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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第一章
9/35

 シェンリュがヤーイー旅楽座の正式な仲間となり、ホームに戻って一か月が過ぎた。

 このタイミングで、というのも可笑しいかもしれないけれど、本来であればこの一件は私達がホームに戻って直ぐに行われる筈だったもの。

 だが時期がこれ程までに過ぎてしまったのは一重に、主が緊急を要する案件の処理に、私達とは逆に王都に召集された事が原因でもある。

 それはシェンリュにとって幸運であったのか、はたまた不幸であったのか、それは私にも分からない。けれども私がシェンリュとは対極の位置に存在する人間であることは確かだ。

 何故なら私はシェンリュを、新たな生贄として捧げよと囁く主に傅いているのだから。


 噎せかえるような甘ったるい媚香が充満するその部屋は、各所に置いた燭台によってほのかな明かりに照らされていた。

 遅効性の媚香によって生まれた煙は視界を曇らせ、長く嗅いだ分だけ身体を緩やかに作り替えていく。

 既に都合二、三時間吸い込んでいるファンリュは、徐々に身体の芯に火が灯っていくのを感じながら主の足元に跪き平静を装って努めて淡々と報告した。


「―――はい、はい。ええ、勿論ですわ。……様もお気に召す筈です」


 下卑た笑みと共に吐き出される臭気に吐き気を催しながら、表面上だけは媚びるような視線を送り、そっと主を見上げる。

 驚くほど薄い綾布しか纏っていないファンリュは、傍から見れば娼女のような恰好をしているだろう。自分の意思とは関係の無い部分で、ファンリュはこのような格好をさせられている。

 剥き出しにした肩と腕が、窓から入ってくる冷たい夜風に吹かれ小さく粟立った。


「お前も言うようになったではないか。久方ぶりに夜伽を召すか?なあ、ファンリュよ」


 その問いには答えず、毒々しい赤色に縫った唇を僅かに開いて蠱惑的な笑みを浮かべ、上品な絹で作られた下衣越しに主の膝に指を滑らせる。

 この、外道めが。

 内心の罵倒は主には届いてなどいないのだろう。うっとりとした眼差しで鼻の下を伸ばし、緩みきった表情でファンリュを舐めるように見つめ、ファンリュはそれに答えるように主の膝へとへしなだれ掛かった。

 こうすれば、主の醜い顔を見なくても済む。

 一時間か、それ以上か。それは主の機嫌によって左右される。その時間が短ければ短い程、ファンリュにとっては幸運を得る。

 けれども、その後に控える者達にとってそれは悪夢に他ならない。肌を許せる相手として、これ程相応しくない人間など居ないのだから。


「宴の始まりだ」


 捕食する獣のように舌を舐め己の興奮を隠そうともせず、ファンリュの胸元に手を伸ばした主を見つめ、ファンリュはそっと熱い吐息を溢した。抗う気持ちと意思はある。なのに、鼻腔から体の内側へと緩やかに侵入する媚香の香りに酔い、思考が鈍っていく。本来機能している筈の理性が崩壊し、ただ肉欲だけを追い求める獣の如き凶暴で淫らな感情が内部を荒れ狂った。ここまで来れば意識せずとも分かる。体の芯がじくじくと熱を欲して疼いている。

 近付いてくる主の顔を見つめながら、ファンリュにとって苦痛にも似た長い夜は、まだ始まったばかりだった。





 チンリンが居なくなって早一週間が過ぎた。最初の五日程は毎日のようにファンリュ座長の元へ向かい、チンリンの病状などを聞いていたが、のらりくらりと躱されるそれに痺れを切らしたのは昨日の事。

 実際、チンリンが居なくなってから一座の空気は変わってしまった。

 本来居るべき人が居ないという事がどれ程苦しい事なのだろう。一座の中では新参の私には、それすらも良く分からない。

 チンリンと同じ舞台に上がっていた踊り子達はチンリンの居なくなった穴を埋めるために普段は舞台に上がらない裏方の女性を引っ張って公演を必死で行っているけれど、素人目に見ても皆の士気が落ち、踊りの質も驚くほど低くなっているのは明白だった。

