第二百八話 心の底で、願うもの。
「ちょ、ちょっとリュート、何してんのよ!」
アルセリアが焦った声を出したのには訳がある。
俺が額に触れた途端、ヴィンセントがいきなり気を失って倒れたのだ。
「あー、大丈夫大丈夫。ちょっとばかし魂の主導権をこっちに預かってるだけだから、一時的に」
「……………?」
アルセリア、しばし考え込み。
「…なんか分かんないけど、全っ然大丈夫じゃなさそうな響きなのは気のせいかしら……?」
「うん、私もそんな気がしてる」
続いて、キアまで同意する。
………うん、まあ、字面はちょっとアレだけど。
事が終わったらちゃんと元通りにするからさ。まあ、ヴィンセントには一部記憶の欠落だとかフラッシュバックだとか後遺症が残るかも…だけど。
………いいよねー。他ならぬ、可愛い妹のためなんだから。きっとヴィンセントも、否やとは言わないに違いない。と言うか、俺が言わせない。
「……何をするつもりだ、魔王」
央天使が、警戒を最大限にして問う。
奴とて俺が何をしたか、しようとしているのか、分かってはいないだろう。
それでも、それが自分を排除するための行動だということくらいは理解しているハズ。
………それにしても。
「……いつまでそうしているつもりだ、羽虫ふぜいが」
俺は、奴を地面へ引きずり落とす。
天使族の翼……重力に対する反作用を持つ力の具象体を無効化し、その浮力を奪ったのだ。
この俺を前に、頭上から見下ろしてくるなどという舐めた真似は許さない。
「………………!!」
象徴たる翼の力を失い、焦りと驚愕の表情を浮かべて落下する央天使サファニール。
だが、地面スレスレのところで力を振り絞り、なんとか墜落は回避した。
……分かってて加減したんだけどさ。…だって、
「ちょっと何考えてんのよリュート!ヒルダが怪我したらどうするわけ!?」
……ほら。思ったとおり、アルセリアが怒った。
別にそんなに憤慨しなくても、俺がヒルダに怪我を負わせるはずないだろう。
この程度で墜落するような間抜けは、天使族にはいない。ちょっとした挨拶みたいなもんだっての。
「………………貴様……」
央天使も、怒りがピークのようだ。
感情が希薄とは言っても、魔王と魔族を排除するという一点においてのみは例外で、大戦時はしょっちゅうこんな憎悪と憤怒の波動を受けていたものだ。
だが、今回腹を立てているのは奴だけではない。
寧ろ、俺の方が怒髪天なんだよ。ヒトの妹に手を出してくれやがって。
「……貴様の処分は後回しだ。とりあえず、彼女を返してもらおう」
必死に己が権能を駆使して俺を足止めしようとする央天使だが、その攻撃は無効化どころか、俺相手には存在しないも同義。
俺は構わず奴の目の前に立つと、
「や、やめろ!何をするつもりだ!!」
動揺して叫ぶ央天使を無視して、ヒルダの身体をぎゅっと抱きしめた。
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ヒルデガルダ=ラムゼンは、不貞腐れていた。
こんなはずじゃなかったのに。
それが、彼女の心を占める素直な気持ちである。
わざわざ、気に喰わない兄に案内させてまで、エルフの隠れ里までやってきたというのに。
目論見は、大外れである。
ヒルダには、両親に対する愛着がまるでない。
生まれてすぐに捨てられたようなものなので、それも無理からぬこと。
彼女は両親の顔も(あろうことか)名前も知らなかったし、知ろうとも知りたいとも思わなかった。
それらは、自分には無関係な人間。今までもこれからも、接点を持つ必要すらないと、居場所を探そうとしたこともなかった。
しかし。
ここ最近、お兄ちゃんはアルシーにばかり構っている気がする。
いや…最近に始まったことではなく、もしかしたら最初からかもしれない。
お兄ちゃんは自分にとても甘いけれども、アルシーに対するときと自分に対するときでは、何かが違うとずっと思ってきた。
そのことが、気になって仕方ない。
初めて会ったときから、お兄ちゃんは優しかった。
…と言っても、魔王城で会ったときはノーカンだ。あのときのお兄ちゃんは、魔王であってまだお兄ちゃんではなかったのだから。
でもその後ヒュドラから助けてくれて、美味しいご飯を食べさせてくれて、色々と気遣ってくれた。無責任で奔放な両親はおろか、数年間共に暮らしていた実兄からさえも与えられたことのない気遣いと暖かさを、ほぼ初対面のお兄ちゃんは惜しみなく与えてくれた。
だから、この人なら自分の家族になってくれるかもしれないと思った。
