第百八十四話 幻獣殺し
「きゅゆゆ~…」
心配そうに声を掛ける背後の幻獣に向かって、クォルスフィアは安心させるために普段どおりの笑顔を作ってみせた。
「大丈夫だよ、フィリエ。何も怖くないから、ね」
だが、そんな彼女に対し、天使は軽蔑を隠そうともしない。
「……つくづく愚か。それは最早、汝がそう呼んでいた者とは違う。なぜそれを認めようとしない?」
その言葉に、クォルスフィアはそれまでとは打って変わって鋭い敵意のこもった眼を天使へと向けた。すでに天使族は、彼女にとって崇敬の対象ではなくなっているのだ。
「貴方たちに言われたくないね。フィリエをこんなにした貴方たちにだけは」
幻獣とは、実体を持つ精神生命体の総称である。精霊とは違い、召喚の際には実体化のための依り代が必要となる。
「何を言う。汝の友は、自ら望んだのだ。邪悪なる王とその尖兵を滅ぼす存在となることを」
「それは嘘だ」
天使の言葉を、即座に否定するクォルスフィア。
「貴方たちが、彼女を騙して唆したんだ。依り代になることの危険性なんて、説明しなかったんでしょう?そのくせ、フィリエが暴走したらすぐに見限った。助けようともせずに」
「当然だ。廉族はその全てを我らの秩序に捧げるべきである。邪悪を滅ぼすためならば、犠牲など惜しむ必要もあるまい」
「そんな勝手な理屈があるか!」
「それが世界の在り方だ。秩序によって世界は繁栄と安寧を許される。それを破壊せしむる者は悪。我らの秩序を拒む者もまた悪」
このまま続けていても平行線を辿りそうな会話。
最初から、前提条件も求めるものも、違いすぎるのだ。
会話の流れで、アルセリアにもなんとなく事情が理解出来てきた。
おそらく、クォルスフィアが「フィリエ」と呼ぶのは、彼女の友人。天使族による幻獣召喚の依り代にされ、何らかの理由で召喚は失敗したのだろう。そして暴走した。
「汝が務めを果たさぬのならば、“焔の福音”は返してもらう。それは、主の祝福を受けた神宝である」
ヒヒイロカネは、暴走し手に負えなくなった幻獣を殺すためにクォルスフィアに授けられた神剣。
それでも彼女は友人であった幻獣を殺しきることが出来ず、その一部を生かそうとしたのか。
それが、今の「フィリエ」。幻獣の子株と呼ばれた、今はアルセリアに視点を貸してくれている、小さな獣。
「私は、神意に背いた汝を滅し、そのおぞましき失敗作を始末するために来た。これは、天界の総意である」
天使の宣告。一人の廉族に過ぎないクォルスフィアにとって…たとえ彼女が“幻獣殺し”だったとしても…天界を敵に回すということは逃れようのない絶望と破滅を意味する。
それでも、彼女は。
「そいつは随分と買いかぶってもらっちゃったね。なんだか大物になった気分だよ」
不敵に笑うと、手にした剣を構えた。
ヒヒイロカネ。“焔の福音”、後世においては“幻獣殺し”と呼ばれることになる、緋色の輝きを抱く剣。
クォルスフィアが戦闘態勢に入ったのを見て、天使は攻撃意志を固めた。
手にした黄金の大鎌で、空間を切り裂く。
かまいたちのような衝撃波がクォルスフィアを両断しようと迫りくるのに対し、クォルスフィアもまた剣を振るった。
衝撃と衝撃がぶつかりあい、互いを打ち消す。余波で、周囲の空気が震えた。
(なんて重い攻撃なんだろう……)
離れたところで見守りながら、アルセリア=フィリエは思う。スピードや技量、鋭さの問題ではない。攻撃の、力の密度そのものが、自分とは大違いだ。
(これが、“幻獣殺し”………)
英雄級の猛者が跋扈していた神聖期において、化け物の中の化け物とまで呼ばれたその力は、確かに彼女の知る廉族とは一線を画していた。
天使とクォルスフィアの攻防は続く。“幻獣殺し”と互角であるその天使はかなりの高位なのか、或いは天使相手に一歩も引かないクォルスフィアが異常なのか。
しかし、異変は徐々に現れた。
少しずつ…だが明らかに、クォルスフィアが押されてきている。
(……なんだろう、すごく苦しそうだ)
原因はアルセリアには分からない。だが、いまだ天使の攻撃は防ぎきっているため、そのダメージというわけではなさそうだ。
となると、それ以外の原因。
そう言えば。
アルセリアは、思い出す。
彼女がこの過去の世界に来て初めて見たクォルスフィアの姿。
魔王は、魔力が暴走していると言っていた。それが、もともとヒヒイロカネの持つ負の面なのか喰らった幻獣のせいなのか、そこは定かではない。
定かではないが、クォルスフィアが再び暴走する力に苛まれていることは確かだ。
「どうした、娘。勢いが削がれてきているぞ」
「う…るさいっ」
劣勢になっていくクォルスフィアと対照的に、天使の猛攻は止まらない。とうとう、その攻撃がクォルスフィアを捉え始めた。
(どうしよう……どうすればいい?)
