第百六十七話 士天使イヴリエール
……ここは、何処だろう。
俺は、辺りを見回した。
レティシア王女も、アルセリアも、ベアトリクスもヒルダもいない。舞踏場ですらない。だだっ広いだけの空間…
ああ、狭隙結界か。
だとすると、これは……
「悪いが、貴様は野放しにするには危険過ぎる」
背後からの声に振り返る前に、誰の仕業かは分かっていた。
「狭隙結界まで使えるとなると、アンタ只の宮廷魔導士じゃ…つーか、人間じゃないな」
空間の隙間に結界を敷き、任意の対象を閉じ込める法術。
廉族に、空間を操作する術は使えない。
振り返りながらそう言う俺が思いのほか落ち着いていることに、俺を結界内に閉じ込めた張本人…宮廷魔導士イヴラは、表情を強張らせた。
「…狭隙結界の存在を知るか…やはり貴様は、魔族の手の者だな」
俺の目の前のイヴラは、例の仮面を付けていなかった。
無機質な眼と、無機質な表情。端正だが、どこか不気味さを感じさせる容貌が露わになり。
そして何より、おそらく仮面によって隠されていた奴の霊素が今やその身体から溢れ出て、その正体をはっきりと俺に示していた。
「……そう言うアンタは、天使族……ってわけだ」
天使。秩序の守護者たることを己に課す種族。創世神に最も愛された者たち。
俺の指摘に、イヴラが目を見開く。
「何故それを……いや、魔族であれば不思議ではないか」
どうやらイヴラは、俺のことを魔族だと断定したようだ。違うんだけどさ。
「まあいい。貴様の目論見を聞かせてもらおう。何の目的で、勇者に近付く?誰の命令だ?」
「目的………ねぇ」
第三者に問われて、改めて俺は考える。
俺が、三人娘に関わる目的…その理由。
「実を言うと、大した目的ってわけじゃないんだよなー……言うなれば、なんとなく……?」
俺が、勇者に関わらなければならない理由なんて、何もない。
魔王として、勇者があまりに情けなさ過ぎるもんだから放っておけなくなったとか、いずれ来る対決の瞬間に悔いのない戦いをするためにもっと強くなってもらわなくては困るだとか、片割れである創世神の意思を継ぐ者がこんなポンコツでは耐えられないからとか、探せばいくらでも理由は見付かる。
だが、本当にそうなのかと言うと、自分でも分からない。
そういった面も確かにあるのだが、それだけじゃない……と言うか、そんなのはおまけの理由に過ぎない……のだと、思う。
「なんとなく……だと?ふざけたことを」
俺としては真面目に答えたつもりなのだが、イヴラはそうは受け取らなかったようだ(まあ当然か)。その表情に、苛立ちが加わる。
「ふざけてないって。大真面目だよ」
そう、ただなんとなく、あいつらの傍にいたいと望んでいるだけ……なのだ。
「…どうあっても答えるつもりはない、というわけか。…よかろう。ならば、自分から答えたくなるよう手伝ってやろう」
残忍とも言える愉悦の表情を浮かべるイヴラ。
……やっぱり、妙だ。大戦以前は、天使どものこんな表情、見たことがない。剥き出しの感情……まるで、廉族か魔族のようだ。とてもじゃないが、秩序の番人たる存在の顔じゃない。
「さて、どの程度持ちこたえられるか、見せてもらおうか」
イヴラの霊素が膨れ上がった。
そこそこ高位の天使なのだろう、竜種並みの密度と量だ。確かに、一兵卒に過ぎない名も無き魔族であれば、勝ち目のない相手である。
…あ、そうだ。戦闘前に、聞いておかなくっちゃ。
