第百九話 二重スパイってどこまで信用すればいいのか線引きするのが難しい。
翌日の早朝。
正しくは、未明。
俺は、魔界からルシア・デ・アルシェに戻って来ていた。
面倒くさいから、自室に直接“門”を繋げてやった。ここなら、目撃されたとしても三人娘かグリードくらいだから、問題ない。
三人娘はまだ眠っているようだった。まだ日も昇らないうちだから無理もない。
俺は二度寝しようかとも思ったが、目が冴えてしまっているので、朝の散歩にでも出ることにした。
ルシア・デ・アルシェはルーディア聖教の総本山であり、そして現在は世界各国から高位神官たちが集う最高評議会中。当然のことながら、勇者の補佐役程度がどこにでも自由に出入りできるわけがない。
評議会の開催される議事堂は勿論のこと、教皇や枢機卿、姫巫女たちが寝泊りする区画も、特別な許可を持った者でないと立ち入り禁止だ。
俺が自由に動けるのは、自分たちにあてがわれた部屋のある棟…貴賓用の区画らしい…と、隣の一般宿泊棟(七翼の連中や、それほど高位ではない神官たちが寝泊りしている)、それと、礼拝堂、小聖堂、一部の尖塔、談話室、それぞれを結ぶ回廊と、中庭。
それだけのスペースがあれば、散歩には不自由しないということで、俺は早朝のひんやりと爽やかな空気を楽しみつつ、ブラブラと歩いていた。
が、どうも様子がおかしい。
時間的には、ほとんどの人間が眠っていておかしくないのだが、なにやらざわついている。
興味を惹かれてそちらの方へ足を向けてみると、廊下をバタバタと足早に行ったり来たりする数人の人影。全員、表情に緊迫感を漂わせている。
邪魔にならないように物陰に隠れながら聞き耳を立ててみると、「クレイトン神官長に…」だとか、「トルディス修道会の…」とか、単語が聞こえてきた。
クレイトン某…ってのは誰のことかわからないが、トルディス修道会ってのは、アレだよな…勇者2号の。
…ってことは、ギーヴレイに魔界から追い出されたことが地上界にも伝わったってことか。
まあそりゃあ、一派閥の勇み足とは言え、曲がりなりにも“神託の勇者”を名乗る者が魔界へ行き、むざむざと逃げ帰ってきたのだから、多少の騒ぎにはなるだろう。
多分、アルセリアたちのときだってそうだったんじゃないかな。
どうせグリードあたりはほくそ笑んでいるんだろう。あいつ腹黒いから。
勇者が敗北したと言っても(ギーヴレイとルクレティウスの話によると)怪我一つないと言うし、地上界側は実害を被ってはいない。
二度続けて“神託の勇者”が敗北した、という事実は廉族たちを打ちのめすことだろうが、それだけのこと。
ブチ切れた魔王が魔族を率いて地上界に攻め込んでくるとかじゃないので、この喧騒もじきに終わるだろうな。
……おそらく、今回の件の最大の被害者は、ギーヴレイだと思う……。
バタバタする神官たちを横目に、俺は朝の散歩を再開させようと……したところで。
「あら、リュート。早いのね」
イライザに、出くわした。
なんで彼女はこんな朝っぱらからうろうろしているんだろう。…ってそれは俺も同じだけど。
それにしても、早朝とは思えないくらいに身だしなみはばっちりだ。髪も化粧も、セットの時間を考えたら相当早起きしないと無理そう。
……女性って、大変だよね。
「アンタも、随分と早起きじゃないか。何かあったのか?」
俺は言いながら、廊下を足早に行き過ぎる神官たちに、ちら、と視線をやる。
「ええ。ちょっと、トルディス修道会が勝手な事をやらかしたみたいなのよ。……もう聞いていたりするのかしら?」
「まあ、な。これでも勇者の補佐役なんで」
「そう言えばそうだったわね」
…ま、地上界側の当事者からだけじゃなく、魔族側の当事者からも、きっちり詳細を聞いているんだけど。
「でも…貴方も、大変だったんですってね。猊下から聞いたわ。無事でよかった」
…ん?ああ、リヴァイアサンの件のことを言ってるのか。
「んー、まあ、な。心配かけちまったかな」
「そりゃあそうよ。まさかロゼ・マリスの近くにリヴァイアサンが出没するだなんて」
「うんうんなるほど。ってことは、そこまでは想定してなかったって?……いやぁ、どうだかなー」
「……え?」
俺の言葉に、イライザは一瞬動きを止める。それから、
「……想定って…どういうこと?」
とぼけるように訊ねてくるが、俺の視線を受けてその表情が凍り付く。
悪いが、彼女と腹の探り合いをするのは御免だ。