 何より踊り子達の公演はチンリンが居た頃に比べて華が無く、観覧客も少しずつ減っているのが現状だ。

 だというのに、ファンリュ座長も古参の一座の仲間達もチンリンを探す様子さえ無い。


 チンリンは、売られてしまったのではないかというのが私の見立てだけれど、実際、荒唐無稽な話ではないと思う。この一座の内部は、やはり何処か歪だ。

 チンリンはあの日まで、自分がこの一座を去る等という事は考えても居なかった様子だった。ならば自分の意思とは無関係な場所で、誰かの意思が働いた結果だと考えるのが自然だ。

 だとするならば、一体誰がチンリンを売ったというのか。

 確実に言えるのは、この一件にファンリュ座長が関わっているのだということ。そして、一座の皆も暗黙の了解でこれを受け入れているということだ。


「私は、どうするべきなのかしら」


 私に与えられた部屋で、そっと息を吐いた。

 実の所、先日から突如としてチンリンの後を追うように護衛役のヒカイも姿を消した。二人の失踪がどう関わっているのかは分からないけれど、この一件に関しては、無関係ではない筈だった。

 そうでなくてはこうも短期間に人が二人も居なくなるなど有り得ない。


 手持ちの衣服を片付けながら、部屋の内部を見渡した。

 この部屋に帰ってくるのは大抵公演の合間か夜位のものだから、手持ちの生活道具の一切合切を詰めても一つのカバンで事足りる。

 可能性の話だ。でも、私がチンリンの二の舞にならないとは限らない。だからいつでも逃げられる準備はしておくべきだろう。

 今日の公演は朝だけだ。ベッドに積んだ今日着る衣装の上に置いた簪を持ち上げ、私は鏡台の前に座った。磨き抜かれた純銀の簪は先が鋭利に尖り、先端には菊を模した彫り物と共に大粒の青玉が埋め込まれている。


「まさかこれを使う日が来るだなんて思わなかったけれど、でも、使うべきなのでしょうね」


 背中に流した髪を掬い取って髪を結い上げていく。複雑な結い方ではないけれど、これでも一人で簡単に結い上げることは出来る。

 鏡の中に映った自分の姿を確認しながら、私はそっと部屋のドアを伺った。

 恐らくそこには新たな護衛役となった男が居る筈だ。鏡の中の私が憂鬱そうに溜息を吐いた。

 重い腰を上げて貴重品を隠し箱に仕舞い上げた後、私は表情を取り繕って部屋のドアに手を掛けた。


「おはようございます」

「おはようごぜえます、姫。今日はどちらに向かわれますか?」

「少し朝市を見に行こうと思うの。勿論、公演前には戻るわ」

「へえ、分かりやした。お供します」

「一人でも十分よ? すぐそこだから」

「そういう訳にはいきやせん。おい、行くぞ」


 破落戸崩れの男が数人視界の端から出てくる。大方、廊下の先等を監視していたのだろう。ご大層な事だ。薄く汚れた麻の褲褶こしゅう姿の男達は全員が上半身をだらしなく着崩して胸から腹に掛けて曝け出し、腰には鈍く光る脇差や鎖鎌を差している。

 元々は農民か何かだったのか、丸太のように太い腕を持ち、口調は粗野に尽きる。鍛え抜かれたその肉体は隣に並ぶと威圧感さえ感じる。けれども、それだけだ。精鋭の武官や暗殺集団を見てきた私からすれば、その足運びも動き方も隙が多い。

 しかし如何に相手が素人集団に毛が生えた程度だとしても、私一人では到底敵わないだろうことは明白だった。

 今はまだ、逃げる時では無いわね。

 じっとこちらを伺う下卑た笑みを浮かべる男達に、私は眉を下げて困った様に微笑んだ。

 男の一人がごくりと喉を鳴らすのを注意深く観察しつつ、私は仕方なく、目付きも口ぶりも悪い男を三人引き連れて先の言葉通りに朝市へと向かった。


 そうして朝市からホームに帰って来た私を待ち受けていたのは、ここ最近姿を見せて居なかったファンリュ座長だった。


「夜、ですか?」

「ええ、そうなのよ。空いているわよね?」


 何処か疲れた様子でそう問いかけたファンリュ座長は断ることは許さないとでも言うように瞳の力を強めた。公演が終わった後に呼び止められたと思えば、これである。これまで沈黙を守っていたファンリュ座長の行動に戸惑いを隠せないのは私だけなのだろう。

