第百八十一話 過去へ。
ここからしばし、過去のお話です。
普段とは違うリュート=ヴェルギリウスの姿が見られますよプププ。
アルセリアは、閉じていた眼を開けた。
視界に広がるのは、屋外の光景。そして彼女はすぐに、違和感に気付いた。
何か、妙だ。
そしてその違和感の正体が、視点の高さにあるということに気付く。彼女が見ているのは、地面からせいぜい三十センチほどの高さ。まるで、自分が小動物にでもなってしまったかのような。
その原因に気付くより早く、彼女はクォルスフィアの姿を見付けた。
ただし…彼女は、地面に伏していた。酷く、苦しそうな表情で。
ちょっと、大丈夫?
駆け寄りながらそう呼びかけようとした彼女の口からはしかし、「きゅい、きゅいいー?」という、何とも愛らしい小動物然とした鳴き声しか出てこなかった。
「…きゅ!?(なんで!?)」
訳も分からず口に手を当てようとして、自分の手を見る。
フサフサの毛に覆われた、ぷにぷにの肉球のついた、けれども爪だけは結構鋭い、手を。
「きゅきゅ?きゅきゅきゅいゆーーー!?(ちょっと、なんなのよこれ!?)」
予想外の事態に、慌てて自分の身体を見回すアルセリア。
そして知る。
どうやら自分は今、小犬くらいの大きさの、フッサフサの小動物になっている…ということを。
ここが、クォルスフィアの精神世界の中であることは最初から分かっている。だが、どうせなら人間視点で見せてもらいたかったものだ。
何はともあれ。
小動物アルセリアは、倒れているクォルスフィアに顔を近付けた。
匂いを嗅いで、その様子を確かめるのだが、中身は人間のはずなのに自然とそういう行動を取っているのが我ながら不思議である。
「きゅい、きゅいゆーきゅきゅきゅ?(ちょっと、私に見せたいものがあるんじゃないの?)」
そう言いながら鼻でクォルスフィアをつつくのだが、彼女は苦しそうに喘ぐばかり。
(…どうしよう。なんか、トラブルがあったのかも……)
心配になるアルセリアだが、今の自分には何も出来ない。と言うか、ここは過去の光景なので、自分が勝手に何かをしてしまっていいものかとも思う。
だが、アルセリアが右往左往しているうちに、クォルスフィアの顔色はどんどん蒼白になっていく。呼吸も、荒々しかったのが徐々に弱まってきている。このまま、止まってしまうのではないかと恐怖に駆られたそのとき。
背後で草を踏む音がして、アルセリアは即座に振り返った。
今は、自分がクォルスフィアを守らないと。
理由など関係なしに何故か心に湧いて出た気持ちに疑問を持つこともなく、彼女はその足音の主に警戒態勢を取ることにした。
すなわち、毛を逆立てて、唸り声を上げる。
「ゔるるるるー」
だが、唸りながら視線を上げていったアルセリアは、その人物の顔を見た途端、息を呑んだ。当然、唸り声も止まる。まるで、その人物に恐怖を抱いたかのように。
「………幻獣の幼体か。珍しいな」
そうは言いつつ大して興味を持っていないような、気だるげな口調。
冷たい声。冷たい眼差し。冷たい、けれども恐ろしく整った容貌。
「きゅーきゅ……きゅゆ、きゅゆきゅきゅきゅーきゅ…(リュート…いえ、魔王ヴェルギリウス…)」
彼女の呟きが、彼に理解出来たかは分からない。
「我を見て逃げぬとは、幼いながら豪胆な幻獣よ」
魔王ヴェルギリウスは、ほんの少しだけ彼女に関心を持ったようだった。
だが、それも一瞬のことで。
すぐにアルセリアから目を逸らすと、そのまま何処へか立ち去ろうとする魔王。
彼女は思わず、その足元に噛みついていた。
「…………ふむ?」
当然のことながら、魔王はまるで痛みなど感じていない。だが、自分自身に攻撃意志を見せた小動物を、感情の見えない瞳で見下ろした。
「きゅゆっ(ひぇっ)」
今ここにいるのは、自分の知るリュートではなく冷酷無比の魔王なのだということを今さらながら思い出し、アルセリアは自分の無謀に肝を冷やす。
だが、それでも彼女は逃げ出さなかった。逃げ出す代わりに、
「きゅゆーゆ、きゅゆ、きゅゆゆ(いいから、ちょっとこっち)」
身振りで魔王を誘導する。
倒れるクォルスフィアの元へ。
魔王は、足元の小幻獣の意図にはすぐ気付いたようだ。
「ほう………幻獣風情が、廉族の小娘を助けろと我に要求するか……面白い」
魔王からすれば無礼極まりない行動だろうに、気分を害した様子はなかった。それどころかさらに興味を持ったようで、誘導に従いクォルスフィアの傍へ行く。
