分娩台の上で。
あれから数日が経ちました。
手首の糸は未だに繋がっていたままです。
誰にも認知されない透明人間の生活にも飽きていたので、たまに私はこの糸の先にいる山内くんを探しました。
すると山内くんは毎回、彼女さんが他の男とセックスしているのを部屋の隅っこで眺めていました。
たまに私も隣で一緒に眺めていました。
端から見るセックスは、思っていたよりも動きが少なく地味で単調でした。
彼女と男の子は、最近では避妊具を使わずに行為をしています。
そして最後のときに、外に出すようにしているようです。
このままだったら、いつか望まない妊娠をしてしまうことでしょう。
そのとき二人はどうするのでしょうか。
透明な命が、声も出せずに消えていくのでしょうか。
それをなぜか、今の私たちと重ねてしまいました。
それから季節が一つ過ぎた頃、私たちは公園のベンチに座っていました。
「彼女、妊娠しちゃったみたい」
「……そっか」
避妊具をつけないようになってしばらくすると、今度は安全日だから大丈夫という理屈で避妊はしないようになっていました。
男の子は山内くんの彼女を抱くたびに、耳が痒くなるような甘い言葉を吐いていました。
そのときの彼女の表情は、嬉しいというよりも安心しているようでした。
おそらくですが、彼女は避妊をしないことを断れなかったのだと思います。
断って自分が捨てられて一人になることが怖かったのだと思います。
しかし、妊娠の事実を告げたあと、彼女は結局捨てられてしまいました。
私は彼女の恋人があんな無責任な男でなく山内くんだったら、こんな結末にはならなかっただろうなと思わざるを得ません。
山内くんが彼女のそばにいたら、やっぱり世界は変わっていたのだと思います。
世界は同じ速度で回るけれど、誰かの世界は誰かによって変わるのだと、私はそう信じたいです。
「今度中絶手術受けることになったみたい」
山内くんは、冷静を装っていましたが声が震えていました。
大好きな子が泣いているとき、なんの役にもたてなかった自分が悔しかったのです。
気付けば山内くんは、手で顔を覆い隠して嗚咽を出し始めました。
たくさんの涙が掌からこぼれて頬を伝っていきました。
「宮本さん……俺さ……忘れられても、あいつのことが好きなんだ。バカみたいだろ……」
「そんなことないですよ」
「汚れてしまったって前に言ってしまったけど、汚れてなんかなかった。汚れてたのは、俺のほうだよ……。あいつは何があっても綺麗なままなんだ。俺のあいつを見る心が、汚れてしまったんだ」
そのあと、山内くんは何度も何度も「大切なのに、なんにもできない」と自分の無力さを呪いました。
山内くんが心配だったので、私は山内くんと一緒にいました。
山内くんは彼女さんのことが心配だったので、二人で彼女さんを見守っていました。
堕胎の費用の相場は15万円くらいだそうです。
社会人の私には払えますが、高校生には想像もつかない大金です。
当然払えるわけもなく、彼女は親に事実を伝えました。
両親は泣き崩れました。
彼女の父親はやり場のない怒りを近くにあった食器にぶつけてしまいました。
何枚ものお皿の割れる音がしました。
父親の手は血だらけになりました。
母親は過呼吸を起こして倒れてしまいました。
救急車がきました。
元彼の男の子は、もう別れたあとのことだから、自分には関係ないというスタンスでした。
逆に「うちの親に告げ口をしたらお前が妊娠して中絶することや、お前の性癖やこっそり隠し撮りした動画を学校にばら撒くぞ」と言って彼女を脅しました。
彼女の両親は、娘のこれからのことを考えて泣き寝入りするしかありませんでした。
そして彼女は自分の中に身籠った胎児を処理しました。
12週間以内だったので、医療廃棄物となりました。
生まれることのなかった命は専門の業者に焼却されるそうです。
分娩台の上で、せめて胎児が淋しく泣かないように、彼女の感情も一緒に亡くなりました。