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ふわり、ふわりと柔らかな動きと共に、薄い空色に大きな牡丹の花が美しく描かれた広袖が、まるで空中に牡丹の花を咲かせたかのように華やかに翻る。
肩に掛けられた薄い綾絹の被帛が流れるように円を描く。
軽やかな足取りは体の重さを感じさせず、広袖から覗く白魚の如き繊手が滑らかに動き、背後で鳴らされた二胡や琴の音共に艶やかに、優雅に舞踊る。
最後に二胡の音が静かに消えていくと、美しく華やかな舞が終わり、演舞者が艶やかな礼を見せ、淑やかに深くもう一度礼を行う。
そうして漸く、華やかな演舞を見せた演舞者に歓喜の声を上げるべく、舞台を注視していた観客達が一斉に立ち上がった
「ブラボー! なんて綺麗な舞姫なんだ!」
「ああ、本当にこんな舞は初めて見たわっ」
「な、名前は?! 名前はなんて言うんだっ?!」
「確か、シェンリュだったような…」
「なんて美しい女性なんだ…!」
「本当に素敵よねっ。次の演舞にも出るのかしら。もう一度見たいわ!」
様々な歓声が騒々しい渦となって演舞場に響き渡る。
先刻、美しい演舞を見せていた女性――いや、よく見てみるとまだ少女の域かもしれない――がうっとりするような優雅さでお辞儀を見せ、興奮冷めやらぬ観客達を背に、舞台袖へと下がって行った。
*
はあっと大きく肩で息を吐く少女は、どくどくと音を立てる胸を撫で下ろし、一先ず舞台を滞りなく終えられた事に安堵する。
すると観客席側で見ていると言っていた座長が、興奮した様子で少女に駆け寄り、押し潰さんばかりに抱き締めた。
「凄い凄い! こんなにも熱狂したのは初めてよ! 凄いわ、シェンリュっ」
「ありがとうございます」
「いや、本当に凄かったよ。これまで色んな場所で巡業してたけど、こんなにも反応が良かったのは、これが初めてだよ」
二胡を引いていた男性が少女の肩を叩いてそう言えば、漸く体を離した座長が胸を張ってそれに答えた。
「ふふん! それは当然よね。なんたって私が見初めた女性ですものっ」
困ったように笑う少女と興奮冷めやらぬ座長を囲んだ旅の一座は、初めて舞台を踏んだ少女を心から称えた。
少女はその日一日中、舞台に上がり続け、熱狂する観客達に舞を披露し続けた。
そうして少女の名は、瞬く間に巡業地を駆け巡ることとなる。
旅の一座に美しい演舞者有り。その名をシェンリュ、美しい容姿で艶やかな舞を披露する、新進気鋭の舞踊者。人はその名を捩り、深緑の舞姫と呼んだ。
少女――シェンリュこと、山原瑠璃子は微笑みを絶やすことなく、矢の如く過ぎていく巡業日程を終えた。
*
座長と相部屋となっている部屋のベッドへダイブし、瑠璃子ははしたなくため息を吐いた。
薄い藁を敷き詰め白い大判の布で申訳程度に覆ったベッドは、ちくちくと肌に突き刺さる。すんと鼻を鳴らすと、寝具や部屋の隅にうっすらと残る埃と黴臭さが混じった湿っぽい臭いがつんと鼻を突いた。
この臭いにも、もうすっかりと慣れてしまった。
「疲れた…」
意識を全身に向けると、足や腕、肩が筋肉痛でびきびきと痛む。
この旅の一座―― ヤーイー旅楽座の一員に加えて貰い、舞姫として身をやつして早三ヶ月が経過した。
王都を抜け出したあの日、私は旅の一座が乗る荷馬車へ同乗した。旅の一座はここ半年程、王都近くの町で巡業していたと言い、丁度メイベル王国の第二都市へ移動する所だったのだ。
一座の演目は多岐に渡り、旅の合間も時折簡単に演目を披露しつつ身銭を稼いでいた。座長をはじめとする一座の人数は十五名。
旅の一座としては比較的大所帯である。
恐らくは、誰かしらの貴族をパトロンとする旅芸人達なのだろう。庶民として生きていただけでは身に付かない品を持った芸人が数名見受けられた事、そして旅の合間も皆その表情には明るさと余裕があり、困窮している様子が無かったことから、その辺りの事情は少なからず察せられた。
旅の一座にしては、持ち物も高級品ばかりだ。
