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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第一章
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 ―――あの日、森の中から私を助け出してくれた男、マルセルは、森からほど近い里へ降りると、待機していた護衛武官達に指示を出し、私を迷い子として丁重に扱ってくれた。

 極度の緊張と、森を出るまで暫く担がれていた為か軽い脳貧血を起こしていた私は、マルセルとその側近らしい男達の激しいやり取りを、ただぼうっと離れた場所から眺めていた。

 森の中ではすっかり夕暮れを迎えていたけれど、こうして里に降りてくるとまだ夕陽が僅かに差していて、そこここに松明が焚かれているためか、私やマルセルが居る場所はそれなりに明るくなっている。


『殿下、何故あのような奇怪ななりをした女をお側に置いているのです!』

『何故とは何だ。あの者は森の奥不覚に居たのだぞ? 放ってはおけないだろう』

『ですが殿下、あの者が刺客であったのならば何とするのですか?! 何もなかったから良かったものの…』

『ヒグマール武官の仰る通りです。直ぐに処分を致しましょう。早急に手配します』

『小娘一人に、何をそんなに慌てている? お前達は心配し過ぎだ』


 切迫した様子でマルセルに掴み掛からんばかりに詰め寄る側近達と、それを面倒臭そうに煙に巻くマルセルの様子はどこかちぐはくで、側近達の焦りに満ちた鬼気迫る表情が何処か滑稽にも思えた。

 ああでも、私は何かマルセルに危害を加える危険人物だと思われているのだわ、と何故だか直ぐに理解出来た。

 私の両手には、拘束するような物は付けられていない。でも、あの側近達の様子ではあの人マルセルが頷けば直ぐにでも拘束出来るよう、静かにじりじりと距離を詰めていた。


 ここから逃げる事など、どうせ出来はしないのだ。

 だから私はそっと、漸く落ち着いてきた体をふらりと立ち上がらせて、『もし、』と声を上げた。


『ご挨拶も儘なりませず、申し訳ないことでございます。どうぞ平に、平にご容赦下さいませ。私の名は、山原瑠璃子と申します。私が此方こなたへ参りましたのは、私の本意ではございません。それだけはどうぞお含みおき下さいますよう…』


 はっとした表情で警戒を強める側近達とは違い、マルセルは、にやりと口角を上げて気色ばむ側近達を片手で制した。その様はさながら高い身分にある貴族の主、そんな風に私には見えた。

 殿下、と呼ばれている位なのだから、相当に良い家柄の人間なのだろう。

 …まさか本当に、王族等という訳ではないだろう。だってあまりにもマルセルは軽装に過ぎるし、もし本当に王族という身分にあるのであれば、護衛武官の数が少なすぎる気がした。


『具合はもう良いのか?』

『お陰様を持ちまして、随分と体の調子が良くなって参りました』

『それは重畳。さて、そなた先程名を名乗ったな? 然しながらここいらでは聞かぬ名をしている。お前の出身地は東方か?』

『東方、というものがどのような国を指しますのか存じ上げませんが、私の故郷さとは、日本にございますれば』

『に、ほん…? そのような国など聞いた事がない! やはりこの者、間者か密偵か?! 殿下、捕縛の許可を!』

『煩い。少し控えておれ』


 煩わしそうに背後に控える側近達にさっと片手を振ったマルセルは、慌てて膝を折った私にそっと近付いた。

 ここに至って漸く、視界が開けてきたのか、マルセルや側近達が着ている衣服が私の知る現代的な物ではなく、昔風の―――いわば古代中国風の物であることに気付いた。

 マルセルは着崩した、恐らくは胡服と呼ばれるモンゴル等の遊牧民族由来の派手な赤色の衣服を纏っている。腰にはなめした皮に黄玉が下がったベルトで締め、足元は同じくなめした皮のくつを履いている。

 側近達の多くは文官風の薄青色の踝まで隠れた裾の長い袴に前合わせの上衣、直裾と呼ばれる衣服を纏っている。


『さて、ニホンとは何処に位置している?』

『恐れながら此処は、何という国なのでございましょう? 私はただ、学舎まなびやを後にして家路に着く心積もりでおりましたのに』

『学舎? 何処の国も何も…ここは大陸の中央に位置するメイベル王国だ。して、その学舎とは何を意味している?』

『私は末席ではございますが、学舎に属しております』

『ほう、女子おなごに学舎、とな』

『はい、然様にございますれば。……もし、メイベル王国とは、ユーフラテス川の流域にある、中東の小国でございますか? そのような名の国を、私は存じ上げませんが』

『ユー…なんだ、チュウトウ?』

『中東地域の国ではないのですか? 私はアジア、日出ひいづる極東の国、日本に住まうしがない学生でございます』


 ふむ、と腕を組んで考え込むマルセルは背後の側近達に、『地図をこれへ!』と声を上げた。

 それに慌てて懐から取り出した地図を恭しく捧げた側近の一人、確か、ヒグマール武官と呼ばれていた青年から地図を受け取ると、私の視線に合わせてしゃがみ込み、地面に地図を広げた。


