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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第一章
8/35

〝こんなにも恋焦がれているのに、貴方はなんてつれない御方〟

 〝私が愛しているのはただ、貴方一人だけだというのに〟


 月夜に照らされた顔には哀愁と、思慕の念が滲み、伸ばされた腕の指先に、ここには無い彼の人の影を見る。

 珍しい桜の花が描かれた広袖から覗く白魚の如き繊手、訴え掛けるように艶やかな雰囲気を纏ったまま首を傾けた少女は、その身を焦がす激しい情念を滲ませて、側で見ている者の吐息さえも奪っていく。


 〝ああ、私は貴方のお側にも行けないのか〟

 〝せめて貴方の纏うその空気さえ、私の物に出来たならば〟

 〝私は貴方を照らす月光となってお側に行けるというのに〟


 しっとりと落ち着いた楽曲が切なさに満ちた余韻を残して潮が引くように消えていく。

 それすらも惜しむように、伸ばされた少女の手が、影を見詰める目が、女の情念をまざまざと感じさせ、しんと静まり返った観客達が食い入るように舞台を見詰める。

 そうして幾ばくかの余韻から音が消えると同時に、ピンと張り詰めたその空気が破られた。


 拍手喝采。

 満員の観客達が割れんばかりの拍手と歓声を舞台上に静かに佇む深緑の舞姫へと送っている。


「深緑の舞姫、素敵でしたっ」

「シェンリュ様ー!」


 鳴り止む事のないそれらに応え、はにかむような慎ましやかな笑みを浮かべて一礼した少女は、その場を看板女優たる座長へ譲り、静かに舞台を後にした。


「これが、深緑の舞姫か……」


 つい今しがた、舞台上を注視していた男は指先で自身の顎を擦り、熱狂的な歓声を上げる人々の間を縫って関係者の入り口に立つ武骨な雇われ護衛人達に胸元から引き出した関係者の証を見せて中へと入って行った。

 鳴りやまない歓声は引くことなく続いている。

 関係者に労われながら、肩で息をしつつこちらへ向かってくる少女を見つけて軽く頭を下げ、他の関係者同様に労いの言葉を掛けた。


「ご苦労様です。次の公演まではまだ時間があります。自室で休まれますか?」

「そうですね、少しだけお休みします」

「では、自室までお供致します」

「ええ、お願い致します」


 頬を赤く上気させた少女は、先ほど舞台に上がっていた時とは比べ物にならない程幼い表情で微笑み、隣に並んだ。舞台上で映えるように派手な化粧を施した顔は何処となく気怠さを醸し出している。

 先程まで舞台上で艶やかな空気を纏っていたというのに、この少女は切り替えが上手いのか、一度舞台を降りれば普通の少女となるのだ。

 それはまるで、そう在る事が当たり前であるかのように。

 その気安さと気立ての良さで、ヤーイー旅楽座の中でも既にトップに立った売れっ子舞踊家の少女は、それに傲ることも、況してや傲慢に振る舞う事もなく、一座に入った頃と変わらない謙虚な態度を貫き通している。

 それが喜ばしくもあり、また危うさをも感じさせ、少女に気取られぬよう、こちらの様子を伺う複数人に視線を走らせた。物々しい雰囲気を持ったそれらの人物は、こちらに気付いたのか気配を殺して遠ざかっていく。