それが、大所帯でもさほどひもじい生活をしていない証拠でもある。
美しい燃えるような赤色の髪とルビーのような目を持つ座長は、おおよそ四十代前半といった所だろうか。肉感的な体はメリハリがあり、蠱惑的に艶めいた眼差しが男性を惹きつける美しい女性だ。この一座の看板女優だけあって、その腕前も確かだ。
一度見ただけで誰もが虜になる座長は、私が馬車に同乗させて貰って直ぐに、一つの提案をもたらしてくれた。それが今に繋がる転機だった。
『あなた、確か名前はシェンリュって言ったわよね?』
『ええ、はい』
『第二都市までこのまま行くんでしょう? だったら、そこまでは数か月掛かるわ。そこで提案があるんだけど、旅の間だけ裏方仕事を手伝って貰えないかしら? 人手は幾らあっても足りないの。馬車に同乗する駄賃替わりって所だけど、どうかしら?』
『…それで、よろしいのですか?』
『勿論。私がそう決めたんだから』
『それならば、お言葉に甘えて…どうぞよろしくお願いします』
『ええ。こっちこそよろしく!』
がっしりと手を握り、快活そうに満面の笑みを浮かべた座長の計らいで、私は一座が第二都市へ向かう旅の間だけ、荷馬車の駄賃替わりに飯炊きや衣装の洗濯など、裏方仕事を手伝っていた。
裏方仕事を主とする人間は少ない。
雑用は嫌いではない。食事の用意も、日本に居た頃はお正月やお盆なんかで親戚一同が集まる時に手伝っていたし、日常的に食事の手伝いをしていたから、腕にはまあそれなりに自信があった。洗濯も掃除も荷物の整理も、これからの日々を思えば苦に思う事など無かった。
そのお陰もあって、和気藹々とした一座に溶け込むのに、そう時間は掛からなかった。
皆が家族の如く共同生活を送る一座は、団結力が強く、仲間への信頼も厚い。加えて人情にも厚い事から、面倒見の良い一座最年長の衣装係りのお婆さんや、年若い踊り子達と直ぐに打ち解けられたのは幸運という他無かった。
一座と巡り合えた事が、私にとって幸運の始まりだったのかもしれない。
何の後ろ楯も無い私を引き入れてくれた座長には感謝してもしきれない。そしてそれは、これまで私を育て、生活能力の一切を鍛え上げてくれた遠い日本の両親も同様に。
ありがたい事に座長には特に飯炊きの腕前を重宝され、一座の胃袋を一晩で鷲掴みにしたとさえ言われる程だった。
そうして人目を避けて生活していく中でこの安穏とした新鮮で楽しい生活に慣れ、『もし良ければこのメイベル王国を出るまで一座に置いて貰えないか?』と、恥を忍んでそう頼んだ時、座長以下全員に、『芸は出来るのか?』と問われた。
逡巡したのは一瞬だった。
元々日本では、日舞や私の住む地域独自の神社へ奉納する舞を習っていたことから、一芸は何かと問われれば『舞を舞う事』これに尽きる。
…正直言って、このシャナカーンという世界で、アクロバティックな派手さは無いものの美しく流麗な舞が通用するのかという不安はあった。
けれど頭の中で舞の音声を思い出しながら舞った時、その不安は直ぐに弾け飛んでしまった。
それはまるで天啓にも似た感覚。
ああ、これこそが私が求めていたものなのだと、腑に落ちる思いだった。
シャナカーンに来てからすっかりと色褪せてしまった故郷を思い出す縁に、人気が失せた夜半に寂しさと切なさを抱きながら度々舞うことはあっても、それで身を立てる等ということは考えたことすらなかった。
だってここでは、師匠となる人が居ないし、日本に居た時でさえ、人に舞を披露出来る程の腕前など無かったのだから。幼い頃から舞を嗜んでは来たけれど、例えば家元にその腕前を認められた流派の師範や名取になる事など無かったのだ。
でも、舞うことが好きだったから、両親に無理を承知で長年舞を習ってきた。
その思いが今、昇華されていくように、私には感じられた。
どんどんどんどん、無駄な部分や硬く強張っていた体の力んだ所が緩み、解され、削ぎ落とされていく感覚。
私が、私である、私自身を体現する腕の一振り、足捌き、腕に沿って動く顔の角度。
そのなんと心地良いことか。