 周囲で見守っていた一座の仲間達がそっと立ち去るのが見えた。

 明るいルビーの瞳が私を射抜く。それは何処か覚悟を決めたかのような強い眼差しだった。言葉を返さない私に、ファンリュ座長は辛抱強く返答を待っている。

 私は知らず詰めていた息を吐いて「分かりました」と答えた。


「そう、良かった。それじゃあシェンリュの部屋に酉の刻に迎えに行くわね」


 何が良いものか。けれども逃がすつもりなど端から無いのだろうファンリュ座長の言葉に、私はぐっと言葉を飲み込んだ。

 ファンリュ座長は私の返答を待たずに踵を返して去っていく。その後姿を眺めながら、私も部屋に下がった。酉の刻までそう時間は無い。ならば私がするべき事は一つだ。

 そうして部屋に帰って来たは良いものの、化粧を落として衣装を着替えるついでに浴室へ向かい埃等を落としてベッドに横たわった。部屋の外へ一歩でも出れば、朝のように護衛役の男達が立っている。まさしく、四面楚歌という状況だった。

 それでも足掻いていなければ私らしくない。

 身に着けるのは、手持ちの中でも最上級の一級品。

 かつてマルセルに瑠璃子へ贈られた品。

 滑らかな絹の感触が、さらりと肌に触れた。


 マルセル。

 思い出すのは、泣きたい程懐かしい穏やかだった日々の記憶。それでも、ここに至ってもまだ帰ろうという気持ちにはならない。

 丁寧に丁寧に、殊更ゆっくりと服を着替えていく。

 今だけ、私はこの四年間で積み上げてきた私へと戻る。

 耳元に下げた耳環は雫の如き大粒のサファイア。

 首元から下げる首飾りはパールとダイアモンドが連なる牡丹を模した意匠のもの。

 そうして、私は瑠璃子でもシェンリュでもない、マルセルの配偶者にしてメイベル王国唯一の妾妃であるラピスへと意識が切り替わっていく。


 すべての道具を詰めて、朝の内に購入していた真新しい袋に貴重品を詰める。

 手持ちの金銭は上質な宝石を買うことで自然に持ち歩けるように細工していたから、服の内側に身に着けられるだけの宝石を隠し、細かな硬貨は袋に詰めた服の下に隠した。

 普段は持ち歩かない扇と龍笛を腰の帯に差す。

 後は―――…。


 そうこうしている内に、あっという間に時は過ぎ、酉の刻へと差し掛かった。

 ドアのノックと共に、ファンリュ座長の声が聞こえる。

 一度自身の全身を眺めた後、私はドアへと向かった。





 部屋から出てきたシェンリュは、まるでこれから舞台に立つかのように華やかな装いをしていた。

 薄く刷いた唇は赤く、項を晒して結い上げた紫紺色の髪は綺麗な銀の簪で纏められている。腰に差した扇は金箔を張った豪華なもの。龍笛は漆黒の漆が塗られた滅多にお目にかかれない逸品だった。

 首元から下げた首飾りもまた、豪華な品。決して派手過ぎず、一粒一粒が柔らかな光沢を持って輝いている。

 シェンリュが何気なく着ている衣装はファンリュでさえも手の届かない一級品の絹で織られた色鮮やかな淡い深緑を思わせる襖裙。その上から羽織った桜色の褙子の裾は長く、踝まで覆っている。

 桜色の褙子に描かれたのは、綺麗に染織された精巧な牡丹の花。大輪の牡丹は美しく、目にも鮮やかにシェンリュの纏う衣服の上で綺麗に咲き誇っていた。

 普段、舞台上で美しく派手に着飾っているシェンリュは見慣れている筈なのに、今目の前に居るシェンリュの纏う空気は平民では到底身に付けられない気品と静謐さとが合わさって、まるで別人のように思えた。

 ファンリュの背後で息を飲む音が上がった。

 それは普段から荒くれ者の粗野な、敢えて言い換えるのであれば粗暴な護衛役から上がった音だった。


 これは、どういう事なのか。

 ファンリュの背筋に冷や汗がどっと噴出した。

 ただ立っているだけだというのに、この場を支配してしまったシェンリュは、普段とは違う、淑やかな微笑みでもって首を傾けた。

 視線一つ。護衛役の頭に目を向けたシェンリュに慌てて男達が動き出した。

 いっそ傲慢に思える程、静かにそれに従ったシェンリュは、半歩後ろに付き従ったファンリュに流し目を送り、ゆっくりと前を向いた。それがまた、ファンリュに恐怖を呼び起こす。