 その無防備なマルセルの姿に、背後からかちゃ、と腰に下げられた剣鍔に手を掛ける音が聞こえ、思わず腰を落としたままじりっと後退りしてしまう。

 すかさずその腕をマルセルに取られ、前のめりになりながら地図を見ていると、それが私の知っている世界地図や日本地図とは大きく違う事が分かった。


『これは…何なのでしょう?』

『この世界の地図だ。……その顔では見た事がない、か?』

『はい。私の知る地図とは余りにもかけ離れております。こちらが、この世界の地図、なのですね』

『その通りだ』


 大きく頷いたマルセルに、私は胸を抑えて思わずよろめいた。

 もしかしたら、という嫌な予感が胸の中にじわじわと広がっていく。

 それはあまりにも、荒唐無稽な予想だった。


『恐れながら一つだけ、確かめたき事がございます』

『申してみよ』

『……この世界の名は、何というのでございますか?』


 その問いかけに、マルセルは奇妙な顔をしつつ答えた。なんの淀みもなく紡がれたその言葉に、私はただ顔面を白くして愕然とした。


『この世界の名はシャナカーン。一つの大陸と青い海が広がる世界だ』


 嘘よ、という言葉は口の中で溶けて消え、あまりの衝撃に、私はその場で昏倒した。その体を抱きとめてくれる大きな腕も、焦ったようなその声も、その時の私には届く筈もなく、真っ暗闇の中を、私は今一度彷徨った。





 ―――これはまた懐かしい夢を見てしまった。

 天幕越しにこぼれてきた朝日にぼんやりと目を細めると、ごそりと隣のベッドで身動ぎするような音が聞こえた。

 起きなきゃ、とまだ覚醒しきっていない頭で上半身を起こすと、朝日に照らされた気怠い溜息と共に妖艶な美女、ファンリ座長が花が綻ぶように微笑んだ。


「おはよう、シェンリュ」

「おはようございます、ファンリュ座長」


 新しい一日が、始まった。


 翌朝、一座は荷物を纏めてホームである第二都市へと入った。

メイベル王国へやって来て四年が経っているけれど、実際に居住、滞在した事があるのは王都とその周辺都市である。


 ―――ここが、第二都市。

 王都とはまた違った都市設計がなされた第二都市は、これまでメイベル王国で見てきたどの風景にも似ない珍しい風景に目を惹かれ、思わず馬車から身を乗り出してきょろきょろと周囲を見渡した。

 背中に流した紫紺色の髪が肩からこぼれ落ち、視界を一瞬にして紫紺色に染めた。もうすっかり見慣れてしまった美しく染まりきったその髪色に満足しつつ、こぼれた髪を軽く手で止める。


「綺麗だわ……」


 物珍しさに思わず視線をあちこちへと流しながら、思わずそう呟く。

 すると、馬車の前方からふふっという笑い声が聞こえてくる。


「シェンリュ、それじゃああなた、お上りさんみたいよ?」


 いっそ鮮やか過ぎる程に赤い髪を緩く編み、結い上げた艶やかな美女たるファンリュ座長は、さっと襦桾の裾を払い、肩から下げた白い被帛を口許に寄せてくすりと微笑んだ。

 まるで幼子を嗜めるようなその声は、とても柔らかな響きを持っていた。

 もしもこれが嘲るような響きであったのならば、私自身萎縮して縮こまってしまっていただろう。

 けれどその余りにも優しい声音に、思わず羞恥で頬を赤く染めた。そうしてハラハラと私の行動を見守っていたらしい一座の皆も軽やかな笑い声で同意した。

 ううっ。否定出来ない。恥ずかしさに首をすぼめながら、楽しそうに私を流し見た座長へ慌てて弁明する。


「ごめんなさい、気を付けます。でも、凄く不思議な光景で。もう少しだけ見ていたいんです」

「ええ、そうして頂戴な。でも、本当に気を付けるのよ?」

「はい」


 馬車の手すりにしっかりと腕を絡めながら、じっと外を眺める。

 メイベル王国の第二都市という名は伊達ではないらしく、大きく広がり舗装された石畳の大通りが都市の中央を突き抜け、そこから枝分かれをしていくように何本もの道路が伸びている。

 少し雑多な印象を受ける王都とは違い、第二都市はつい最近まで最先端の技術を投入していたのだろう。あちらこちらで、美しいきらびやかな建物が並び、整然とした町並みを形成していた。それはまるで、西洋文化と和洋文化が混ざり合い、不可思議な統一感で纏められたような趣のある風景だ。

 ただし、道を行き交う人々の殆どが中華風の衣装のため、歴史と歴史の境目にいるような感覚がわき起こる。


「素敵な町ですね」

「そうでしょう? 私達のホームへようこそ! さて、一座の家まではもう少し掛かります。また落ち着いたら都市を案内しますよ。先ずはこの、世にも豊かな景色を楽しんで下さい」