終わった瞬間、その余韻に浸る私に、皆が皆立ち上がって大きな歓声を上げながら私が舞ったものを褒めたたえてくれた。
正直、本来の日舞を舞っている方々からすれば、私の舞なんて見られたものでは無かったと思う。動きも覚束ないし、何より指先から足先、頭の先まで神経を行き渡らせた繊細な舞を行うには、どう贔屓目に見ても技量が足りないことは一目瞭然だっただろう。
けれどそれでも、私はとても嬉しかった。
体に、骨にしっかりと染み付いた、『踊ること、舞うことを愛している』という私自身の歓喜が体中を駆け巡り、単調になりがちな舞を華やかに、そして舞う楽しさに満ち溢れていたのだと思う。
『凄い凄い凄い! あなた本当は舞踊家だったのね?! どうして言ってくれなかったの! 見たこともない型だったけれど、素晴らしい舞だわっ』
『うんうん、そうだよっ。さっきのシェンリュ、まるで天女が舞い降りてきてたみたいだった!』
『こんなに凄い舞が見れるだなんて思っても見なかったよ~』
そう楽し気に、或いは興奮しながら私を取り囲んで口々に褒めてくれるのが気恥ずかしくて、嬉しくて、思わずちょっぴり涙しつつ『ありがとうございます』と言うのが精いっぱいだった。
「まぁ、あの時に比べれば、今はもっとマシな舞を披露出来てるかな…」
鮮明に思い出すことの出来る、つい数か月前の出来事を反芻しつつそう零すと、何故だか顔から火が出る程の恥ずかしさに見舞われる。
昔取った杵柄!と堂々と立ち振る舞える程の度胸は今の所無い。というよりも、無理だ。
第一こう見えても私は、注目を受ける事が苦手なのだから。
「妾妃だった時の経験が、今に生きている、のよね」
複雑なことこの上無いけれど、あの二年――いいや、四年か――が無ければ、今の私は何処にも居ないだろう。そう考えると、あの時期があったからこそ、私は人前で立つこと、権力者側に居る人間の心理や振る舞いを体験し、経験することが出来た。
数か月前まで、その隣に並び立っていた大きな背中を思い出し、胸がざわついた。
メイベル王国では珍しい、王族のみがその身に纏うことを許された、天然物の美しい金髪と、濃厚な榛色の目を持つ男臭い美丈夫。マルセルの傍に居るだけで、いつも心が落ち着いていた。
多分恐らく、あの貴族令嬢から伝えられた言葉がなければ、今もまだ王宮の中に留まっていたことだろう。
けれどそれも今は、失った未来の幻想でしかない。
「マルセルに感謝しなくちゃね」
今の私が在るのは、マルセルのお陰だ。それを忘れた時などひと時も無いが、それでもこうして離れてみると、これまでの私がどれほどマルセルによって守られ、庇護を受けてきたのかを痛感する。
あの、最高級品ばかりを集めた調度品と、滑らかな肌触りの寝具に包まれて眠る生活は、今の私にはもう手の届かない場所にある。
またあの生活に戻りたいとは思わない。
けれどやっぱり、定住することなく、流れの民のように、藁を詰めただけのベッドに何か月も眠る生活というものは、それだけで気が滅入るというものだ。
「ホームへ行ったら、先ず一番に綿のベッドを買おう」
一座から支給されるお給金は、一公演ごとに支払われる。公演に出なければ、その日のお給金はゼロとなるから、皆少しくらい体調を崩しても公演には必ず出ていた。
先日から舞台に立ち始めた私も、微々たるお給金ではあるものの、お小遣い程度のお給金が支払われていた。
手持ちのお金を崩す必要がなくなったのは、本当に嬉しい。これで少しは貯金も出来ようというものだ。
「座長、遅いわね」
相部屋の座長が席を外しているから、今はこんな呟きが出来るけれど、自分の背景となっているものを隠すのは、思いの外疲れてしまう。それは妾妃として生きていた頃とは比べ物にならないほどシビアな問題だ。
「ああ、明日からは第二都市での公演かぁ」
くぁっと一つ大きな欠伸をすると、体の疲れから睡魔が襲ってくる。第二都市までの道のりは遠く険しいものだったけれど、さて明日からはどんな日常が待っているのだろうか?