「……俺の地図に細工したの、お前だろ?」
俺がずばりと斬り込んでも、その表情は変わらない。おそらく、誤魔化しても無駄ならばどう答えたものかと思案しているのだろう。
「で、水蛇の群れのど真ん中に誘導して、「任務中の不幸な事故」を装おうとした?万が一それが失敗しても、リヴァイアサンっていう保険があったからな」
俺は静かにイライザを見据え、努めて冷静に問いかける。だが、イライザの表情の中に、徐々に焦りと恐怖が滲んできた。
「グリードから聞いたけどさ、ヴィンセントと俺を組ませることを提案したのって、お前なんだろ?反目しあっている相手との任務中なら、そのフォローもないだろうと踏んだ…ってところか」
彼女の誤算は、ヴィンセントが意外にまともで面倒見の良い人物だった…ということ。
そして、俺が水蛇の群れ程度は難なく全滅させられる程度には強かった…ということ。
そしてそして、竜種に匹敵する強大な魔獣を、俺たちが退治してしまった…ということ。
「…何を、言っているのかしら…。まるで、私が貴方を殺そうとしたみたいじゃない」
「殺そうとしたんだろ?…そこまで積極的じゃなくても、「死んでくれたらいいな」程度には思ってたはず。……ああ、いいからいいから。否定はいらないよ。別に大したことじゃないし」
嵌められた上に殺されそうになったのに関わらず、あっけらかんと言ってのける俺に、イライザは理解し難い、という顔をした。
「…どういうこと?」
「どうもこうも、さ。お前がどこの派閥の者でも…或いはルーディア聖教以外の手の者でも…俺にとっては大した意味を持ってない。お前が、何を企んでいるのかってことも…な」
たかが水蛇やリヴァイアサンで何とかなると思っていたことから、彼女は俺の正体には気付いていないのだろうと判断出来る。
で、あれば、「勇者の補佐役」としての俺を抹殺しようとしたわけだ。
その黒幕に誰がいるのかは知らないが、おおよそ聖央教会…グリードと対立している派閥の権力者ってところだろう。
普通の主従関係には見えない、グリードからやたらと眼をかけられている(ように見える)俺に、警戒心を抱いたのかもしれない。
俺自身は、下手に目立つことをしているつもりはないが、やはり「勇者の補佐役」という肩書と「七翼の騎士」の役職のせいで、どうも悪目立ちはしてしまっているようだ。
敵対する派閥の力を削ぐためならば、その構成員の一人や二人の犠牲は構わないってところなんだろうな。
いやー、有能な補佐役ってのも、困っちゃうよねぇ。
「このことを…グリード猊下に報告するつもり…?」
「ん?いや、しないよ、そんな面倒くさい」
恐る恐る訊ねたイライザは、俺の返答に面食らった様子だった。
「それじゃ、一体どういうつもりなの…?」
「どうもこうも、俺は別にグリードとその愉快な敵さんたちとの諍いとか、すげーどうでもいいし。巻き込まれていい迷惑だとは思うけど、今回の件は俺も迂闊なところがあったしな。いちいち裏切り者の報告とかしてあいつを喜ばせる義理もないよ」
グリードが俺に期待している役割ってのも、そういうものでもないだろう。
「ま、いちいち警戒するのも面倒だから、もう俺を嵌めようとは思うなよ?今回の件は、貸しってことにしといてやる」
俺のその言葉が意外だったのか、イライザはひどく狼狽えて、
「ほ、本気なの?本気で、私を見逃すと?」
「だから、貸し、な。お前がどこの間者でも俺には関係ない。…ま、これから色々便宜を図ってもらうことになるかもだけど」
俺の底意地の悪い笑みを見て、イライザが少し顔を引きつらせた。俺の狙いを察したのかな。
「………でも貴方は、グリード猊下の……」
「知己ではあるけど、忠誠を誓ってるわけじゃないし、義理立てするような仲でもない」
その言葉に、彼女は少し安堵したようだ。
彼女が一番心配しているのは、グリードに裏切りがバレてラディウスのように粛清される可能性ってことだ。
ラディウスと違って、後ろについているのは同じルーディア聖教の誰か…ではあるけれど、だからと言ってそれを理由に酌量するようなグリードではない。
寧ろ、外敵よりも内部の政敵の方を目障りに思っているかもしれない。
彼女の「上」が、グリードの力を削ぐためにその虎の子(と思われてるんだろう)の俺を消そうとしたのだから、グリードがその報復としてイライザの抹殺を考えてもおかしくはない。