 今はまだ、動く時では無い。

 まだ時間はある。それまでに行動の指針を決めなければと、僅かに低い位置にある少女の頭を静かに眺めた。





「では、失礼致します」


 扉の向こう側で丁寧に頭を下げるその人を見送り、身を翻してベッドへ飛び込んだ。

 その勢いでベッドに置かれたクッションが僅かに跳ねてベッドの下へと転がっていった。


「つ、疲れた…」


 流石に一日二公演を一週間連続で続けていると、心身ともに疲労が蓄積する。

 けれどどうにも回らない頭を回して、このままでは衣装が皺だらけになってしまうことを思い出し、億劫そうに平服へと着替え、湯浴びの準備をして部屋を出た。

 人気の無い廊下をゆっくりとした足取りで進む。

 ここ最近では、疲労回復の為にファンリュ座長が気を利かせて昼間も湯を沸かしてくれているため、一座の皆が出払っている昼間にも湯浴びをすることが出来る。

 それもこれも、私がその分稼いでくれているお陰だとほくほくとした笑顔でファンリュ座長は言うけれど、実際に自分が売れっ子舞踊家だという自覚は無い。


 ……ただ、一公演毎に支払われる賞与が日に日に増えていっているように感じるのは事実だ。

 今日だって、私の公演を見るためだけにチケットを買った方や、そもそもチケットが物凄い倍率で手に入り難くなっていることも分かっている。

 それだけ私が見せる新しい舞踊への期待も大きいのだと、頭では理解出来ているが、実感としてはそこまで至っていないというのが現状だった。


「護衛役、か」


 今までも一座の売れっ子には専属の護衛が雇われていたらしいのだけれど、今の私にも先日から護衛がついている。それが先ほど別れた男、ヒカイだった。

 ライトグレーの髪と目を持つヒカイは、実の所、私が一座の裏方として入った同じ時期に一座に加入した護衛専門の武人である。

 シンプルな生成りの褲褶こしゅう姿のヒカイは存在感が希薄で、どちらかといえば武人というよりも文官、若しくはこれまで私が見ていた、ひっそりと暗躍する暗殺集団の一員のようにも思えた。

 ふとした拍子にその気配は掻き消え、気付けば直ぐ傍に移動している事は多々あり、人が近くに居る生活に慣れている私でさえ、時折心底驚いてしまう程だった。


 ヒカイが何気なく腰に佩刀したすらりと長い漆黒の黒刀は、メイベル王国でも中々流通する事のない珍しい逸品だった。

 額から頭に掛け巻いた鶯色のターバンも何処か異国情緒を滲ませ、ヒカイがこのメイベル王国の純粋な民では無いことを表している。

 口数が少なく、一座の皆とも殆ど交流する事の無いヒカイは一座の中では浮いた存在だった。


 しかしながらヒカイはその実、顔立ちも整っており、謎めいたライトグレーの瞳は透き通るように綺麗であるため、一座の女性陣からは概ね好意的な評価を受けている。

 男性陣に関しては、剣の腕前等の実力は評価するものの、掴みどころのない男であるが、一座の仲間としては申し分のない能力を持っているというのがヒカイに向けた一座の総合的な評価だった。

 私自身の評価は、接しやすい人である。

 先日から専属護衛役として一日の半分以上共に過ごしているが、余計な事には口を出さず、仕事も完璧。

 まだ身の危険を感じるような出来事が無いため何とも言えないけれど、寧ろこういった平和ボケした言葉を吐いてしまう程度には、私に気取られぬ事なく問題を処理してくれている。


 それに何よりヒカイが得難いと思うのは、私がストレスに感じるギリギリのラインを見極めて共に過ごしてくれているのだ。幾ら慣れているとはいえ、衆目を意識して生活する事は神経が磨り減ってしまう。

 もしヒカイ以外の無遠慮な護衛役が着いていたら、恐らく癇癪を起こしていたかもしれない。ああ、恐ろしい。

 そんな事になっていたら、もう目も当てられない。座長の温情と好意で此処に置かせて貰っているのだ。そうなれば、此処にはいられない。

 だって私は素の私を見知らぬ他人に見せられる程、気が大きくは無いのだから。


 暖かな湯船に浸かり、ゆっくりと両手足を伸ばす。凝り固まった筋肉が解され、緊張の糸が張り詰めていた神経がゆるゆると緩まっていく。

 それに伴い、余裕を失っていた心に栄養が補われていくように漸く本来の私自身に雑念を考える程度にまで余裕が出来てきた。


「もうそろそろ、もう一度染めなきゃいけないわね」


 ちょんと肩からこぼれ落ちた髪を一房摘み、まじまじと見つめた。

 一座の皆に気取られぬよう、こまめに染髪薬で紫紺色に髪を染めてはいるけれど、僅かに根元がまた黒くなってきている。

 確か、明後日は久方ぶりのお休みだ。人気の引いた昼間の時間帯か、明け方付近に染め直そう。

 そう決めてしまうと、湯船からざっと上がり、脱衣場でしっかりと丹念に身体と髪を拭いて、先日の公演前に座長から頂いた香油で髪を梳る。こうして丁寧にお手入れをしていなければ、染め直しし続けている髪は直ぐに傷んでしまう。

