4
その日の昼下がり、王宮内に激震が走っていた。
部屋で休んでいた筈の寵妃様が、その姿を消したのだ。それに気付いたのは、昨晩から早朝に掛けて寵妃の侍女としてお世話をしていた女官の一人だった。
昨日の昼頃、寵妃から『部屋へはどなたも通さぬように』と人払いの依頼を受けた女官長は、担当する女官や護衛武官に重々言い含め、その日は極力お部屋へ近寄らぬように手配した。その時の寵妃様は何処か憂いに満ちた表情をしていたものの、とても冷静で落ち着いて見えていた。
昨晩、寵妃様の部屋に夕食をお持ちしたものの既に就寝していたようで、女官によると夕食を夜食に変えて再び部屋を訪れたものの、翌朝まで寵妃様の部屋の近くで控えていたという。
それが朝になって不審に思った女官が寝台を剥ぎ取ると、そこに寵妃様の姿は無く、代わりにこんもりと盛られたクッションが鎮座しており、そこで漸く寵妃が居なくなったことに気付いたらしい。
そこからは手分けをして女官総出で部屋の周辺を捜索していたもののその姿を見つけることは出来ず、ここに至って漸く女官長は意を決して陛下へとその一報を伝えた。
女官長である私宛に書かれた寵妃の手紙には、これまで良くして下さってありがとう、という感謝の言葉が綴られていた。寵妃の性格を表すかのように丁寧に書かれたそれは、女官長の胸を強く打つ。
事を大きくしたくは無かったけれど、ここまで来てはどうしようもないという判断だった。
―――けれどその判断は、些か遅すぎたのかもしれない。
目の前に立つ怒れる主君を前に、女官長はぐっと腹に力を入れた。
「寵妃が居ない? 居ないとはどういう事だ、女官長」
「申し訳ございません、陛下。今現在、王宮内を女官達に隈無く捜索させておりますが、未だそのお姿は見えておりません」
「居なくなった、とでも言うのか? 私の寵妃が。自らそう望んで…?」
「それは、分かりかねます」
蒼白な表情で顔を強張らせた女官長は、硬い声でそう返した。
目の前に佇む人影は、顔こそ見えないけれど、言葉の端々から溶岩のごとき怒りと深い失望を感じさせて、震えないように、言葉に詰まらないようにするのが精一杯だった。
もしも今女官長が平伏し、顔を伏せていなければ、目の前に立つ陛下の怒りを目にし、とんでもない醜態を晒していたかもしれない。
それほどまでに、陛下の怒りは強く、そして深い。
ピリピリとした空気、等と軽く表現出来るようなものではない。じりじりと身を焼くような怒りの炎が、現実的な圧迫感と、腹の底がずんと重くなるような威圧感となって、痛みすら感じる程の大きなうねりを伴ってこの身を襲う。
陛下に仕えて二十年。
陛下がこれ程までに本気の怒りを露にしたのは、もしかすると生涯初めての事かもしれない。
どれくらいの時間が過ぎただろう? およそ一分か二分程の沈黙だった筈なのに、その長さは永遠にも思われたその時、部屋の外からバタバタと慌ただしい沓音が響き、同時に「失礼致します!」という息を切らした護衛武官が飛び込んできた。
玉の汗を額に浮かばせた護衛武官は、陛下の御前で叩頭しつつ声を張り上げた。
「申し上げます! 王宮内を探しましたが、寵妃様のお姿は未だ発見出来ておりません。また、寵妃様のお部屋から、陛下への文が残されておりました」
これには女官長も目を見張った。
そのような文を残して行ったという事は、やはり寵妃様自らがそうお決めになってこの王宮から出られたという事なのだろうか。
けれど、どうして今だったのだろう…?