「…で、お前はなんでこの国で宮廷魔導士なんてやってるんだよ。国王…いや、王女に近付いて、何を企んでる?」
彼が俺にしたのと同じ質問を、俺もイヴラに返す。
俺が知る限り、天使族ってのは地上界や廉族には何の興味も持ってない。それらに、何の価値も見出さない。せいぜい、盾か捨て駒として利用出来れば上等…程度の認識。
それなのに、身分を偽ってまで地上界に潜入するなんて、明確な目的がなければおかしいだろう。
……自分のことは棚に上げている自覚は、あるけどさ……。
「ふん、貴様に話すことなどない」
……やっぱり、拒否された。
そりゃそうだよね。敵にほいほいと目的を話すわけないよね。
……とは言え。
「まあ、そう言うなって。なんてーの、冥途の土産…的な?最後に、俺の好奇心を満足させてくれたって、いいじゃないか」
……誰の最後…とは、言っていないよ、俺。
だが、イヴラはあっさりと引っかかってくれた。
「…ほう、少しは分を弁えているようだな。よかろう、死ぬ前に望みを叶えてやろう」
……ちょろいな、こいつ。
「私は、烈天使セシエラ様にお仕えする士天使イヴリエール。貴様ら邪悪なる魔族どもを打ち滅ぼすための聖戦士を聖別せよとの崇高な命を受け、地上界に降臨した」
自尊心やら優越感やらを刺激されて、ペラペラと出自を話してくれた。
まあ、自分が負けるとは思っていないからなんだろうけどさ。
うん、馬鹿は嫌いじゃないよ、こういうとこ。
「聖戦士?魔王を斃すのは、“神託の勇者”じゃないのか?」
わざと驚いたフリをして訊ねる俺に、イヴラはさらに気分を良くしたようだ。
「あれは、廉族どもが勝手に言っているに過ぎない。ましてや、神威の代行者などと…不遜にも程がある」
……なるほどなるほど。“神託の勇者”は、天界にとっては非公式なわけね。
「それで、自分たちの意に従う聖戦士…を、自分たちで見繕うことにしたってわけか…」
「左様。廉族どもは、数だけは多いからな。あとは力とそれらしい使命を与えてやれば、得意になって我らの手足となってくれる」
わーお。なかなか下衆い発言、出ましたよ。
「で、レティシア王女もその一人…ってわけか」
「あれはなかなかに使い勝手がいい。廉族の割には強い力を持っている上、王女という身分も利用価値が高い。さらに力への渇望も非常に強いからな。力を残した聖骸がこの地にあったのも僥倖。もしかしたら、あの者が魔王を滅ぼす最大の一撃になるやもしれんな」
うーん…ならないと思うけど……。
まあいいや、もうちょい聞き出してみよう。
天使どもの目的は分かった。自分たちが選んだ「聖戦士」とやらに、魔王を斃させたいわけね。魔王討伐の主導権を、自分たちで持っていきたいのだろう。
廉族などではなく、自分たち天使族こそが、創世神の意思を継ぐ者なのだと示すために。
でも、それならば何故。
「……だったら、なんで魔王のフリをした?そんなことをしても、魔王への崇拝を高めるだけだろう」
ソニアは、魔王の声を聞いたと思っていた。
創世神ではなく、魔王が自分の望みを叶えてくれたのだ…と。
天使たちが、魔王を騙る理由なんて、思い付かない。
だが、イヴラ…もとい、イヴリエールの反応は意外なものだった。
「…魔王のフリ?何を訳の分からないことを言っている」
……あれ?違うの?
ソニアを唆したのは、天使たちじゃ……ない?
いやいやでも、そんな真似が出来るのは高位の天使くらい……いやまて、権能もどきの力なんて、高位天使であっても不可能…か?