 香油が髪に馴染む頃、私服でもある淡い菊の模様をあしらった薄萌黄色の上衣に、金糸で手毬が刺繍された藍色の下衣を着装し脱衣場を出て自室へと戻った。


 その途中、青い顔をした同じ一座の踊り子とすれ違い、思わず足を止めて彼女を呼び止めた。


「チンリン、如何なさったのですか?」

「ああ…シェンリュだったの。ごめんなさい、気付かなくて」

「お気になさいませぬよう。憚りながら申し上げます。お顔の血色が悪くなっておられますが、如何さったのですか?」

「……ううん、なんでもないの。気にしないで」


 そう言ったチンリンは、蒼白な表情で手を振った。

 チンリンは私と同じ二十歳の女性で、複数人で踊る舞台に出ている。淡い薄紅色の髪と目を持つチンリンは幼い頃から踊り子の名手と名高い舞踊家の女性に師事していたらしく、その踊りには女性らしい華やかさと品が備わっていた。

 美しい芍薬にも例えられる華やかな顔立ちで明るく朗らかな性格の彼女は、私にも最初から優しく接してくれた一人でもある。

 その彼女にしては珍しい、本当に深刻そうな、沈痛とした表情は何処か悲壮感に満ちているようにも感じられた。


「ですが、」

「それよりも、シェンリュは古い言い回しをするのね。まるでおばあちゃんとお話しているみたい」

「…………!」


 常ならば神経を張っているから現代風の言い回しを努めて使っているけれど、こうして切迫した状況になると、どうしても素の表情が出てしまう。

 ぎくりと嫌な音を立てた心臓を押さえて誤魔化すように「お恥ずかしいですわ」とチンリンに笑いかけると、チンリンも密やかな笑みを浮かべて、からかうように言葉を紡ぐ。


「私はそういう言い回しを好ましいと思うけれど、殿方にはしちゃ駄目よ?」

「チンリン…」

「じゃあ、もう行くわね。本当は急いでいたの。私は本当に大丈夫だから、気にしないでね」


 呼び止める暇も無く足早に去っていくチンリンを見送り、モヤモヤとした何か嫌な予感が胸の奥に広がった。

 ―――その日の夜、私はいつも通りに公演をこなした。けれどその日の夜、チンリンが舞台上に姿を表す事は無かった。





「ファンリュ座長、チンリンを見掛けませんでしたか?」

「チンリン? いいえ、見て居ないけれど…」

「そうですか。先日からチンリンの姿が見えなくて。具合でも悪いのかと思ったのですけれど」


 チンリンが居なくなって三日目。

 私は姿の見えないチンリンを探してホームの中を隈なく捜索していた。一座の皆にそれと無く聞いても、皆何処か上の空ではぐらかされるばかり。

 これは何かある、と私が思うのは当然の事だった。

 そうして、何か事情を知っているに違いないと踏んで、一座の座長、ファンリュ座長に問いただしてはみたものの、ファンリュ座長は何かを思案するように視線を巡らせた。


 その様子に焦りの色は見えない。

 けれど何かを堪えるように、一瞬ファンリュ座長の目が翳ったのを私は見逃さなかった。


「……ああ、そうだったね。ごめんなさい、そうだったわ。少し流行り病に掛かってしまって、今は療養中なの」

「そうだったのですか」


 常ならば淀み無く話すファンリュ座長は、歯切れ悪くそう答えた。

 何か、隠しているのは間違いではないだろうけれど、ともかくチンリンは何処かに居て、命に別状は無さそうだ。

 そうでなければ、こんな風に表情を変えずにさらりと嘘を吐ける筈が無いのだろう。

 素知らぬ振りをしながらも何処か身構えた空気を醸し出すファンリュ座長は、言外に「聞いてくれるな」と伝えている。

 それはこれ以上の情報を、ファンリュ座長が私に言うつもりは無いという事でもある。

