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『お待たせしました。行きましょうか』
翌朝。
ソティルさんの準備が終わるのを待ち、レンディスさんの元へ向かう。歩きながら、聞いておかなくてはいけないことがもう1つあったと思い出す。
『あの……万能薬って、異世界の人間にも効くと思いますか?』
……
俺が異世界に来る、数か月前。
住み慣れた、ボロアパート。
「じゃあ、行ってきます」
いつも通り、母が俺より少しだけ早く玄関に向かう。
「ん、行ってらっしゃい」
いつも通り、俺はトーストを齧りながら母の背中を見送る。
―― いつも通りの、朝。
ガチャリと、玄関の扉を開ける音が聞こえる。
パリィンと、何かが落ちて割れる音が響く。
どさりと、何かが倒れる鈍い音がする。
―― まやかしのいつも通りが、壊れる音。
予兆なんてなかった。
俺に気付かれないよう、母が巧妙に隠していたのか。
単に俺が、愚かで鈍いだけなのか。
「……母さん?」
返事がない。
「母さん? どうした? 何か落とした? 母さん?」
急いで玄関に向かう。
「母さん……? 母さん!?」
赤黒く広がる血だまりに目を奪われる。
「母さん!? 母さん!」
混乱する脳内。
収まらない動悸。
叫ぶことしか出来ない、非力な俺。
「母さんっ!!」
……
「渡さーん、渡永久さーん。こちらにどうぞー」
清潔感のある、白を基調とした廊下に看護師の声が響く。
母が倒れた後、俺は慌てて救急車を呼び、担架で運ばれていく母と共に救急車に飛び乗った。そのまま母は大きな病院に運び込まれ、俺は病室の廊下で無事を祈りながら待つことしか出来なかった。
俺は看護師の呼ぶ声にハッと立ち上がり、指定された部屋に向かう。
「……失礼します」
いつもは重さなんて感じない病院の引き戸が、妙に重く感じた。
「こちらの椅子にどうぞ。えー……渡紡さんの息子さんですね?」
「はい……」
「紡さん……貴方のお母様ですが――……」
年配の医師が、静かに母の状態について説明してくれる。
母が心臓の病を患っていること。
現時点では有効な治療方法がないこと。
慢性的に無理をしていたことが、病気の進行を早めたのではないかということ。
そして恐らく、長くは生きられないということ。
「――今朝血を流していたのは病気が原因ではなく、倒れた際に頭を打ったからですね。幸い深い傷ではなかったので、こちらは心配いりません」
話が終わり、安心させるように年配の医師がそう付け加える。
「……はい」
話が終わってもまだ現実を受けとめられず、俺はただただ呆然と頷くことしか出来ない。
「お母様、もう意識が戻っていますよ。すぐにお会いしますか?」
ふらふらと部屋を出ようとしたところで、看護師に声を掛けられる。
恐らく、気持ちの整理をしてから会うかどうか聞かれていたと思うのだが、俺は何も考えられないまま「……はい」とだけ頷く。
「こちらです」
俺の返事を聞いた看護師は、母のいる病室まで案内してくれる。病室の前に着き、先導していた看護師が扉をノックする。
「失礼します」
心の準備が出来ていないまま、看護師が扉を開ける。
看護師は先に部屋に入ると、母に気分が悪くないかなど幾つか質問をして、「大丈夫そうですね」と優しく微笑む。
「では、私はこれで失礼します。何かあったらナースコールを押して下さいね」
看護師が部屋を出ていってしまい、室内に俺と母だけ残される。
俺は恐る恐る顔を上げ、ベッドの上にいる母の様子を窺う。
元々着ていた服は血がついてしまったのか、病衣に着替えたようだ。
病衣姿の母を見ると、視覚的にも重い病気なのだと強く訴えられている気がして、酷く心細い気持ちになる。
「……かあさん」
俺は情けないほど弱々しい声で、母に呼びかける。
ずっと辛かったの?
ずっと無理してたの?
本当に病気なの?
意味を持たない問いかけが、頭の中をぐるぐると回る。
俺の呼びかけに気付いた母が、俺の方を向く。
「あら、永久! あんた会社休んで大丈夫だったの?」
予想していたような重苦しい声ではなく、先程倒れたとは思えない明るい声で、母が俺を迎える。
「あ……うん……有休余ってるからそれは大丈夫、だけど……」
俺は内心戸惑いつつも、母の問いかけに答える。
俺の会社のことなんかどうでもいいだろ?
そんなことより大事なことがあるだろ?
「なら良かったわ~! 迷惑かけちゃってごめんね~!」
「いや……母さんの方こそ……その、大丈夫? 体調とか……気分とか……」
大丈夫も何も、治療法のない病なのだ。
大丈夫なはずがない。
俺の馬鹿な問いかけに対し、母はあっけらかんと笑いながら答える。
「永久も聞いた? ビックリよね~! 母さんもビックリしちゃった!」
「いや……ビックリって……」
他人事のように笑う母に、俺は目を見開く。
まるでワイドショーで仰天ニュースでも流れた時のような、軽い感想だ。
「ま、人間なんていつか死ぬんだから! 私の場合はそれがちょーっとだけ早いって分かっちゃっただけよ!」
母は俺の背中をバシバシ叩きながら「やーねー! あんたったらこの世の終わりみたいな顔して~」と笑う。
「で、でも……!」
死ぬのがちょっと早くなっただけなんて、そんな風に考えられる訳がない。母さんはまだ、50歳の誕生日を迎えたばかりだ。日本人の平均寿命から考えれば、死ぬには早すぎる。
もし病気になんてならず、平均寿命まで生きていたとしたら、母の人生はあと30年近くあったはずだ。30年なんて、俺がこれまで生きて来た人生よりも長い。
しかし、既に医師から「長くは生きられない」と告げられているであろう母に対し、そんなことを言えるはずもない。俺は気の利いた言葉1つ母に掛けられず、何かを言いかけては止める行為を繰り返す。
「あははっ……やだ、永久ったら金魚みたいに口をパクパクさせて!」
明るく笑う母は、いつも通りだ。
ここが病院じゃなくて、母が病衣なんて着てなければ、病気なんて信じられない。
現実逃避したい俺の頭が、全部夢だったんじゃないのか?
なんて馬鹿げたことを考え出す。
「……ごめん」
俯き、謝罪することしか出来ない俺に対し、母は再び背中をバシバシと叩く。
「顔、上げる! 下を向かない! 何であんたが謝るの!」
「だって……! 母さんが無理をしたのは……俺のせいだろ……?!」
母が1人で働いて、稼いで、子供を育てるのが、どれだけ大変だったか、想像もつかない。母はそんな苦労を感じさせることもなく、毎日明るく笑っていた。
「あのねぇー! いつ! 誰が! そんなことを言ったの!」
ビシッと指を立て、責めるように俺の顔を指差しながら、母は説教口調で言う。
「永久、母さんを不幸者みたいに言わないでよね! 私は自分ほど幸せな者はいないって思ってるんだから!」
「……え?」
「愛する人と結婚して、愛する子供が出来て、その子供の成長を見守って! これ以上の幸せなんてないでしょう?」
「それは……」
それが不幸だとは言わない。
でも、もっと幸せなことだってあるはずだ。
もっともっと幸せになれるはずだ。
―― 俺は母さんを、もっと幸せにしたかったのに……




