第百八十三話 天界の刺客
北国の夏は短い。
あるかなしかの秋も瞬く間に過ぎていき、いつの間にか、クォルスフィアが魔王の隠れ家に棲み付いて初めての冬がやってきた。
その間、二人と一匹の生活に大きな変化は見られなかった。ただし、小さな変化は数多く見られた。
まずは、小屋の中が変わった。
生活に必要なものが次々と揃えられ、すっかり居心地の良い空間へと変貌している。当然、クォルスフィアの仕業だ。
一体どこから調達してきているのやら、二人分の家具をしっかりと揃えているあたり流石である。
それから、クォルスフィアの料理が微妙に改善した。
これは、アルセリアの功績によるところが大きい。無論、アルセリアとて料理はまったく出来ないと言っていい。だが、長くリュートの料理を食べ続けてきたおかげで、舌だけは肥えている。なんとなくだが、クォルスフィアの料理には何が余分で何が足りないかくらいは分かるようになった。
そこでアルセリアは、料理をするクォルスフィアの周りをうろちょろしては、彼女が余計なことをする前にそれを阻止してみたり、明らかに足りない(入れ忘れている)ものがあると察したときはそれを見えやすい位置に持ってきてみたり。
そんな涙ぐましいアルセリアの努力のおかげか、徐々にクォルスフィアの料理は少しはマシなものになっていったのだ。
微妙に不味い料理から、そこはかとなく残念な感じの料理へ、と。
そこが、彼女たちの限界だった。もともと自分では料理をしないアルセリアにはそれ以上のアシストは出来ず、クォルスフィアも自分で気付くには力不足。
ここにリュートがいてくれたら…と思うアルセリアだったが、ここにいるのは只の魔王ヴェルギリウス。多分、この三人の中で一番料理とは無縁だろう。
とは言え、美味とは言い難いにせよクォルスフィアの料理は「普通に」食するに堪えうる水準に達し、慣れという最大の防御スキルも合わさって、彼女らの生活の質は大幅に向上した。
そんな生活が日常となってしばらくした頃。
「…なーんも見えないね」
真っ暗な窓の外を見ながら、クォルスフィアは退屈そうに言った。
彼女の視線の先には、横殴りの吹雪と、その向こうの闇。彼女らの小屋は集落から離れたところにあるのだが、村の明かりがまったく見えないのは距離のせいだけではない。
イーゼ・ヴァーンの夜は早い。
厚い雪雲のせいで、月も星も見えず、時刻は午後三時だというのに既に日は暮れ、辺りは完全な暗闇と吹雪に閉ざされていた。
「ねぇフィリエ。ギル、大丈夫かなぁ?」
フィリエ(中身はアルセリア)を抱き上げるクォルスフィアの表情は浮かない。今ここに、魔王はいない。少し所用がある、と朝から出かけてしまっていたのだ。
「何も、こんな天気の日に出掛けなくたっていいのに。そう思わない?」
クォルスフィアは、魔王がどんな用事で外出したかを知らない。アルセリアは、おそらく魔界に帰っているのだろうと想像していたが、未だ彼が本物の魔王であると信じていないクォルスフィアにはその考えは浮かばなかった。
魔王がこうしてふらりといなくなるのは、初めてのことではない。これまでも、クォルスフィアに声をかけるときもかけないときもあるが、何度か姿を消していた。
数日もあれば再び戻ってくるため、クォルスフィアもアルセリアも、彼の小屋で我が物顔に寛ぎながら彼の帰りを待つだけだったのだが。
流石に、これほどの荒天では心配になるようだった。
「きゅいーきゅきゅ(大丈夫でしょ、あいつ魔王だし)」
この頃になると既に、自分の言いたいことがクォルスフィアに(も魔王にも)通じないことに関して諦めの境地に至っているアルセリアだが、それでも律儀に慰めてみる。
「うんうん、フィリエも心配だよね」
……やはり、通じていない。
「うーん、やることもないし、ご飯の準備でもしよっかな。ギルも早めに帰ってくるかもしれないしね」
抱いていたアルセリアを地面に下ろし、キッチンに向かうとクォルスフィアは夕食の支度を始めた。
とは言え、長く雪に閉ざされるイーゼ・ヴァーンの冬は食材に乏しく、さらに人里離れたこの場所ではなおさらだ。夏の間とは違い、足りないものを集落の人々と融通し合うのも限界がある。実際、ここのところの悪天候続きで、二、三日家から出ていない。