女官長と同じ疑問を抱いているであろう護衛武官は、陛下をそっと振り仰いだ。
「寄越せ」
恭しく差し出された文を護衛武官の手から奪い取り、丁寧に山折りにされたそれを開く事すらもどかしいとでも言うように乱暴に文を振って開く。
うっすらと牡丹の透かし模様が描かれたそれは、寵妃の為だけに作らせた最高級の手漉き和紙だった。
花開く牡丹は、寵妃様に与えられた御紋。
文を食い入るように見つめている陛下の横顔は何処か焦燥感に満ちていて、普段は飄々とした陛下がどれ程寵妃を愛しておられるのか手に取るように分かった。
「―――これを見つけたのは、寵妃の部屋だと言っていたな。寵妃の部屋を隈なく捜索し、何か不審な物が無いか、それから無くなっているものが無いか確認せよ。女官長、そなたに頼むぞ」
「御意」
何か感情を押し殺したような陛下のお声は、その端々に堪えきれない感情が滲んでいる。
けれどそんな陛下に対して、気安くお声を掛けることなど出来はしない。女官長は、数多在る内の臣下の一人でしかないのだから。
陛下の隣にただ一人並び立ち、親しく話すことを許された柔和な笑みを浮かべる寵妃様の幻影が、目の前に立つ陛下のお側近くに浮かび上がった。
女官長として数多くの貴族子女や女官を見てきた中で、あれほど触れれば消えてしまいそうな、儚げで柔らかな微笑みを浮かべる女性は生涯で初めてのことだった。
けれど寵妃様と接していく中で、その笑みとは裏腹にとても芯の強い女性であるということが分かった時、その危うさを危惧した。
いつか寵妃様は、何処か遠くへ行ってしまうのではないかと。
それは女官長という大役を果たして来たからこその、経験から予測された直感の類いだ。
けれどそれが間違いで無かった事が、今まさに現実となって、悪い方向に当たってしまっていた。
これは臣下として失礼に値するかもしれないが、陛下と寵妃様の仲はそう悪い物では無かったと思う。二人の間でしか分からないものもあるかもしれないけれど、少なくとも女官長から見た二人は、仲睦まじく、温かな優しい空気に包まれていた。
叶うことならば、寵妃様には今直ぐにでも帰って来て欲しい。
『少し休みたかったのよ』だとか、『遠出してしまっただけよ』等と言って、ひょっこりと帰って来はしまいか。
そうすれば陛下も、寛大な御心でお許しになるだろう。多少の叱責はあれど、愛する人を手放す事ほど苦しい事は無いのだから。
……いいや、けれど恐らくそれは出来ないだろう。
寵妃様はあらゆる手を打って、ここまで用意周到に用意をした上で、王宮を脱出されたのだから。
けれど、それでもと、思うのだ。
陛下の為にも、寵妃様の為にも、一日も早くこの王宮って来て欲しい。そうでなければきっと、陛下は壊れてしまう。いいや、戻ってしまう。
寵妃様と出会う前の、あの冷酷で残忍な、心を凍らせた剥き出しの刃を無秩序に振るう、優しさも温かさもない、全ての感情が抜け落ちた、あの頃の陛下に―――。
陛下の激情に見え隠れする無感情な冷淡な色が見え、より強くその願いを心に抱いた。
出来得る限り丁寧に素早く跪拝した女官長は、「行け」と顎をしゃくる陛下に深々と頭を下げ、さっと身を翻した。
女官長が向かう先は、既に粗方の捜索が終わった寵妃様のお部屋だ。もしかすると未だ見落としている部分があるかもしれない。そうでなくとも、何かしらの寵妃様の意図を見つけなければ、陛下に何の顔向けも出来ない。
「お前達は捜索範囲を王都の城下町にまで広げ、捜索を続行しろ。後は―――」
陛下が護衛武官に何事かお命じになっておられる声を背に、女官長は足を早めて部屋へと向かった。
最早その声も届かぬ場所へ来ると、女官長は小走りになっていた歩調を緩めて空を見上げ、一人ぽつんと呟いた。
「寵妃様、貴女様は今どちらにおいでなのですか?」
回廊から切り取られた晴れ渡る空を見上げた。この空の下、何処かに寵妃様がいらっしゃる筈だ。
けれど今は、その問いに対する答えなどどこにも浮かんでは居なかった。
*
『マルセル・ヴィ・メイベル様へ
貴方が今この手紙を読んでいる、ということは、私がこの王宮から去ったということですね。私が王宮から去った理由は、貴方には恐らく分からない事でしょう。けれど、それは私自身の身勝手な願いによるもの。
お手を煩わせましたこと、深くお詫び申し上げます。四年間、私を慈しみ、妾妃として愛して下さり、本当にありがとうございました。
