第百八十六話 蜜月
蜜月、という言葉がある。
主に、互いを想い合う二つの意思の、周囲の目など何処吹く風で睦み合い、傍観者を胸やけで苦しめる様をいう。
当事者はそれが世界の全てだと信じ、則ち愛しい相手が世界の全てだと信じ、他の全てが目に入らない状態に陥っているため、どのような冷ややかな視線をぶつけられてもたとえ嫌味を言われたとしてもそれに気付くことはない。
災難なのは、それを目の当たりにしなくてはならない傍観者である。
…この場合、それはアルセリアのことである。
恐怖や崇拝とは無縁の形で自身を全面的に受け容れてくれたクォルスフィアに対する、魔王の態度の変化は見ていて滑稽になるか、さもなくば恐怖を感じるほどだった。
ゾッコン…という表現は、確かこういうときに使うのではなかっただろうか。
リュート=サクラーヴァが自分たちに向ける態度とは、熱が違う。
はっきり言って……気色悪い。
アルセリアには、誰か特定の人物に対し恋愛感情を持つという経験がない。
親愛の情ならば、ベアトリクスやヒルダは勿論、父親代わりのグリード、許せないところもあるが師匠であったラディウス、果ては魔族であるアスターシャにも感じている。
他にも、育った修道院の人々や、勇者として出会った多くの人々にも、特別とは言わないまでもそれに近い感情を持っている。
だが、恋愛となると、よく分からない。
クォルスフィアに、リュートのことをどう思っているのかと問われたとき。それを聞かれたのだとは分かっていた。
そして、もしかしたら自分はリュートに対してそういう感情を抱いているのかもしれない…と思ったことも事実だ。
だからこそ、リュートとクォルスフィアが何やら通じ合っているかのような姿を見て、面白くないと感じたのだろう。
けれども……
(これはちょっと、尋常じゃない気がする……)
クォルスフィアを溺愛する魔王を見ていて、そう思う。
自分ならば、例えリュートに抱いているものが恋心だったとしても、それよりも己の使命を優先させるだろう。世界のために魔王を滅ぼさなければならないのであれば、戦う道を選ぶ。
大切なものにも、優先順位というものがあるのだ。
だが、魔王はどうなのだろう。もし、クォルスフィアと世界全てとを天秤にかけるような事態が起こったと仮定すると、何の迷いもなくクォルスフィアを選ぶような気がしてならない。
もしそうだとすれば、それは最早愛情ではなく、狂気。
とは言え、幻獣の姿を借りて過去を覗き見ているに過ぎないアルセリアには、ただ見ていることしか出来ない。
クォルスフィアが嫌がっているならば別だが、他ならぬ彼女もまた、魔王にゾッコンなわけだから。
(もし、ずっとこのままだったら……天地大戦はどうなってたんだろう……)
目の前でクォルスフィアを愛おしげに見つめる魔王が、彼女の出身である地上界を、廉族を滅ぼそうなどと考えるだろうか。
しかし、現実にクォルスフィアは命を落とし、魔王は世界を破壊し尽くした挙句に創世神に封印された。
それは、彼女の知る未来。既に確定している出来事。
歴史に「もし」を持ち込むのは愚かなことだと言われる。だが、小さな分岐の積み重ねが未来を構成するのであれば、一つの小さな「もし」が未来決定に大きく関わることもあるわけで。
分かっていながら何も出来ないもどかしさは、アルセリアの中に澱のようにわだかまっていた。
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イーゼ・ヴァーンの海沿いで二人と一匹が暮らし始めて、二度目の夏が来た。
懸念されたさらなる天界の追手も、今の所は姿を見せていない。クォルスフィアは自身の境遇について何も話さず、魔王もそれを追及することはなく、束の間の平穏な日々は静かに過ぎていった。
その時間が、永遠に続くものではないのだと、この場でアルセリアだけが知っていた。
それでも、日々は巡り、少しずつ状況は変化していく。
クォルスフィアは、徐々に体調を崩し伏せることが多くなっていた。その原因が、“焔の福音”…幻獣殺しのヒヒイロカネにあることは間違いなく、しかし彼女は頑ななまでに、魔王にその存在を明かそうとはしなかった。