「……ふむ。魔力の流れが相当乱れているな。この分では、そう長くはあるまい」
なんの感情もなく淡々と述べた魔王の冷たさが、アルセリアの頭の中を沸騰させた。
「きゅゆ、きゅっきゅきゅーゆ!きゅゆーゆきゅいゆーきゅ、きゅきゅきゅ!きゅきゅ!!(ちょっと、なんなのその言い方は!彼女貴方の大事な人なんでしょ?どうにかしなさいよ!魔王なんでしょ!)」
言葉が通じているとは思えないが(それ以前に言葉にすらなっていないが)、必死にバタバタしながら訴えかけていると、魔王に首根っこをつかまれて、ひょいと持ち上げられてしまった。
「きゅきゅきゅ!?」
顔を近付けてマジマジと観察してくる魔王。世にも不思議な生物を発見したかのような、物珍しげな表情をしている。
「きゅ……きゅいー………」
「随分と面白い生き物だ。貴様は、我が恐ろしくないのか?」
正直、そのときのアルセリアは魔王を恐ろしいとは思わなかった。これが自分の現実ではないと分かっているから…と言うよりは、それよりも苦しそうなクォルスフィアを何とかしてやりたいと思ったし、自分を摘まみ上げる魔王に敵意や害意を感じなかったから。
「きゅゆー…………」
「分かった分かった。この娘を助ければいいのだろう?」
驚いたことに笑みまで浮かべ、魔王は彼女の願いを叶えてくれるようだ。
「光栄に思うがいい、小さきものよ。魔王に直訴して殺されぬばかりか聞き届けてもらえるなど、本来ならば望みえぬ幸運なのだからな」
そう言いながら魔王は小さきもの…アルセリアを地面に下ろし、代わりにクォルスフィアをこれまたひょいと担ぎ上げた。
……の、だが。
「きゅ!きゅきゅゆーきゅ、きゅきゅゆきゅゆゆきゅ!!(ちょっと!女の子にそれはないでしょ!!)」
まるで、荷物のように肩に担ぎ上げている。死にかけている少女の運び方にしては、やけにワイルドだ。
だが、流石に魔王には届かない。
「妙な獣だ。言うとおりにしてやっているというのに、何が不満なのだ?」
足元できゅいきゅい鳴き続けるアルセリアに構わず、そのままずんずん進んでいく。
「きゅゆー…………」
それでも、無視されなかっただけでも上等かと思い直し、アルセリアも彼を追いかけた。
初夏の草原を抜け、小川にかかる小さな橋を渡り、海の見渡せる丘の、小さな森の脇にひっそりと佇む、一軒の小屋。
魔王は、そのお世辞にも立派とは言えない小屋の中に、クォルスフィアを荷物担ぎしたまま入っていった。
「きゅ、きゅいきゅい」
そのままアルセリアには構わず扉を無造作に閉めようとするものだから、彼女も慌てて中へ飛び込む。
「きゅ…………」
部屋の中も外観同様、魔王に相応しいとは言い難い質素な造りだった。
家具と言えば、火の入っていない暖炉、小さな机と安楽椅子、ベッドが一つ。壁に絵画出窓に花瓶マントルピースに写真立て…というのが一般的な家庭のインテリアだったりするが、当然そんなものも見当たらない。
生活感があるようで、皆無。
「とりあえず、寝かせておけばいいのか?」
魔王がそう言って、抱えていたクォルスフィアをベッドに落とす。
寝かせる、ではなくて、落とす。
無造作に、乱暴に、どさり、と。
「きゅいゆ、きゅゆゆきゅーきゅきゅ!(ちょっと、乱暴にすんじゃないわよ!)」
アルセリアの抗議に、何故叱られるのか分からない、といった感じに首を傾げた。
「…ここでは駄目なのか?」
「きゅゆ、きゅきゅゆーきゅ!(そうじゃなくて、もっと優しく!)」
「病人は寝かせるもの…なのだろう?」
「きゅーきゅーきゅう!(だーかーらぁ!)」
駄目だ、こいつと話していても埒が明かない。
言葉が通じないという状況を無視して全ての責任を魔王に押し付け、アルセリアはなんとかクォルスフィアに毛布を被せようとする。
初夏とは言え、病気…かどうかは分からないが少なくとも体調は悪かろう…の人間には厳しい寒さだ。まずは、暖めてやった方がいい。
乏しい看病経験を総動員してそう判断したわけだが、なにぶん身体が小さいので大きな(自分比)毛布を扱うのも一苦労。モタモタしていると、
「…不器用な奴だな」
見かねた魔王が、アルセリアがぐちゃぐちゃにした毛布をきちんとクォルスフィアに掛けてくれた。
「きゅきゅ、きゅゆきゅゆゆーきゅ(なんだ、優しいところもあるんじゃない)」