「ギル、お土産持ってきてくれるかなー」
それでも彼女らが飢えずに済んでいるのは、魔王が出先(多分魔界)から戻る際にほぼ必ず食材やら何やらを携えてくるからだ。
あいつ、なんだかんだ言って昔から世話焼きだったんじゃないの?と思うアルセリアだが、その思いを語り合う相手はここにはいない。
「うーん、小麦粉が少ない…あと三日分くらい…かなぁ。干し肉は……冬前にたっぷり作っておいたからまだ大丈夫だけど……おイモも心許ないし、贅沢は出来ないね。薪は……いざとなったら魔法使っちゃえばいいか」
言いながら、クォルスフィアは塩漬けの干し肉を炒める。塩抜きという工程は、クォルスフィアはおろかアルセリアも知らなかったのだが、最初に干し肉をそのまま食べて塩辛さに悶絶した経験から彼女らは一つ学習した。
それから小麦粉を水で練り、ふかしたイモと干し肉と合わせて団子を作る。
本来ならば、この後お湯を沸かして団子を投入し、出汁替わりに塩抜きをした後の水を一部加え、さらに水で戻した干し大根も加えてスープをつくるという手順だったのだが。
調理の途中で、クォルスフィアが急に動きを止めた。平静な表情の中に幾分かの緊張を孕ませて、静かに窓の外を見る。
何が起きたのかと、アルセリアもつられて同じように外を見て、我が目を疑った。
吹雪が、やんでいた。
それだけではない。それだけならば、良かった良かったと胸を撫でおろして終わりだった。だが、窓の外はまるで昼間であるかのように、明るかった。
…夜の闇が、追いやられていた。
太陽の光のように透き通ったそれではない。まるで霞のように、乳白色のベールの如き光が、部屋の中にまで射し込んでいる。
どう考えても、異常だ。
「……やれやれ。ほんとしつこいったら、あいつら」
呆れたように腹立たしそうに、包丁を置いたクォルスフィアは玄関へ向かう。
この現象に、心当たりがあるようだった。
「きゅいきゅ?」
扉を開けて外へ出て行ったクォルスフィアを、アルセリアは慌てて追いかける。なんとなく、彼女を一人にするのは良くないような気がしていた。
外は、ぼんやりとした光に支配されていた。
本当にここが、いつものイーゼ・ヴァーンなのかさえ、定かではない。それほどまでに、現実離れした光景。
吹雪がやんだのなら、潮騒が聞こえてくるはずだった。だが、ここにあるのは静寂のみ。明るいはずなのに、遠くの山脈も海も見えない。
「…きゅ、ゆー………」
得も言われぬ不安を覚え、アルセリアは前を行くクォルスフィアに追いつくと、その肩に飛び乗った。やや安定性に欠けるが、こうしていると何故か安心出来る。
「大丈夫だよ、フィリエ。守ってあげるって言ったでしょ」
「……きゅ?」
言ったでしょ、と言われても、アルセリアには覚えがない。彼女が見ている過去よりも、さらに昔のことだろうか。
……守ってあげる、と言われるということは、守られるような必要がある…ということか。一人にしておくのが良くないのは、クォルスフィアではなくてアルセリアの方なのかもしれない。
だが、今のアルセリアに何が出来よう。
ここは、本来のアルセリア=セルデンがいる時代より遥か昔の時間軸。例えここで「フィリエ」が命を落とすようなことになったとしても、それが過去の出来事…歴史であるならば、彼女にそれを覆すことは許されない。
今の彼女は、歴史の傍観者に過ぎないのだから。
不安そうな小幻獣を優しく撫でると、クォルスフィアはさらに歩を進めた。景色の変化が見られないので、距離感までおかしくなる。
目的地が分かっているようには思えないが、クォルスフィアの歩みに躊躇いはない。
やがて。
「どういうつもりだ、断罪の乙女よ」
声が、降って来た。
その声がした瞬間、クォルスフィアは足を止める。彼女は、それを待っていたのだ。
「どうもこうも、前に私の気持ちは話しておいたと思うけど」
表情一つ変えず、声の主に言い返す。
「……それは、我らの意に反する。それは、赦されざる大罪である」
抑揚の乏しい声と言葉。
クォルスフィアの前に、声の主が姿を現した。
どこから現れたのか、アルセリアには分からなかった。