貴方が居なければ、私はあの日に死んでいた事でしょう。そのご恩に報いる事が出来ず、このような形で貴方様の元を去ることをどうかお許し下さいませ。
優しい貴方様の事です。もしかすると、私をお探しになられているかもしれません。ですがどうか、自ら王宮を去った私の事は、どうぞ捨て置いて下さい。
貴方様と、メイベル王国が益々の繁栄を迎えることを心からお祈り申し上げます。
山原瑠璃子』
激情のままに手の中にあった文を握りつぶしてしまわないよう、両端に皺が幾本か走るに留めたマルセルは、人払いがなされた室内で、高級な赤色の天鵞絨が背凭れと座面に綺麗に張られた椅子にどかっと些か乱暴に腰掛けた。
ぎぃっと椅子の足がしなり、まるで咎めるように小さく鳴いた。
「捨て置け、などど…よくぞ言えたものだな、ルリコ」
ルリコ…いや、ラピスが王宮から姿を消したと知った時、マルセルは体中の血液が頭からさあっと引いていくような寒気を感じた。まるでそれは、ラピスが最早手の届かぬ場所へ行ってしまったかのように感じられて、居ても立っても居られなかった。
その後直ぐに女官長が現れた時は、最早絶望しか感じては居なかったが、消息不明のラピスがもしや自らの意思でこの王宮から脱したのではという考えに至ってからは、徐々に腹の底から沸き立つマグマのごとき怒りが、激情が込み上げてくるのを感じていた。
これはそう、怒りだ。
勝手に決断し、勝手に出て行って、マルセルにその結果を押し付けてきたラピスに対する怒り。
ラピス、お前はどうして我が手中から逃れようとする? 何が不満だったんだ? 全て、望むものを与えていたというのに。
いいや、これは少しだけ違うな。ラピスは総じて物欲が殆ど無かったため、必要最低限の寵妃として必要なものだけを求めた。衣服から装飾品、本や食事に至るまですべて。
そうしてマルセルの唯一人の寵妃として、安穏とした日々を過ごしていた筈だ。
それが何故、脱走などという結果に行き着く? 何故、そこまで思い詰めるまでに私に相談しなかったんだ?
「私には分からない。お前がその笑顔の下で、何を考えていたのか」
誰にも相談せず、すべてを決めて消えてしまったラピスは、今何処で何をしているというのだろう?
それはマルセルにすら想像出来ない問題だ。
「ラピスにとっては、私はお前の唯一無二の伴侶ではなかったということか?」
他に愛する人間が出来た…という事であれば、その理由を察することもできる。けれどラピスには、親しい人間を傍に置かぬよう、マルセル自身が采配し、監視の目を配っていた為、そのような人間が出来よう筈もないのだ。
第一、ラピスに個人的な思惑で近付こうとしていた人間は、片っ端から潰して回り、その上で危険も顧みず更にその手を伸ばす人間には、ラピスに付けた暗殺集団を動かし、闇に葬り去っている。
下心を持って近づく人間も、善良な民の顔をしてラピスを寵妃の座から引きずり降ろそうとする人間もすべてこの手で排除してきた。
それは一重に、マルセルがラピスに抱く激しい独占欲と執着が故に。
ラピスがマルセルに返してくれた愛情は、マルセルがラピスに向ける愛情よりも少なかったかもしれない。けれどラピスはマルセルに対して、確かな愛情を向けていたと自信を持って言える。
だがそんなことは、今は些末な問題だ。
「今、何処で何をしていようとも、必ず見つけ出し探し出てみせる。ラピスの居場所は、この私の隣にしか無いことを思い知らせてやる」
誰が逃がして等やるものか。
マルセルが生涯唯一人と決めた伴侶をみすみす逃す事など出来よう筈もない。
「この手の中にお前が戻るその瞬間まで、虱潰しに捜索の手を伸ばす。何処へ逃げようと、必ず見つけ出してやる。―――白影、居るな」
「はっ」
音もなく目の前に降りてきた黒づくめの男に、マルセルは命令を下した。
「メイベル王国中を隈なく捜索し、見つけ次第この王宮へ連れ戻せ。どのような手段も厭わん。良いな」
「御意」
深く頭を下げて再び音もなく姿をかき消した白影…マルセル直轄の暗殺集団の長がつい一瞬前に跪いていた床を見つめ、マルセルは立ち上がってその部屋を出た。
向かう先は、王の執務室。すべての秘書官が独自の情報網から集めた情報を収集し、今回の件について報告書を上げているであろう部屋だった。
「待っていろ、ラピス。直ぐにここへ連れ戻してやる」