
……だから。
「……ならばもう何も言うまい。己が愚かさを嘆きながら、滅びゆくがいい」
央天使の言葉と共に、俺たちがいた空間が、突然崩れ落ちた。
「………………!」
足場が消え、落下していく感覚に囚われるヒルダ。
ヒルダだけではない。俺も、空間を構成していた真っ黒い壁も床も破片になって、奈落の底へと落ちていく。
……なるほどー、これが、奴の力か。
ここはヒルダの中なので、俺も奴の術中に嵌まることが出来るわけだ。
認識を操作し、現実をそこに沿わせてしまう能力。
なかなかに新鮮で、面白い感覚だ。
……けど。
「大丈夫だよ、ヒルダ」
俺は、その場に留まって落ちてくるヒルダを抱き止めた。
空間の欠片が、底の見えない暗闇に落ちていく。
俺とヒルダは、何もない真っ白な空間に浮かんでいた。
「………やはり、貴様か……目障りな」
央天使が、忌々しげに吐き捨てる。
ヒルダの精神世界ならば或いは…と思ったのだろうが、甘かったな。
「目障り…ねぇ。天使ふぜいが、随分と偉そうな口を聞くもんだな」
さて、どう料理してやろうか。
俺の表情に央天使が怯えるのを見て、ますます笑みが深くなってしまう。
……だが。
「………お兄ちゃん、ちょっと待って」
俺に抱かれたままのヒルダが、ついついと俺の髪を引っ張った。
「…アイツは、ボクがやる」
………へ?
何を言い出すの、ヒルダ。
相手は、天使だよ?しかも、五権天使っつって、天使の中でも特にヤバい奴。
やるって言っても、一体どうやって………
「ここは、ボクの場所だから。ここなら、アイツと同じことくらい、ボクにも出来る」
「え?同じこと…って…………」
………あ、そうか。
その言葉の意味に気付くとほぼ同時、空間に、再び炎が生まれた。
彼女の髪と同じ、真紅の劫火。
彼女の強さの根源たる激情。
全てが認識で構成されているこの空間ならば……此処においてのみ、彼女もまた央天使と同様の力を振るうことが出来る。
「…馬鹿な、廉族程度の精神力で、この私を滅することが出来るとでも」
「出来る出来ないは、お前が決めることじゃない。…黙ってろ馬鹿」
……つくづく、ヒルダは残酷だ。
相手の言葉なんて、ハナから聞く耳を持っていない。
「ボクの世界に、お前は要らない。……燃えちゃえ」
「貴様、下等な身でそのような愚行が………や、やめろ……おおおおぉああああぁああ!!」
ヒルダの炎が、央天使サファニールに絡みつき舐め上げる。
焼け爛れていく天使の姿は、それはそれでなかなかに荘厳な光景だった。
ここが外であったならば、央天使にいくらでも勝機はあっただろう。ヒルダの放つ術式では、奴にかすり傷程度も与えることは出来なかったはず。
だが、ヒルダに支配されたヒルダの領域で、唯一の攻撃手段である権能さえも封じられた奴は、ただの羽虫に過ぎなかった。
断末魔の叫びが消え、静寂が戻った後には、精神世界なのだから当然のことなのだが、燃えカス一つ残っていなかった。
……が。
「………お兄ちゃん、これ……?」
ヒラヒラと落ちてきた一枚の羽根。
黄金色の輝くそれを手に取って、ヒルダは俺に差し出してきた。
「それは、ヒルダが持っているといい」
「……いいの?」
「ああ。危険なものじゃないから、大丈夫。きっと、ヒルダの力になってくれるよ」
俺のお墨付きを得て安心したのか、ヒルダは素直に頷いた。
そして、
「………似合う?」
前髪を止めるヘアピンで挟むように、それを髪に挿した。
「ああ、ヒルダの瞳と同じ色だね。…とてもよく似合ってる」
偽りない感想である。
それはまるで、最初からヒルダのために作られたとしか思えないくらい、しっくりときていた。
「…これ、何?」
恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、彼女は首を傾げる。
なんというか、あんなヤローよりよっぽどヒルダの方が天使じゃないか。
「色からして、央天使のものじゃなさそうだし……奴に取り込まれた精霊の欠片…だろうな」
かの精霊が、どのような力を有しているのかは知らない。
が、欠片とは言えヒルダの中に取り込まれたそれは、大いなる力を彼女に与えてくれるだろう。
「さあ、今度こそ帰ろうか」
「ん。……お腹すいた……」
「…って、え?精神世界で!?」
安定の食いしん坊っぷりである。
そんないつも通りのヒルダに、俺はようやく一安心。
あーーーー、なんっか、どっと疲れが……。
体力は全然使ってないけど(精神世界だし)、ものすごく気を遣った。すり減らしまくった。
もう、戻ったら何にも考えずに十八時間くらい爆睡したい。
いや、絶対にそうしてやる。
キアやアルセリアが何と言おうと、ふかふかベッドで惰眠を貪ってやる。
固く決意した俺だったが。
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「………それで、リュート……いい加減、説明してもらえるのだろうな……?」
あああ、忘れてたヴィンセントのこと!
外の世界に戻ってきて、それと同時にヴィンセントの魂魄も奴の肉体に戻ったわけなんだけど。
で、奴も無事に目を覚ましたわけなんだけど。
………今までのこと、ぜーんぶ、目撃しちゃってるんだよなー。
何せ、俺は彼の魂魄を、ヒルダの精神へ潜り込むための乗り物として拝借しただけだし…別に、操ってたとか支配してたとか、そういうんじゃなかったから…なー。
さっきはとにかく急いでいたから、そこのところ深く考えなかったんだけど……。
「煩いどっか行け馬鹿」
そして安定のヴィンセント嫌いを発動しているヒルダ。
どっか行けって……流石に酷いな、ヴィンセントをここに連れてきたのヒルダじゃん。
当然、ヴィンセントだって黙ってはいない。
「何を言うか、貴様が強引に私に案内させたのだろうが!来いと言ったり行けと言ったり、どれだけ私を振り回せば気が済むというのだ!?」
……うん、こればっかりはヴィンセントに賛同だわ。
「煩い文句言うな役立たず」
「や……っ……役…立たず……だと!?」
「役立たずを役立たずって言って何が悪い」
「貴様は……少しは兄に対して敬意というものを……」
「お前なんかお兄ちゃんじゃない、バーカ」
お?なんか兄妹喧嘩が勃発してるぞ?
年齢の離れた兄妹にしては、なんとも大人げない応酬な気もするが……
このドサクサで、今回のことも有耶無耶に出来ないかなー……?
「……ギル。大体何を考えてるか分かるけど……やめといた方がいいと思う」
「そうね、ここまで巻き込んじゃったんだし、きちんとケジメはつけておいた方がいいわね」
「にゃ。にゃにゃ」
俺の逃げ腰の考えを察したキアと、アルセリアと、あとついでにエルニャストに窘められてしまった。
……え、マジで!?
ヴィンセントにまで、俺の正体をバラせって?
だって、そんなことしてグリード以外の教会の人間の耳に入ったらどうするんだよ?
「いいのか?んなことしたら、下手すりゃお前らの立場まで危うくなるんだぞ」
「……そうね…………」
アルセリア、一瞬考え込んで。
「…だったら……口、封じちゃう?」
……………………。
…………それ、勇者の台詞じゃなーーーーーい!!
央天使さん、やけに弱いのはちょっと理由があったりします。