遠くから歩いて来たのかもしれないし、空から降って来たのかもしれない。或いは、最初からその場所にいたのかもしれない。
いずれにせよ、それは人間ではなかった。
感情のない、虚ろな表情。虚ろな眼差し。虚ろな声。そして、背中の大きな翼。ガラス玉のような瞳で、クォルスフィアを見つめている。
「きゅーい…(天使族…)」
思わず声を漏らしたアルセリアを、クォルスフィアはそっと撫でた。
クォルスフィアを断罪の乙女と呼んだその天使は、そんな彼女の様子を見て、気分を害したようだ。それでも表情が変わることはなく、声を荒上げることもなく、
「忘れたわけではあるまい。我らは、汝にヒヒイロカネを与えた。そして汝はそれを以て変異体を滅しその骸をヒヒイロカネに喰わせるはずであった…だろう?」
変異体、とは後世で言う暴走した幻獣…“幻獣殺し”の由来となった、召喚主である天使さえ手に負えなくなった例の個体のことか…とアルセリアは思い至る。
「だから、ちゃんとやったじゃないか。って言うか、それだって後で聞かされたんだからね。最初はそんなこと言ってなかったくせに」
天使相手に、平気で食ってかかるクォルスフィア。
「何も説明なしに化け物退治してこいとか強制されて、その後でグダグダ言われても知らないよ」
種族間の力関係で言えば、クォルスフィアの態度は不敬に過ぎる。だが、天使は態度そのものには関心を示さなかった。
「……成し遂げた、と汝は言うが、ならばその肩の幼体はなんだ?」
いきなり矛先を向けられて、アルセリアは飛び上がる。天使の眼差しは、明らかに自分を射抜いていた。
「……まだ子供じゃないか」
「それは、変異体の子株。末端にしてそれを継ぐ者。いずれ成長し、親株と同等の破壊性を示すようになるだろう。今のうちに、芽を摘んでおかなくてはならない」
……子株?変異体の?
初めて聞いた新事実に、アルセリアは仰天する。
まさか、自分が身体を借りているこの小幻獣が、変異体と呼ばれる幻獣の一部だったなんて。
「断罪の乙女よ。汝に今一度慈悲と機会を与えよう。我らが意に従うのならば、汝の罪は不問とす。だが、再び拒むというのであれば、汝は神に背いた大罪人として裁かれることとなる」
虚ろな表情のまま、冷たく告げる天使。彼の言う「裁き」が何を示すかは、聞かなくても想像出来た。
「へぇ、そっか。別にいいけどね。貴方たちに許してもらわなくても、自分で自分を許すから」
だが、クォルスフィアは不敵に笑い、それを拒絶する。
問答は、それで終わりだった。
もとより優しさから猶予を与えると言ったわけではない天使にとって、命令に背いたクォルスフィアに裁きを下すことは容易いこと。
「……愚かな廉族よ。死の瞬間に、主の御名を称えるがいい」
天使が、その手に握る錫杖を一振りすると、そこに三日月状の刃が生まれた。
巨大な光の鎌を携えて、距離を詰める天使。
クォルスフィアもまた、それを迎え撃つために虚空より得物を取り出した。
仄かな朱の刀身。ヒヒイロカネと呼ばれた、幻獣殺しの聖剣。
アルセリアは、止めることが出来なかった。
彼女の常識で考えれば、廉族である人間が天使に勝てる道理はない。
だが、クォルスフィアは“幻獣殺し”。天使族でさえ匙を投げた強力な幻獣を一撃で屠ったという英雄。ならば、勝ち目のない戦いではない…はず。
そう判断し、戦いの邪魔にならないようにクォルスフィアの肩から降りると、距離を取る。
「解せぬ。そのような幻獣如きのために命を散らせようなどと」
「私は、貴方たちに言われたから変異体を討伐したわけじゃない。…これも言っておいたと思うけど?私は私の意志で私のやり方で私のやるべきことをやる。最初から最後まで任せきりに出来ないんだったら、端から当てにしないでほしいね」
互いに譲歩する気はない両者。
天使と英雄の殺し合いが、始まろうとしていた。
視点が魔族寄りなのでどうしても天使族が悪役っぽくなってしまいますが、ちゃんと彼らには彼らなりの考えとか理由とかがあったりするんですよ。嫌な奴ばっかりじゃないはずなんですが……
でも天使を善役にしてしまうと、話が進まない………別に自分、悪魔崇拝者じゃありません。




