第百八十九話 こっ恥ずかしい過去に限ってほじくりかえされがち。
魔王は、泣いているようだった。
涙も流さず、嗚咽も漏らさず、ただ静かに泣いていた。
フィリエは、そう思った。
ヴェルギリウスがクォルスフィアのために用意した霊廟。潮騒の聞こえる、クォルスフィアのお気に入りの丘のほど近く。
彼女の眠りが誰にも邪魔されないように。誰も彼女に触れないように、汚さないように。許可なき者が立ち入れば瞬く間に氷に侵食されて結晶へと永遠に閉じ込められることになる、魔王の呪詛と祝福が満ちた氷晶の部屋。
氷で出来た棺に彼女を横たえて、その傍らに彼女を死へと追いやった一振りの剣を添える。
そしてしばらくの間、魔王は彼女を見つめ続けていた。
遅い朝日が洞窟内へ射し込む頃になってようやく、彼は棺から離れた。別れの言葉すらなく…おそらくどんな言葉をかければいいのかが分からなかったのだろう…棺に背を向けた魔王は、傍らでずっと待っていたフィリエに気付いた。
「フィリエ……我と共に来るか?」
しかしフィリエは、差し出された魔王の手から、顔を背けた。
そして迷わず、クォルスフィアの棺の中へぴょんと飛び込む。
「………きゅ」
魔王は、もしかしたら傷を舐め合いたかったのかもしれない。大切な者を失った者同士、その辛さは分かるから。
そんなのは御免だ。フィリエはまっすぐに魔王を見つめる。
自分はやはり、こうするべきなのだろう。
棺の中から、クォルスフィアの傍らから離れようとしないフィリエの意図に、魔王は気付いたようだった。その表情がどことなく寂しそうに見えた。それでもフィリエは、自分が彼に同情するのは違うと思う。
「……そう、か…」
「きゅ」
「それが、お前の望みか」
「きゅ。きゅゆ」
「ならば、好きにするといい。一人でなくば、キアも淋しくはないだろう」
そして、魔王は歩み去る。霊廟から外へと。
彼女たちを、動かない時間の中、永遠の眠りに優しく閉じ込めて。
魔王の背中が見えなくなって。
何かが軋むような透き通る音が低く響き、結界が閉ざされたことを彼女に告げた。
フィリエは、眠るクォルスフィアの顔を覗き込む。どこか安心したかのような、穏やかな顔を。そして寄り添うように丸まった。
還ろう…自分もまた、“焔の福音”に……クォルスフィアの中に。もう一度一つになって、彼女と一つになって、これから先ずっと共にあろう。
大丈夫。しばらく眠ればまた目覚める日が来ることを、彼女は知っている。だから、恐怖も不安もない。
そのときにはきっと、多くが変わってしまっているだろうけど、変わらないものも確かにあるはず。だからそのときまで、ちょっと一休みだ。
次に目覚めたら、季節はいつだろうか。
出来れば夏がいい。夏の始まり。雪解けが終わり、緑や虫や獣たちがひときわ生を謳歌する季節。
…なにしろ、寒いのは嫌いなのだから。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
随分と、長い夢を見ていたような気がする。
ぼやけた頭で、アルセリアはゆっくりと起き上がった。すぐ隣には、クォルスフィアの寝顔が。
ええと……ここは、どこだっけ。
寝ぼけ眼のまま部屋を見渡して、それから自分の手を見詰め、しばらく考えを巡らせて、ようやくここがイゼルハン岬の無人小屋だと、自分がアルセリア=セルデンだと、思い出す。
「………キア、キア」
呑気に眠ったままのクォルスフィアの肩を、軽く揺する。むにゃむにゃとその口が動き、次いで薄紅色の瞳がアルセリアを捉えた。
「………おはよ」
「うん…おはよう」
なんでだろう。何故か気恥ずかしい。けれども、最初に会ったときの険悪さやよそよそしさは、もうなかった。
「あの、さ……」