それが楽しみで、でも少しだけ怖さもある。
第二都市は、このヤーイー旅楽座にとってはホームに当たる場所だ。そこで公演するということは即ち、私が正式な一座の一員となったことを初めて披露する場所でもあるということ。
「早く寝なきゃね」
もう一度大きな欠伸を一つし、ごそごそと眠りやすい位置に体の角度を変え、私は襲ってくる睡魔に身を委ねてすっかりと寝入ってしまった。
だから、部屋の前…薄い天幕で遮られた部屋の外に、感情を削ぎ落としたかのような無表情の座長が立ち竦んで居たことなど、寝入ってしまった私には知る由も無かった。
*
―――ヤーイー旅楽座の座長を務め初めて五年、ファンリュ・グレイスは自身に割り当てられた部屋の前でそっと立ち竦んで居た。
同室となっている女性は、つい最近一座に入った舞踊家シェンリュ。謎めいた紫紺色の髪と、殆ど黒としか思えない瞳。全体的にほっそりとした線の華奢な体躯から生み出される優雅で大胆、繊細で流麗な舞は、まだまだ駆け出しにも拘わらず多くのファンが着く程の人気ぶりだ。
シェンリュが一座に入ってから、観客も、それに伴う興業収入も格段に跳ね上がった。
元々は、故郷か何処かでシェンリュが舞う独特の舞踊を誰かに師事していたのだろうけれど、今に至るまでこれほどの名声を得たシェンリュの名は長くこの業界に携わっているというのに、一つも聞いた事がない。
だとするならば恐らくシェンリュは、何処かの大貴族に囲われていたのか、或いはあの優美としか言いようが無い気品溢れる立ち居振る舞いからして、何処かの貴族の令嬢だったのかもしれない。
ならば何故、シェンリュは一介の旅の一座等に加わり、巡業生活を送っているのだろう?
座長のファンリュからすれば、シェンリュは今直ぐにでも独り立ちすることの出来る実力を兼ね備えている。慎ましやかな性格も、人格にさえ問題はない。
だというのに、どうして……?
天幕越しに聞こえてきた微かなシェンリュの言葉は、何を言っているのかさっぱり分からなかったけれど、『妾妃、マルセル』というキーワードから察するに、やはり何処かの貴族の令嬢であったのかもしれない。マルセル、とは確かメイベル王国の王であった筈。妾妃というのは、昔聞いた王の寵妃だろう。
「厄介な事にならなければいいんだけどねぇ……」
一座のホーム、第二都市までは一時間もあれば着くだろう。
そこからは再三のように、シェンリュに関する情報を渡すよう、矢の催促を受けている。
恐らくはシェンリュにも、会わせなければならないのだろう。とはいえ、まだ新入りのシェンリュをあの御方に会わせるのには、どうにも抵抗がある。一座を守るためとはいえ、正直あの御方は好きではない。
「兎も角明日、だね」
一座の皆には見せられない複雑な面持でファンリュは天幕を除けて部屋の中に入り、シェンリュが眠っているベッドと丁度反対側にあるベッドへ潜り込んだ。
湿気る寝具の臭いが鼻に突くけれど、明日になれば一座のホームにある温かなベッドで眠ることは出来る筈だ。
ファンリュはシェンリュの寝息に耳を澄ませながら、ゆっくりと眠りに落ちて行った。