或いは、こいつはあの件に関して、何も知らされていない…とか。
だったら、これ以上聞いても無駄か。それと……
「…お前の上は、烈天使って言ってたな。てことは、火天使の眷属か」
「…………!そこまで知っているのか、貴様………!」
驚愕するイヴリエール。五権天使…今は四天使か…は、それぞれに眷属を持っている。確か、烈天使ってのは、火天使の子飼いだったはず。天地大戦では、指揮官クラスの連中だった。
で、イヴリエールはその下の実動部隊…ってとこか。
下っ端というほどではないが、そこまで高位でもない。ということは、
「お前さ、“央天使”のことはどう思う?」
念のためカマをかけてみたのだが、
「……央…天使、だと?貴様、一体何を言っている?どこから情報を仕入れているかは知らんが、そのような天使は存在しない」
……やっぱり、知らないようだ。
少なくともこいつらの世代では既に、真実の書き換えは完了しているということだな。
うーん……こいつから聞き出せることは、限度がありそうだ。出来ればもう少し高位の奴だったら良かったのに。
「…さて、満足したか、魔族よ。次は、貴様が答える番だ」
これ以上話すつもりがないのか話す内容がないのか、イヴリエールは話をそこで打ち切った。彼が放つのは、明確な殺意。
彼の周囲に、光の靄が生まれた。霊素で形作られた、エネルギーの塊だ。
「少しくらいは、楽しませてくれ」
イヴリエールがそう言った瞬間、靄から幾条もの光の筋が走った。
文字どおり光速で俺に襲い掛かる光の槍。躱すことなど、出来るはずがない。
……躱す必要など、ありはしない。
光の槍が、俺の両手足を貫き……
……なんてこと、あるわけがなく。
「……………!何…だと?貴様、一体何を………」
茫然とするイヴリエールは、何が起こったのか理解出来ていない。
回避不可の光撃に手足を撃ち抜かれた俺が、無様に地に這いつくばり赦しを乞う。彼が想像していたのは、そんな情景だったはず。
それなのに、何もなかったかの如く平然と佇む俺を見て、イヴリエールは目を白黒させている。
「別に、何もしてないよ。春の木漏れ日みたいにあったかくて気持ちいいなーとは、思ったけど」
これ、本音である。
狭隙結界に囚われた直後に、“星霊核”との接続は、こっそりと完了してある。今の俺にとって、彼の攻撃はそよ風程度のものだ。
「………ふっ。どんな小細工かは知らんが、無駄だ、魔族。貴様がここで潰える運命に、変わりはない」
…あ、すぐに立ち直った。
けっこうメンタル強いね、こいつ。無知なだけかも知らんけど。
「貴様に、我が真の力を見せてやろう。……恐怖に打ち震え、神の威を知るがいい!」
イヴリエールはさらに霊素を高め、
「‘我が主命に応じ、その姿を現せ。汝、地の鳴動にたゆたう者よ、“炎霊王エルデグリム”!!’」
高らかな詠唱に呼応するように、空間が揺らめいた。
そしてその揺らめきの中から姿を見せたのは、一体の精霊。
始めははっきりしていなかった輪郭が、徐々に定まってくる。
閉ざされているはずの空間が、その存在に震える。
圧倒的な密度。自我のない、荒れ狂う意思。純粋な力比べでは、イヴリエールよりも遥かに強いだろう。
炎の最高位精霊、“炎霊王”。
「ははははは!どうだ、恐怖に声も出ないか!これは最強の精霊が一つ。火天使様より託された、超常にして絶対の力だ!」
高らかに笑うイヴリエール。
託された…ってことは、こいつ自身の力のみで召喚したわけじゃないのか。
何かあれば自分じゃ制御出来ないような力に手を出すとか、流石天使ってのは怖いもの知らずだな。
「ふーん。エルデグリム…ねぇ」
そういや、大戦でも時折戦場に引っ張り出されてたっけ。天使族ってのは、幻獣・精霊召喚が十八番だから。
……ルクレティウスとのガチンコ勝負なんて、結構楽しませてもらった記憶がある。