アルセリアは、魔王が理を…完全な形ではないにしろ…変える力を持っていることを知っている。世界の改変のようなものでなく、クォルスフィア一人をヒヒイロカネの暴走から救う程度ならば…或いは彼女の運命をも変えてしまう可能性を孕んでいたとしても…可能だったはず。
しかしクォルスフィアが魔王に真実を告げることはなく、魔王が彼女に与える加護により、永らえている。彼女が何故魔王に助けを求めないのか、アルセリアには理解出来なかった。
理由を知らないわけではない。理解出来なかったのだ。
未来で、ヒヒイロカネと同化したクォルスフィアから、敢えてその道を選んだことを聞かされている。ヴェルギリウスと同じ時間を手に入れ、共に過ごすために、彼女は人であることを捨てようとした。
だが、一歩間違えば、ヒヒイロカネに精神を…自我も記憶もひっくるめて…喰い尽くされ、廃人同様の意思の無い無機物に成り果てる可能性もあった…寧ろそうなる可能性が極めて高かった…に関わらず、その危険性を顧みずに決断を下した、そこまで魔王に思い入れるクォルスフィアの想いが、アルセリアには理解出来なかったのである。
「どしたの、フィリエ?……おいで」
もどかしい思いを抱えてベッド周りをうろついていると、クォルスフィアに声を掛けられた。
呼ばれたので、その枕元にぴょんと飛び乗る。
アルセリア…フィリエの頭を撫でるクォルスフィアの手は優しい。救えなかった友人への贖罪の気持ちが、彼女の態度の端々に見て取れた。
今この場に、魔王はいない。
生活必需品を補充するために、中心地の集落へ一人で出かけているのだ。
始めのうちは、魔王がそんな使い走りの真似事をすることが信じられなかったが、今はもう気にすることもなくなっている。
クォルスフィアの体調が良いときには、二人連れ立って出かけることも珍しくない。
「ねぇ、フィリエ…」
窓の外の緑を眺めながら、クォルスフィアがぽつりと呟いた。
「お願いが、あるんだ」
弱々しい声。魔王の前では明るく気丈に振舞っているクォルスフィアだが、体力の低下は著しく、フィリエにだけは弱った姿を隠すことなくさらけ出すようになっていた。
「…あのね。もし、私がね、私じゃなくなっちゃったら…………私を、終わらせてくれるかな?」
「……きゅゆー……」
頷く以外に、どうすればいいというのだろう。
だが、続くクォルスフィアの言葉には驚愕を隠し切れなかった。
「出来れば……ギルに手を下してもらいたい。…彼を、そういう風に仕向けること出来る?」
「きゅ……きゅきゅきゅきゅ!?」
なんてことを言い出すんだこいつは。
アルセリアは、唖然とすることしか出来ない。
愛する男に、自分を殺させようとするだなんて。そうなった場合の、相手の気持ち…絶望や苦悩が、想像出来ないはずないのに。
「正直言って、どうなるのか自分でも分かんない。自信もないし。叶うことなら、ギルとずっと一緒にいたいと思ってるけど……それには、一か八かの大博打を打たないといけなさそうでさ」
すっかり痩せた自分の腕を見つめる彼女の瞳には、諦めきれない希望が、絶望よりも強く彼女を苛む光となって揺らめいていた。
「だから、もしダメだったら……私が負けちゃったら………せめて、ギルの手で終わらせてほしいんだ」
「……………きゅゆ」
「ありがと」
アルセリアの言葉は分からないはずのクォルスフィアだが、このときばかりは真意が伝わった。ある意味一番伝わってほしくなかった返事なのに、皮肉なものだ。
そうしてアルセリアは知った。狂気にも似た苛烈な愛情を抱いているのは、魔王だけではないのだと。
もし、目的が果たせないのであれば、せめて愛する者に自分を殺させることで、その中に永遠に生き続けようという悲しくもおぞましい願望。
自分を殺めた記憶の鎖で、魔王の心を縛り付けようという、残酷な計画。
人の身でありながら、確かに彼女は魔王とお似合いなのだと痛感するアルセリアだった。
バカップルのベタベタっぷりをもう少し書きたかったんですが、話が変な方向に進んじゃいそうなのと、自分も胸やけしそうなので詳細は割愛です。
茶番も次話あたりで終わりなので、もう少しだけご辛抱下さい。




