第百十六話 一服のお茶は、空気を変える力を持っている。
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リュートとベアトリクスが呼び出された後。
アルセリアとヒルダ、そしてディアルディオとエルネストは、気まずい雰囲気の中、もどかしい時間を過ごしていた。
「お茶でも淹れましょうか」
唯一の良識人、エルネストがにこやかに言って、キッチンでお茶の支度を始める。彼は、この奇妙な空気にもまるで動じていない。
アルセリアは、こちらに好意を持つことは決してなさそうな少年(少女?)魔族よりも、まだエルネストの方が相手にしやすいと思った。
「あのさ、貴方って、結局あいつの部下になったわけ?」
キッチンに向かって、問いかける。
どうにも、こういうギスギスした沈黙は苦手なのだ。
「ええ、陛下の御恩情で救われた私は、現在、兄と共に陛下の手足となるべくお仕えしております」
朗らかに言うその口調にも、穏やかな表情にも、一欠片の遺恨も見て取ることは出来ない。
リエルタ村の神官としてのエルネストとは接点がなく、荒ぶるエルネストしか知らない彼女には、彼のその変貌ぶりが不可思議だったりする。
「ふーん…そっか。…ねぇ、魔界でのあいつってどんななの?」
それでも、意外に話しやすい…と言うか非常に話しやすい相手だと分かって、彼女の中にむくむくと好奇心が湧いてくる。
確かに自分たちは、勇者として魔王に対峙したことがある。
あの時の魔王は、とてつもなく強く、冷酷で、恐ろしかった。
その魔王と、あのリュートは、同一のものである。
それは分かっているのだが、リュート=サクラーヴァを知ってしまったあとでは、どうにも実感が湧きにくいのだ。
共に行動するようになってからも、幾度かその力の片鱗を見せられてはいる。その度に彼女は言いようのない恐怖を抱くのだが、結局リュートはそんな彼女の我儘をいつだって聞き入れてくれるので、彼女の中で「恐ろしい魔王」が長続きすることはない。
だからこそ、魔界での“魔王ヴェルギリウス”がどんな統治者で、臣下からどのように見られているのかは、非常に気になる。
「どんな……ですか?」
漠然と問われて、少し考え込むエルネスト。
「そうですね、陛下はとても慈悲深いお方です。本来ならば、私も兄も粛清されていてしかるべきだったというのに、こうしてお傍に仕えることをお許しいただいています」
現在の魔王しか知らないエルネストは、自分の経験に基づく評価しか出来ない。
だが。
「慈悲深い…ねぇ。それはそうだけど、陛下はただそれだけのお方じゃないんだけどな」
はるか昔から魔界の最高幹部として魔王の姿を間近で見続けてきていたディアルディオが、口を挟んだ。
「陛下の偉大さと慈悲深さには、僕たちも感銘を受けるけど、それだけで魔王をやってられるわけないじゃん」
ディアルディオは、この場では自分だけが魔王の真の姿…創世神と同一にして対を為す、魔王ヴェルギリウス…を知っていることに優越を感じている。
「陛下はさ、僕たちなんかとは次元が違うんだ。その存在も、そのお力も、その御心も。僕たちが推し量ろうなんて、不敬もいいところだよ」
対して、只の魔王でも只の人間でもない、世話焼きで説教魔でヘタレでシスコンのリュート=サクラーヴァを知るアルセリアは、首を傾げる。
「なーんか、随分と盲目的に崇拝しちゃってんのね。……あいつが、ねぇ。…推し量るも何も、結構分かりやすくない?」
だが、彼女は分かっていなかった。
魔族の、魔王に対する崇敬を。
創世神に見棄てられた彼らを拾い上げた魔王が、彼らの全てである、ということを。
アルセリアの言葉に、周囲の温度がすぅっと下がった。
否、下がったかのように、感じられた。
「……あの、さぁ」
冷たい空気の原因は、ディアルディオ。
「さっきから思ってたんだけどさ、お前らちょっと陛下に対して不敬すぎるよね」
その視線に、アルセリアは凍り付く。
「ほんの一瞬陛下と一緒にいたからって、廉族風情が、あの方のことを理解しちゃってるつもりなわけ?笑えないんだけど」
実力的に、ディアルディオとアルセリアでは話にならない。そして、リュートとは違い、ディアルディオにはアルセリアに何の思い入れもない。
その辺に転がる石ころと同じ。邪魔となれば踏みつぶすだけの。
アルセリアも分かってはいる。この魔族は、リュートのように自分たちに甘くはない。下手に怒りを買えば、その場で殺されることもありうるだろう。
だが、そこで引き下がるようなアルセリア=セルデンではなかった。
「……なら言わせてもらいますけど、貴方たちはあいつのこと、どれだけ分かってるっていうの?」
それは、ある意味では宣戦布告のようなもの。
「どれだけ、だって?ほんと馬鹿な廉族だよね、お前。僕たちは、ずーっと前から、お前らが生まれるよりもずーっとずーっと前から、あの方にお仕えしてるんだよ。あの方の傍で、あの方だけを見て、あの方のためだけに戦い続けてきたんだ」
それは、魔族にとって譲れない矜持であり、誇り。
他者には執着することのないディアルディオにとっても、“魔王”の存在だけは、特別。
「お前らに、陛下と僕たちの絆なんて分かるわけないだろ、バーカ」