神に仕える使徒がそんなんでいいのか、という思いも無きにしもあらずだが、考えてみたらこいつらは、自分たちの都合で勇者に命を賭けさせるような連中が牛耳る組織なんだった。
「私は…貴方を信じてもいいのかしら?」
俺の言葉を鵜呑みにして、全面的に信用するのは危険なことだとは分かっている。だが彼女には、それ以外の選択肢はない。
出来ると言えば…ここで俺の口を封じて、何もなかったことにすることくらい。
だが、おそらく彼女にはそれだけの力がない。
そして、ここまで来たら誤魔化すことも俺を言いくるめることも不可能。
ならば、俺に従って…或いは従うフリをして…急場を凌ぐしかないだろう。
「さあ?信じるか信じないかは好きにすればいいじゃないか。俺はただ、互いに利用し合おうって言ってるだけだし」
俺からすれば、彼女が俺の申し出を受けても受けなくても、然程の違いはない。ただ、情報通が身内にいれば便利だなー程度の認識で。
しかし彼女は、俺の身も蓋もない言い方が気に入ったようだ。
「……ふふっ。随分とあけすけなのね。……他に、何か条件はあるのかしら?」
「んー…そうだな、俺はお前のことをグリードに報告するつもりはない。だからそっちも…」
「分かったわ。上にはいいように誤魔化しておく。………私たちは、自分の上さえ欺いてお互いに手を結ぶというわけね」
うんうん。察しがいい奴は嫌いじゃない。
これで俺は、グリードに対して一つアドバンテージを得られたわけだ。あのおっさんにいいように使われるだけってのも癪だし、このくらいは許されるよな。
さて、これで残った懸念も解消出来たことだし、とりあえずは一安心かな。面倒な派閥争いはお偉方の仕事だ。俺は傍観者でいさせてもらおう。
朝食までまだ時間がある。もう少し散歩してから戻ろうかな。
そう思った俺の手を、イライザが引いた。意味ありげな表情をしている。
「…ねぇ。これからのこともあるし……今夜、私の部屋に来ない?」
…………うーん。数日ぶりのお誘いはありがたいんだけど……
「…悪い、遠慮しとくわ。またスマキにされたらたまらないからな」
スマキもそうだけど、一晩中床に転がされるってのも、翌朝辛いんだよ。体中痛くなるし。
まったくあいつらは、俺の人権をどう思ってるんだか。
「…スマキ?」
きょとんとするイライザ。そうだよな、“神託の勇者”さまのそんな蛮行、想像もつかないだろうな。
「…あいつら……勇者一行の仕業だよ」
だからあいつらの本性をばらしてやろう。
「どうも多感なお年頃…ってやつみたいでさ。容赦ないのなんのって」
俺としては、「えー、勇者ってそんな酷いことするの?」みたいな反応を期待してたんだけど、イライザはそれには応えてくれなかった。代わりに、
「あらあら……そうなの。ふぅん」
と、またまた意味ありげな含み笑い。
勇者の非道に失望するでも俺の災難に同情するでもなく、面白がっていることが見え見えだ。
「…なんだよ」
「貴方って、誰に対しても自分を貫くのだと思っていたのだけど…………勇者さまだけは、特別みたいね」
……なんですと?
それは、聞き捨てならない台詞だぞ。
「…別に俺はあいつらなんか」
「頭が上がらないんでしょ」
………………。
先んじて、決めつけられてしまった。
そんなことはない。断じてない。あるはずが……
………あるはずが、なくもない……か?
確かに…あいつらには、振り回されてばっかりで、だって何度言っても聞かないし、我儘ばかりだし、言うこと聞いてやらないと後が余計に面倒だし……
…うん。イライザの言うとおりかも。
ポンコツ三人娘は、確かに、俺にとって「特別」らしい。
魔王城で、その命を助けたときから、今に至るまで。そしておそらくこれからもしばらくは。
他の奴ら相手なら貫けるようなことも、あいつら相手には折れてしまうんだろう。
他の奴らには許さないようなことを、あいつらには許してしまうんだろう。
でも、だったら……それは何故だ?
答えは、簡単なはずだった。
俺は、アルセリアの中にエルリアーシェの面影を見た。
エルリアーシェは俺の唯一の肉親のようなもので…と言うよりほとんど自分自身と同じような存在で、それゆえに、俺にとっては間違いなく「特別」。
だから、アルセリアも「特別」で、その同行者であるヒルダとベアトリクスも然り。
…………なんだよな?
以前から分かり切ったことのはずなのに、何故か断言出来ない自分が、不思議でならなかった。