まだ、決定的な一撃は与えられていない。だが、それも時間の問題のように思われた。
「…っく…」
右大腿部に傷を受け、膝をつくクォルスフィア。
まだ闘志は失われていないが、機動力を奪われては相手の攻撃を捌ききれない。
こうなったら、自分がなんとかするしかない。
それは、アルセリアの勇者としての責任感ではない。クォルスフィアが置かれている状況は少なからず彼女…フィリエが関わっていることは確かで、半ばフィリエと自身を混同している彼女には、その責任を取らなければという意識が働いたのだ。
(そもそも、今の私って幻獣なのよね。天使も匙を投げた超強力なやつ。だったら、今は子株だって話だけど、少しくらい戦えるんじゃ……)
アルセリアは、自分がアルセリアであることを捨てる。
今この瞬間だけ、自分はフィリエなのだ、と言い聞かせて。
大丈夫。身体に宿る記憶と本能は健在だ。彼女は、自分が何者なのか知っている。自分に何が出来るか知っている。
「きゅるるる!」
だから自分が思っていたよりも遥かに愛らしい唸り声が出てしまったことには脱力を禁じ得なかったが、それでも体内に熱く魔力が漲るのを感じ取れた。
「きゅう!!」
咆哮と呼ぶにはやはり愛らしい鳴き声と共に、彼女は全身から雷撃を放った。
全方位ではない。そんなことをしたら、クォルスフィアまで巻き込んでしまう。
今の彼女には、雷撃の指向性さえ自在に操ることが出来る。黄昏時の空と同じ色の雷がまっすぐに、天使へと向かう。
“神託の勇者”アルセリアが扱ったことのあるどんな術式よりも猛々しい光が、天使を直撃した。
閃光が迸り、薄明かりの空間を一瞬鮮烈に照らし出す。
しかし。
「…愚かな」
フィリエの渾身の一撃にも、天使は倒れなかった。
まったくダメージを受けていないわけではないようだが、それでも致命傷には程遠い。
「本体ならばいざ知らず……貴様のような小さきものが私に敵うとでも思ったか」
嘲笑う声もどこか無機質なまま、天使は彼女へ向けて鎌を振るった。
「きゅあん!」
衝撃波に吹き飛ばされるフィリエ=アルセリア。
「フィリエ!!」
クォルスフィアの悲鳴を遠くに聞きながら、ここで終わるわけにはいかない、次の手を…と思案を巡らしながら、宙を舞う。
……ぽふん。
てっきり地面に落ちると思っていたフィリエだが、思いのほか軽かった衝撃に驚く。
「……蹴鞠遊びか?」
そして、頭上からの声に瞑っていた眼を開けた。それから、自分を受け止めた腕の持ち主を見上げる。
「きゅゆゆ………」
彼女のそれは、安堵の声ではない。感謝の言葉でもない。
寧ろ、抗議に近い。
ずいぶんといいタイミングで現れやがって。さては、様子を見ていたのか?
だったら、もっと早く出てこいってんだこのバカ。
ひどく先の未来でも同じようなことを思ったことがあるような気がする。
だが今この場で、彼女の前にいるのは世話焼きで口うるさいヘタレ紳士のシスコン野郎ではない。
蒼銀の瞳に好奇心を宿らせ、いつになく面白そうな表情で、魔王ヴェルギリウスが現れた。