今まで密かに憧れ続けて、でも望むことも期待することもなく半ば諦めていた夢だけれども、一度くらいは手を伸ばしてもいいかもしれない、と。
そして伸ばした手を、お兄ちゃんは握り返してくれた。
だから、リュート=サクラーヴァは、ヒルダにとって魔王でも補佐役でもなく、「お兄ちゃん」なのだ。
けれど……共に過ごす時間が長くなればなるほど、お兄ちゃんにとっての自分はどんな存在なのだろうという疑念が湧いてくる。
お兄ちゃんは、「ヒルダは俺の妹だ」と言ってくれる。
我儘を言っても怒らないし、どれだけ甘えても突き放されることはない。危ない目にあったら必ず助けてくれる。
だけど、お兄ちゃんは本当に自分を見てくれているのだろうか。
時々、不安になる。
お兄ちゃんが前世とやらで生きていた世界に遺してきた、お兄ちゃんの本当の妹。
多分だけど、お兄ちゃんが自分を妹として受け容れてくれたのは、その存在があったからだろう。
断片的な話を僅かに聞かされただけだが、それでもお兄ちゃんがその妹をこの上なく大切に想っていることは十分に伝わってきた。
妹のことを口にするときの、表情とか、声の調子とか、眼差しとか。
そして、お兄ちゃんはそんな妹との別れに関して、吹っ切れたような言い方をしているけども、実際には今も引きずっているのだと思う。
お兄ちゃんは、自分を通して本当の妹を見ているのではないか。
……自分は、彼にとって妹の代用品でしかないのではないか。
だから、強くなりたいと思った。
最初は、お兄ちゃんにとって「勇者」でしかなかったアルシー。
創世神の意思を継ぐ者、神威の体現者。
魔王であるお兄ちゃんは、アルシーの中に自分の片割れである創世神を見ていた。
だから、アルシーは特別。
お兄ちゃんにとって特別な存在だった神さまの、言わば忘れ形見のようなものなのだから。
だけど、いつしかそれだけではなくなったように感じる。
アルシーも、多分お兄ちゃん自身も気付いていないけど、自分とビビは何となく感じていた。
お兄ちゃんは、創世神の気配は関係なく、勇者アルセリア=セルデンを自分の中央付近に置いている。
彼女自身を、特別な枠に入れている。
……だったら、自分も。
自分もアルシーみたいに頑張って強くなれば、前世に置いてきた妹とは関係なく、お兄ちゃんの本当の家族にしてもらえるんじゃないか。
だから、会いたくもない両親やその仲間を頼って、ここまでやって来たのだ。
自宅の書庫にある伝承は既に読破している。ここに、エルフが古来より守り続けてきた秘宝があることも、それが天地大戦において地上界の主力の一端を担っていたことも、知っている。
それだけの力があれば、きっと自分も。
それなのに。
余計なモノがいた。
自分が得るハズだった秘宝…高位精霊はそいつに組み込まれてしまっていて、もう消滅していた。
しかも、その余計なモノは、お兄ちゃんを嫌っていた。
憎んでいた。疎んじていた。
存在の抹消を、望んでいた。
自分とは相容れない、正反対の存在。
そう思ったのに。
…………見透かされた。
自分の中の、おぞましくて醜い感情を。
自分だけを見てくれないのなら、他の誰かの代用品としてしか愛してくれないのなら。
………そんなお兄ちゃん、要らない。いなくなってしまえ。
愛情の裏側にある剥き出しの感情に、目を付けられた。
それは、言葉巧みに自分に囁きかけ、恐ろしい提案をしてきた。
……だったら、「お兄ちゃん」をお前だけのものにしてしまえ……と。
自分だけのもの。自分だけのお兄ちゃん。
それは、なんて甘美な響きだろう。
実の妹も、片割れである創世神も、その意思を継ぐアルシーも、ビビも、誰の手も届かないところにお兄ちゃんを連れて行ってしまえば、自分だけが彼の中に居続けられる。
お兄ちゃんの真ん中に。
思ったのは、一瞬だった。
けれど、その一瞬をそれは見逃すことなく、気付けば肉体の主導権を握られていた。
………してやられた。
それの目的は、間違いなくお兄ちゃんを害すること。
そしてそのために、自分の肉体を利用しようとしている。
お兄ちゃんが負けるとは思わない。
けれども、何らかの形で傷付く可能性は高い。
彼は、とても繊細な部分を持っているから。
自分のせいでお兄ちゃんが傷付くことになるのは我慢ならない。
けれども……もしかしたらこれで、自分の中の鬱屈とした気持ちに決着を付けられるかもしれない。
お兄ちゃんが、言わば人質に取られた形の自分に対してどのように動くのか。
自分を試金石にして、お兄ちゃんの本心を確かめることが出来るのなら。
この状況も、悪くはない。
どうやらヒルダはヤンデレブラコンのようです。…重いなー。