見直してやったアルセリアだが、勿論魔王にその言葉の意味は分からない。
「……しかし、廉族にしては異様な魔力量だな。暴走しているのはそのせいか?」
しばらくクォルスフィアを見つめた後で、魔王はそう言うと、
「ならば、これで問題はあるまい」
クォルスフィアの身体に手をかざした。
「きゅ………!」
クォルスフィアの身体中を荒れ狂っていた魔力が、徐々に穏やかになっていく。それと並行して、クォルスフィアの苦悶の表情も和らいでいった。
本来ならば目に見えないはずの魔力の流れが、アルセリアにははっきりと見えた。おそらくそれは、幻獣の特性。
五分もせずに、クォルスフィアの魔力の乱れは正常に戻っていた。穏やかで規則正しい寝息に、アルセリアはほっと一息つく。
「…まぁ、その場凌ぎでしかないが、我がこの娘にこれ以上のことをする謂れはないからな」
病人がいたら看病するだけでは飽き足らず完治するまで面倒を見るばかりかリハビリにまで付き合いそうなリュートとは比べ物にならないほど淡泊な態度だが、魔王としてはこちらの方が自然なのだということは、アルセリアにも分かっている。
分かっているから、それ以上は要求せずに(しても理解してもらえない…)クォルスフィアの枕元で丸まった。
「……貴様は、この小娘の下僕か?」
「きゅきゅゆーゆ!きゅゆきゅーゆきゅゆゆ!(失礼ね!そんなんじゃないわよ!)」
「分かった分かった、そう怒るな」
話が通じてそうで通じていない…と思いきや通じているのかもしれない。魔王は、憤慨するアルセリアをからかっているようにも見えた。
それから、数時間後。
西日が低く室内へ射し込む頃。
「………んん………………」
小さく声を上げて、クォルスフィアがもぞもぞと身動きし、それから目を開けた。
「あれ………ここ……?」
「きゅゆーゆ、きゅきゅゆゆきゅーゆ!(良かった、心配させないでよね!)」
アルセリアはほっとして彼女に顔を寄せるのだが、
「ああ、フィリエ。どしたの?心配させちゃった?ごめんね」
聞きなれない名前でアルセリアを呼び、抱き上げて頬ずりする。
「きゅ?きゅゆゆ、きゅゆゆきゅゆきゅっきゅ!(ちょっと?私、アルセリアだってば!)」
「やだ、暴れないの、フィリエ」
これは、どういうことだろう。
クォルスフィアは、この幻獣とアルセリアが同調していることに気付いていない。と言うか、アルセリアという存在など、知らないかのよう。
(それとも、彼女の記憶の中だからそれは当然……なのかな?)
なけなしの脳みそで考えるアルセリア。
そしてなんとか、自分はクォルスフィアと行動を共にしていた小幻獣の目を通して彼女の過去を見ているのだ、という結論に達する…それが正しいかどうかは分からないが。
「それにしても、ここは何処かなー?」
アルセリアを抱きしめたまま、きょろきょろと部屋を見回すクォルスフィア。
見回す必要もないほどのこじんまりとした部屋なので、すぐに彼女は魔王に気付く。
「え……と、…どちらさま?」
魔王は目覚めたクォルスフィアには大した興味を持たず、安楽椅子の上で何やら本を読みふけっていた。
クォルスフィアの呼びかけにも、ちらりと視線を一瞬送っただけで、再び本に目を落とす。
「現状で最も相応しい言い方をするならば、貴様の命の恩人だ」
冗談なのか本気なのか分からない口調で魔王が言った瞬間。
「そっかー!ありがとう、どうなることかと思っちゃったよ!」
万年雪さえ溶かすような満面の笑みに、魔王はぎょっとしたような顔をする。
「いや……別に、そこの小動物が喧しかったからな」
純真な感謝に慣れていないのか、戸惑いを隠せない魔王は素っ気なく言うと顔を背けた。
(こいつ……まさか照れてるの?)
アルセリアは思ったが、何も言わないでおいた。言っても分かってもらえないのだが。
これが、魔王とクォルスフィアの出逢いだった。
この時点で、二人がどんな出来事に遭遇するのか、今のアルセリアには想像も出来ない。
だが、何が起こることになるのか分からなくても、二人の関係がどうなるのかは、知っている。遠い未来で、聞かされたから知っている。
知っているから、複雑な気分。
……せめて、邪魔をしないように気を付けよう。
などと、殊勝に考えたりもしたのだった。
魔王ヴェルギリウスの青臭い時代のお話です。
リュートがまったく出てこないのって、なんか新鮮で面白い…