 もしかしたら私は、とんでもない女性(ひと)に手を出してしまったのかもしれない。

 シェンリュの背を見つめながら、ファンリュはひっそりと唇を噛んだ。

 けれどもここまで来れば後戻りなど出来よう筈も無い。ファンリュは主の側の人間で、シェンリュにとってはこれから加害者となる存在なのだから。

 シェンリュの横顔を伺うが、そこから滲み出る感情は皆無。怒りも悲しみも怯えすら感じさせず、ぴんと背筋を伸ばしてゆったりと、そして凛とした様子で堂々と歩いている。そこに一切の気負いは感じられない。だというのにどうしてこんなに、小柄なシェンリュの姿がいつもより大きく見えるのだろう。

 数々の修羅場を潜って来たファンリュでさえも、当初は抵抗し、怯えていたというのに。


 この女性(ひと)は、誰?

 ファンリュのその疑問に応える者は居ない。けれどファンリュの脳裏には様々な可能性と憶測が浮かんでは消えていく。


 主の屋敷には、馬車で向かう。その車内でさえ、シェンリュが口を開く事は無く、護衛役の男達は落ち着かない様子で足を揺すり、ちらちらとシェンリュを見つめている。シェンリュは注目を集めた視線さえも黙殺し、車内は緊張で張り詰めた空気の中で目的地をひた走った。

 着いた屋敷の門には松明が焚かれ、夕焼けが西の空に消えていく中、薄暗いその土地を明るく染め上げていた。

 門番として立つ男達は、護衛役の男達同様に柄が悪く粗野である。門の奥から出てきた身なりの良い初老の男が先に馬車を降りた護衛役の男達に何事かを告げている。その初老の男の案内で、ファンリュとシェンリュは屋敷の奥へと向かった。背後でバタンと門が閉まる音が聞こえる。その音がやけに耳に残り、ファンリュは逃げ場を失った鼠のような心地になる。この屋敷には、嫌な思い出が有り過ぎる。

 そう、例えば、嗅ぎ慣れた媚香の香りが想起さえ、鼻の奥で粘りついて香るように。

 シェンリュの表情は崩れていない。けれど静かに視線をそこここに走らせているのは、初老の男とて気付いているだろう。けれども屋敷の奥へ向かう道順を覚えた所で、この迷路のような複雑な間取りを持つ屋敷の外へ出る事は不可能だ。

 視界の端に映る深い翡翠色をした建物を見つめ、ファンリュはそっと意識を逸らした。

 屋敷の奥に近づくにつれ、まるで断頭台に立たされているような気分になる。行かねばならないと分かっていても、足取りは重い。段々と、シェンリュから離れていく。その背に迷いは見えない。

 けれどファンリュはここに来てもまだ、迷う。

 罪悪感など自分にとっては消え去った感情でしかないというのに、それでも胸を締め付けるような感情はファンリュの行為を無意識に断罪する。


 ごめんなさい、とは言えない。

 許してだなんて以ての外。けれども意識の片隅で、同じ場所に堕ちていくであろうシェンリュの未来を予想して、昏い喜びを感じている自分が居た。お綺麗な顔をして、綺麗な衣装を着ていても、結局人間とは同じようなものなのだ。

 恐怖に怯え、泣き叫び、抵抗することさえ出来ずに地に這いつくばって汚泥を啜るしか生きていく術は無い。

 底辺にまで堕ちた人間は、何処までも深い奈落の底で、同じ堕ちてきた者達と傷を舐めあい、這い上がることさえ出来ずに生きていくしかない。


 けれど、シェンリュの凛とした姿を思い出し、そこに一縷の希望を抱いているのは確かだった。

 シェンリュがこの屋敷から逃れることが出来たのであれば、出来るのであれば、自分達もまだ這い上がれる要素があるのではないかという、身勝手な希望だ。


 シェンリュは泣くだろうか。抗うだろうか。逃げるだろうか。

 そのどれもが予測出来、けれどもシェンリュであればそのどれもが違う反応をするのではないかとファンリュは思う。

 そうして足が止まってしまったフェンリュに遠くから声が掛けられた。遠方には、初老の男とシェンリュが振り返ってファンリュを待っている。足早にそれに近づきながら、ファンリュは再びシェンリュの半歩後ろに着いた。

 その足取りにはもう、迷いがなかった。


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