 ならば私がファンリュ座長に返す言葉も、一つしかない。


「分かりました。それではまた、チンリンが快復したら必ず教えて下さいね。私もお見舞いに参りますから」

「ええ、勿論。必ず教えるわ」

「ありがとうございます」


 丁寧に御礼を言ってその場を離れた私は、ファンリュ座長がそっと「もう会えないかもしれないけれど」等と呟いていた事など知る由も無かった。





「……で、明日、――る。ああ、…だ」


 壁の向こう側。薄い天幕越しに何か不穏な会話を続ける一座の専属護衛達の話に耳を傾けながら、ヒカイはそっと思案した。

 公にはなっては居ないが、ヤーイー旅楽座の一員でもある、チンリン・クズリがホームから姿を消して既に三日が経っている。その間、一座の仲間達がチンリンを探す様子は無い。あるのはただ、何とも言えない気まずい空気感が漂っているだけだ。

 それを不審に思わない人間は居ない。

 現に、ヒカイが護衛役を務めるシェンリュは、これは何かあると一人一座の仲間達に聞き取り調査を行っていた。口が固く、この件に関しては何の言葉も乗せることはない一座の仲間達は、いっそ異様でもある。


『チンリンは、何処かに売られてしまったのかもしれない』


 風に紛れる程小さく呟いたシェンリュの横顔は、何処か薄暗く翳っていた。

 だがこの護衛役達の会話から察するに、チンリンは売られた…というよりも、強制的に何処かへ出向させられているという方が正しいのかもしれない。


 「今回は特に長いな」だとか、「あの方は熟女好きだから」だとか、言葉の端々に、こういった事があるのは珍しい事ではないのだと伝えている。

 あのお方(・・・・)とやらが気になるけれど、とりあえず、情報は手に入った。

 身を翻して去ろうとしたその時、一瞬の間を置いて真後ろに凶手が降り立った。

 油断をしていた、という訳ではない。ただ、一瞬反応が遅れたのは事実で、体を捻って蹴りを放つものの一拍遅かったようだ。足は空を蹴り、鳩尾に凶手の拳が入った。


「ぅぐっ…!」


 続けざまに背後にもう一人凶手が現れ、痛みに耐えながら瞬時に手首を捻って暗器を放つと、凶手の右頬を掠めて、暗器が薄い壁に突き刺さった。

 腰に差した剣を抜き払うには、どうにも広さが足りない。脇差で応戦できる相手であれば良いが、凶手それぞれの手には、鈍く光る手甲鉤てっこうかぎが握られている。

 ここは強引に押通るしか無いか。

 しかし、それが出来れば苦労は無い。


 二方向から同時に攻撃をされれば、受け流すのが精一杯だ。

 どうにか蹴りが凶手に届いても、蹴った感触は鈍く、腹に鉄でも仕込んであるのかびくともしない。

 煙幕を用いても、逃げ切れるかどうか…。


 糞、と舌打ちをする間もなく、三人目の凶手が姿を現した。

 こうなればもう、結果は見えている。

 多勢に無勢。両手首を拘束され、床に引きずり倒された。


「大人しくしていろ」


 ひやりと、首筋に短刀が当てられる。

 ちりっとした痛みと共に、首筋から血が流れ落ちた。

 この洗練された動き。体術に秀でた的確な行動力。それらは到底、一座の護衛役程度の破落戸集団に成せるような技ではなかった。

 この凶手達は恐らくは相当な手練れ。


 だとすると、この凶手の雇い主は―――……。


 そこまで思い至った所で、私は背後から首筋に手刀を落とされ、抵抗虚しく意識を暗闇に落とした。

 その向こうで、護衛役達の声に交じり、ファンリュ座長の激しい怒声が聞こえたような気もするが、直ぐに意識を遠のかせた私には、分かろうはずもなかった。



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