「ありがとうございます、リュウレンさん」

「いえいえ」


 にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべるのは、二胡奏者のリュウレンだ。

 抜けるような青空色の髪に、青空色の瞳を持つリュウレンは、物腰が柔らかく、女性的な雰囲気を持った長身痩躯の男性である。リュウレンの側はいつもぽかぽかと暖かな小春日和のように、優しい空気で満ちている。

 実年齢を聞いた訳ではないけれど、察するにリュウレンの年の頃は三十代後半。

 ヤーイー旅楽座の中でも古参の旅芸人であり、一座を纏め上げる座長曰く、一座の精神的な主柱でもあるのだという。

 リュウレンは私が一座に入ってからというもの、何くれとなく色々な事を教えてくれる。この第二都市にある一座のホームには奥様と三人のお子さんが住んでおり、リュウレンが巡業中の折りには家族と離れ離れで暮らしているのだという。

 所謂、単身赴任のようなものだろうか。


『ホームに居れば、常に安定した暮らしが出来ますから』


 そういつか話してくれたリュウレンは、この仕事に誇りを持っているようだった。

 やはりこの一座は、こういってはなんだけれど、巷の有象無象の貧乏旅芸人達とは一線を画しているのだろう。

 一座の巡業は、半年周期に一ヶ月から二ヶ月程度各地を巡り、このホームへと帰って来るのだという。

 それは言わば、各都市へと名を売り、外貨を稼いでくる外交にも似ている。


「今回は長旅でしたからね。皆首を長くして待っていますよ」

「そうですよねー。もう本当に今回は収穫がたっぷりあって、光陰矢のごとし、なんて本当にあるものなんですねぇ」

「フウカ、貴女難しい言い回しを覚えたのね?」

「そうですよー? 私はまだまだ成長途中ですから!」


 一座の仲間の声を聞きながら、私はそうっと溜息を吐いた。

 軽やかに笑う皆の表情は明るい。やはり巡業途中の地域とホームという強いバッググラウンドが整った場所では気の抜き方も違うのだろう。


「さて、公演は明日からだけど、皆ちゃんと準備しておくのよ。何ていっても、シェンリュがホームで初めて舞台に立つ日なんだからね!」

「分かってますよ、座長」

「勿論! いつも以上に気合を入れていきますとも」


 そんな声に、私も慌てて顔を上げ、椅子に座りなおした。


「シェンリュ、頑張りなさい。ここから、あなたの生活が始まるのだから」


 優しく穏やかな表情でそう言ったファンリュ座長に頷き、表情を引き締めて「頑張ります」と答えた。





 ホームに着くと、真っ先に荷物を下ろすのを手伝って、片付くまで様々な道具をホームに運び込んだ。

 ホームは意外な程に大きく、一座が全員住めるようになっており、舞台も広く、観客が一千人は入れそうな程だった。

 やはりこの一座のパトロンは、これほどのお金を援助することが出来る有力者なのだろう。

 荷物を下ろし終わると、次は旅の埃を被ってしまった道具の清掃に取り掛かった。こういったものは早い内に手入れをしておかなければ、直ぐに使い物にならなくなってしまう。高価なものだから、余計にだ。修理費だって馬鹿にならない。

 私やリュウレンさん達が手入れをしている間、手の余った仲間は舞台の清掃に取り掛かっていた。人数が増えているように感じたのは、このホームに控えていた所謂補欠の人員が出てきていたかららしい。


 すべてを終える頃には、夕刻近くにまで差し掛かっていた。ファンリュ座長は大事な用があると言って出て行ったきり帰っては来ず、私よりも五歳程年下の歌い手であるフウカに案内され、私に割り当てられた部屋へと向かった。


「今日はこのままゆっくりとしていて。ああ、浴室は女性専用のが、この回廊の突き当りにあるから、それを使ってね。もう湯は入っていると思うから」

「分かりました。入ってはいけない時間はありますか?」

「うーん、特には無いけど、入れるのは丑の刻までなの。それだけは覚えておいて」

「分かりました。ありがとうございます、フウカさん」

「良いのよ。それじゃあ、晩ご飯の時間になったらまた呼びに来るね!」

「ええ、ありがとうございます」

「じゃあ、また後で!」


 あっという間に去っていったフウカを見送って、私は部屋の中に荷物を下ろすと、落ち着く暇もなく変えの衣服を持って浴室へと向かった。流石に旅の埃を落としてさっぱりしなければ、寛げそうにもない。

 浴室は、大浴場のような風景だった。五人から十人程度ならば一気に入る事の出来る広さを持ったそれには、温かな湯が張られている。


「豪勢ね…」


 このメイベル王国では、まだ風呂を沸かすのにも一苦労掛かる。それだけの湯を張るのも、同じ位に大変な事だろうに、ここではそれがあたかも普通であるかのように錯覚されている。

 その錯覚に、言い知れぬ恐怖を感じた。



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