イヴリエールは、俺が平然としているのを、茫然自失と思い違えたようだ。彼の中では、既に自身の勝利が確定している。
「さて、どうする魔族?大人しく貴様らの目論見を告白するなら、苦しまぬよう一瞬で終わらせてやる。だが、それを拒むならば、一度首を振る毎に、貴様の骨を一つずつ砕いてやろう」
…実に天使らしくない、悪趣味な拷問を提案してくれた。
「さあ、一つ目の質問だ。そうだな…まずは、貴様の名を」
「あ、そういうのもういいから」
得意になって質問を始めようとしたイヴリエールを、俺は遮る。大体のことは聞き出せたし、これ以上こいつの茶番に付き合う義理もないだろう。
それから俺は、うまく隠していた神力のほんの一部を、解放してやる。
星と繋がる、万物の根源。その、一端を。
刹那、奴の結界は、俺の領域へと変わった。
「な……なんだ、貴様の…その、力は……そんな、有り得ない……有り得るはずが……私の結界を、一瞬で乗っ取るなどと………」
このときのイヴリエールの顔と言ったら。
哀れやら滑稽やら、鏡があったら見せてやりたいよ。
自我を持たないはずの炎霊王が、恐怖に咆哮を上げる。
さてはて、俺自身はこいつと戦ったことがないけど……どのくらい楽しませてくれるのかな?
「顕現せよ、其は荒れ狂う暴君の刃也」
俺の言葉に理が応え、領域内を暴風が吹き荒れる。ただの風ではない。それはまるで鋭い剣のように、炎霊王の聖霊体を撫で切りにしていく。
スライサーにかけられたハムのように、薄く削られていく炎霊王。精霊には痛覚がないと聞いたことがあるけど、本当だろうか。
為す術もなく切り刻まれながら雄たけびをあげる炎霊王は、傍目には苦しんでいるように見えるんだけど。
そうこうしているうちに、炎霊王は薄切り聖霊体の山になってしまった。
……なんだ、ロクに抵抗も反撃も出来ずに終わり…か。思っていた以上に、つまらないな。まあ、召喚主がイヴリエールみたいな木っ端天使だから、力が制限されていたのかもしれない。二千年前の火天使が召喚してた奴は、ここまで脆弱ではなかったような気がする。うん、きっとそうだ。そう思うことにしよう。
……で、炎霊王でこれなら、こっちはもっとつまらないんだろうなー…。
俺は、視線をイヴリエールに移す。
暴風の攻撃は逸らしてやっていたから、未だ無傷だ。だが、腰を抜かし恐怖に目を見開き、全身を震わせている。
精神的には、既に瀕死っぽい。
「なんで……最高位精霊…なんだぞ……なのに……なんで…………貴様、一体………?」
はーあ。ダメだこりゃ。完全に戦意を喪失してる。これじゃ、楽しませてもらうどころの話じゃない。
せっかく、骨を一つずつ砕いていってやろうと思ってたのに……興醒めだ。
どうせ嬲り殺すにしても、もう少し気骨のある相手の方が面白い。その手のお楽しみは、それこそ四天使とかの最高位天使のときに取っておくとしよう。
ああ、そうだ。
「俺の質問に丁寧に答えてくれたんだし、俺も答えてやることにするよ。ええと、質問は何だったっけ?」
俺の笑顔は、イヴリエールの目にどんな風に映っているのだろう。奴の中で、何かがポキッと折れる音が、聞こえたような気がした。
「ああ、名前だったな。お前は、俺の名を聞こうとしていた。…そう言えば、ちゃんと名乗ってなかったよな」
彼が真名を名乗ってくれたのだし、それならば俺もそうするのが礼儀というものだろう。
「教えてやるよ。俺の名は……」
冥途の土産にしては、随分と贅沢かもしれないけどな。
魔界側視点で話が進むので仕方ないことですが、天使が完全悪役ですね。彼らには彼らなりの理由とか大義名分とかあるんですけど。
ちなみに、士天使イヴリエールは火天使の眷属ですが、彼自身は別に火属性というわけではないです。