が、馬鹿呼ばわりされたアルセリアも負けてはいない。
何故張り合おうとしているのかは分からないままに、
「そうは言いますけどね、じゃあアンタたちは、普段のあいつを見たことあるわけ?」
ムキになって言い返してしまう。
「あいつが料理好きだとか、お菓子も作るけど甘いものはあんまり好きじゃないから作る専門だとか、几帳面だけど片付けが苦手だとか、ヘタレなくせに紳士だって言い張るところとか、シスコンに自信を持ってるとか、そういうこと知ってるっていうの?」
アルセリアが挙げたのは、魔王ヴェルギリウスから遠く離れた、桜庭柳人の性質である。したがって、ディアルディオが知る由もない。
だが、それもまた今のリュートを為す要素の数々でもあるのだ。
ディアルディオは、今まで見たことのない主君の姿を聞かされて、吃驚仰天。
「な、何言ってるんだよお前?陛下がそんななはずないだろ!あの方は、威厳に満ち溢れてて、それはもう素晴らしい統率力を持ってて、常に僕らを正しく導いてくださる、他に並ぶもののない完璧な主君なんだぞ!」
「ゴメンだけど、それ、誰のこと言ってるのか分かんないわ」
「なっ……お前、陛下を愚弄するのもいい加減に…………!」
二人の遣り取りが最高潮に達しようというところで、
「はい、とりあえずお茶にしましょう」
一際呑気なエルネストの声が、停戦を勧告した。
湯気の上がるカップを、銘々の前に置いていく。
敢えて空気を読まないとぼけた態度に、毒気を抜かれて二人は黙り込んだ。
しかし、視線の応酬はやまない。
「ディアルディオさま、陛下にあれだけ釘を刺されていたじゃありませんか」
「…分かってるよ。だから手は出してないじゃん。ただ、こいつが陛下を愚弄するから…」
ディアルディオも、内心では、主がこの少女たちを特別に大切にしていることは分かっている。分かっているから、反論にも勢いがない。
そして、分かっているから、面白くない。
「……なんだよなんだよ。廉族の分際でさ。ちょっと陛下に贔屓されてるからって、調子に乗りやがって…」
ブツブツと文句を垂れる姿は、年相応の子供である。
この場では、最年長であるはずなのだが。
「アルセリアさんも、ほどほどにしておいてくださいね」
エルネストは、アルセリアにも忠告を忘れない。
「私たちにとって、魔王陛下は本当に特別で、尊い存在なのです。貴女も、自分の大切なものを貶されたら、不快に思うでしょう?」
反論しようのない道理を説かれて、気まずさを感じるアルセリア。
自分でも、何故これほどムキになってしまったのかは、分からない。
「…まぁ、そうよね。ちょっと言いすぎたかも…ゴメン」
勇者として、魔族に頭を下げるなど断腸並みの屈辱だが、ここは謝っておくべきだと判断。
謝られたディアルディオはしかし、なかなか素直になれないようだ。
「ふん。殺されなかっただけでも、ありがたいと思ってよ」
それでも、視線からは殺気めいたものが消え失せたあたり、少しは謝罪を受け入れる気になっているらしい。
そんな大人げない二人を見比べてから、エルネストはヒルダと目配せしあい、やれやれ仕方ないなといった風に苦笑した。
「……ってヒルダ、アナタ何、自分は心得てますよーみたいなポジション取ってるのよ」
それを見咎めたアルセリアが、口を尖らせる。
ムキになっていた自分が、馬鹿みたいではないか。
「お兄ちゃん、怖いけど優しい。凄いけど、時々へなちょこ。……それでいい」
ヒルダは、リュートの二面性をとっくに受け容れているようだ。
「そうですね。我らが主はとても不思議な面をお持ちです。…だからこそ、いっそう慕わしい」
何故かエルネストとヒルダは、気が合うようだった。
そんな二人を見て面白くなさそうな顔をしていたアルセリアだったが、あることを思い出した。
「あ、そう言えば!道中のおやつに、あいつお菓子作っててくれたんだけどさ、食べる?」
そう言って、まとめかけていた荷物から包みを取り出した。
それを聞いた二人の魔族は、思わず硬直する。
「え……陛下の?それ、陛下がご自分で………?」
「それは…私たちがいただいてしまって、許されるものなのでしょうか……?」
恐る恐る、しかしながら期待の混じる表情と声で、アルセリアの手元の包みを凝視する魔族二人。
彼らからしたら、主君自らが手掛けたものを受け取るなど、畏れ多いにも程がある。
だが、アルセリアはあっけらかんと、
「いいに決まってるじゃない。私たちが食べてもいいんだから、アナタたちだって。あいつ、なんだかんだ言ってアナタたち魔族のことを大事にしてるし、寧ろ食べてあげたほうが喜ぶんじゃないの?」
そう言いながら、ささっと全員のカップの受け皿に、クッキーを配っていく。
「私としては、パウンドケーキってのの方が好きなんだけどさ。こっちのが日持ちするんだって。あいつ、なんでかそういう生活の知恵みたいなのに詳しいわよねー」
アルセリアとヒルダが、何の気負いもなくクッキーを口にするのを見て、ディアルディオとエルネストは顔を見合わせる。
それから、
「そ、それじゃ…」
「いただき…ます」
おずおずと、クッキーを手に取って。
……結局、道中のおやつはものの数分で、完食されてしまったのだった。