話す内容を思いつかないままに、それでも何か話しかけずにはいられずに、アルセリアが口を開いたそのとき。
「あ、お前ら、ようやく起きたか」
リュートが、ドアを開けて彼女たちに気付いた。その直後、
「え?起きたんですか、アルシー!」
リュートをものすごい勢いで押しのけて、ベアトリクスとヒルダが部屋へ雪崩れ込んできた。
その勢いのまま、アルセリアをぎゅっと抱きしめる。
「ちょ、ちょっとビビ…どうしたのよ。…ヒルダも」
珍しく取り乱した親友に驚いて、アルセリアは目を白黒させた。ヒルダも無言のまま、アルセリアにべったりとくっついている。
「どうしたじゃありません。もう五日もずっと寝たままで、何度声をかけても目を覚まさないし、リュートさんは心配要らないって言うけどそんなの分からないし、とてもとても心配したんですから!」
怒っているような泣いているような声でベアトリクスに言われ、アルセリアは初めて状況を知る。
「ええ!?私、そんなに長いこと寝っぱなしだった?」
確かに、夢の中で一年ちょっと分の過去を追体験したわけだが、現実世界でそこまで時間が経っているとは思わなかった。それでは、二人に心配をかけてしまうのも無理はない。
「……ゴメン」
「もう、アルシーは私たちに心配かけすぎです。少しは自重してください」
「アルシー、どっか行っちゃヤダ」
「うん……ゴメン」
そんな三人娘の様子を微笑ましく見ていたのはクォルスフィア。ふとリュートと目が合い、意味ありげな笑顔を浮かべた。
一人落ち着かなさげな様子なのがリュートである。なにやらソワソワと、気掛かりがあるような気まずそうな、何か言いたそうで言いにくそうな、
「あー…まあ、だから言ったろ?心配要らないって。二人ともちゃんと目を覚ましたし、一件落着ってことで」
何か、さっさと話を終わらせたがっているような態度。
抱きついたままのベアトリクスの肩越しに、アルセリアがリュートをじーっと見詰めた。
「な…なんだよ?」
その視線の生温かさに気付いたリュートが、恐る恐る訊ねるのだが。
「んーー?いや、べっつにぃ。まあ、アンタにも可愛げっつーものがあったんだなーって、そう思っただけ」
「可愛げ?」
その言葉にベアトリクスとヒルダは首を傾げる。
確かにリュートはお人好しでヘタレだったりするが、可愛げという表現はあまり当てはまらないというのが二人の見解だ。
アルセリアの意図するところを分かっているのはクォルスフィアだけで、その言葉にうんうんと頷いている。
「…えーっと………キア、アルセリアに、何見せた…………?」
クォルスフィアに訊ねるリュートの額には、妙な汗が浮かんで彼の焦りを如実に表していた。
「え?んとね、多分だけど、フィリエの記憶……かな」
実の所、クォルスフィアはアルセリアの精神と同調して眠っていただけなので、アルセリアが何を見たのか詳しくは知らない。
「フィリエ…って、あの?」
「そうそう、あの」
「え?なんでフィリエ?だってアイツは……」
「フィリエも今、私の中だよ。私とフィリエとヒヒイロカネ。三つで一つ…ね」
現在、“焔の福音”の中には、三つの異なる存在が溶け合っている。
クォルスフィアと、ヒヒイロカネ。そして、変異体とも呼ばれた幻獣……フィリエという名の、かつてのクォルスフィアの友。
アルセリアは、その中のフィリエの記憶の一部に触れたのだ。
「フィリエ………そっかー……アイツの記憶かー………良かったようなそうじゃないような」
リュートは一人で頭を抱えている。
そんなリュートに、意地悪をしたくなったアルセリアは、
「まぁまぁ。いいじゃない。誰にだって、青臭い時代はあるってわけで」
「青臭いって言うなーーー!」
リュートの新たな弱点を発見したことに、ほくそ笑むのであった。
ようやく過去編終わったーーー。
やっと通常運転に戻れます。




