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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第一章
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 密かに王宮を脱して先ず行ったのが髪染めだった。

 黒髪というものはこの世界であまりにも目立ち過ぎる。かといって黒髪からかけ離れ過ぎた髪色では、染め直しに時間がかかり、根本から新たに生えてくる黒髪を細かく染めなければならず、中々気を抜くことも出来ないだろう。


 その為、諸々の事情を鑑みて選択したカラーは、濃い色合いの紫色に紺色が混じる紫紺色だった。

 青みがかった色が入ると、元々黒髪である人は劇的に色が戻るのではなくゆっくりと抜けていくため、比較的染髪したカラーが落ち難いのだという。

 ただ、目の色だけはどうにもならなかったため、一先ずこのままで行く事となった。


 この世界では、髪を染めるという概念はほぼ無いと言って良い。

 しかしながら一部では、やはり染髪薬を求めている人々が確かに存在しているのだ。

 無論それらを購入するのは主に貴族等の上流階級ばかりだが、販売している個数が圧倒的に少ないこと、また使っている素材がすべて一人一人の肌に合うようオーダーメイドで調整されているため、製作に時間が掛かること。

 そして最後にその薬を製作している薬師が気紛れで、中々繋ぎを取ることが難しいことから、上流階級の間でも幻の品と化しているという。


 幸いな事に私自身はこの薬を売っている薬師と面識があり、草木やハーブ等から丁寧に色素を抽出し、髪に馴染むよう椿油等に混ぜ合わせた染髪用の薬を以前に思い付きで作って貰っていたため、今回事なきを得ることが出来た。


「これがもし手元に無かったのならば、王宮から脱出するだなんて考えもしなかったでしょうね」


 ―――王宮からは随分と遠い王都の外れ。

 その山中で、私はそっと息を吐いた。

 山の夜は冷える。

 持ち合わせの上着をしっかりと着込んで粗末な布を肩から胸まですっぽりと被り、染髪薬が服に付かないよう、細心の注意を払った。

 この手の薬は、皮膚等に付着すると中々落ち難く、一度服に付着すればその衣服は捨てなければならなくなる。その為、贅沢な絹の手袋を何枚にも重ねて薬が直接触れないように整え、髪を櫛で通しながら丁寧に外側だけではなく内側の髪にもしっかりと薬を馴染ませた。

 森の中にあった綺麗な湖の水面を全身を映す鏡代わりにして、一つだけ持ち出した手鏡で見える範囲での色の付き具合をチェックする。

 まだら染めになっていないか戦々恐々としつつ、すべてを終えた頃には、既に日が傾き掛けていた。あまりにも集中していた為か額にはうっすらと汗をかき、薬を塗るために上げていた腕は若干筋肉痛になっている。

 髪を染めるだけでも結構な重労働だ。

 染髪具合に関しては、一晩寝かせればしっかりと色が移っているだろう。けれど髪が染まりきるまでは移動することもままならない。


「ああ、肩が凝るなー」


 腕を軽く回しながら一人ごちる。

 恐らく、まだ私が王宮から脱出した事に気付いた人は居ないだろう。

 気付くとしても明日の朝だろうか。この時の為に、色々と小細工を仕掛けておいたから、その分の時間稼ぎが出来る筈だ。


 ああ、なんだか一段落したらお腹まで空いてきた。

 夜はまだ何も食べてはいないから当然の事かもしれないけれど。

 仕方なく、巾着から取り出した非常食の干し杏をもそもそとかじりつつ、今夜は腹を括って野宿を敢行した。

 そこら辺に散らばっていた細い枝と枯れ葉をかき集め、火打ち石で火を付ける。

 日本にも古い時代、火打ち石が用いられていた。通常、火打石と言って連想するのは石同士をカチカチを鳴らすやり方だろう。けれど実際に火打ち石を用いる際には、平たい金属で出来た鋭利な板を石で勢いよく削ることにより、その石で削り取られた金属の粉末が着火することで火が着く設計となっている。

 私がひっそりと持ち出したものも、そのようなものだった。


 火打ち石を実際に火起こしとして用いる場合には、少々コツがいる。また、実際に火花が出たとしても、蝋燭や線香等、火を移すものがなければ火起こしとしては不十分だ。

 生憎、今はそれらを持ち合わせてはいない。

 ああ、どうして王宮を出る際に、きちんとそれらを持って来なかったのだろう?

 後悔しても後の祭り。今はある物を用いて代用する他ない。

 一度大きく息を吐き、早速火起こしに取り掛かった。


 落ちていた枝や枯れ葉が焚き火になるまであれこれ試行錯誤し、何度も失敗しながら漸く火起こしに成功し、出来上がった焚き火の側に腰を下ろした。火の勢いはさほどでは無いものの、顔に当たる熱が熱く、そこから皮膚がじんわりと体が温くなっていく。

 温かいなあ。本当に、温かい。

 木の幹に凭れて目を瞑ると、程なく睡魔が襲ってきた。その睡魔に身を任せ、暫し夢の中でまどろんだ。





 次に目を開けると、空には満点の星空が見え、明るい満月の光が真上に差し掛かっている。

 恐らく眠っていたのは、三十分から一時間程度だろう。

 変な体勢で眠いっていたからか、全身が痛い。

 体の節々が固く強張っているのを手で軽く解しつつ、足早に向かった先は、髪を染める際に水鏡として用いた湖だった。

 しんと静まり返った湖の周辺に人の気配はない。

 躊躇なくすべての服を脱いで、意を決して冷たい湖の中へと分け入った。手足からじんわりと熱が逃げていくのを感じながら、一度頭から湖の中へ潜り、湖の底に足が着く浅瀬へと移動した。


 月の光を頼りに丁寧に髪をゆすぎ、絹の手布を用いて染髪薬をゆっくりと落としていく。月光があるとはいえ未だ辺りは薄暗い。指先のぬるりとした感覚だけを頼りに丹念に髪をすき、ぬめりが無くなるまで洗い込んでいく。

 濃い色合いの染髪薬が静かに揺らめき、水底へと沈んでいくのを眺めながら、髪を絞って丁寧に布を巻きつけ、汗と埃が付着している体を適当に洗った。ここまでくれば、もう水の冷たさなどすっかり忘れていた。


 体が清められると、固く強張っていた体が緩み、心さえも軽くなっていくようだ。十分に体を洗った後、肌にすっかりと馴染んだ湖を出ると、冷たい風が吹き、一気に体温を奪っていく。

その寒さにぶるりと体を震わせながら、適当に脱ぎ捨てた服を拾い、全身から滴り落ちる水滴を大判の布で素早く拭いていく。

早く服を着込まなければ凍えてしまうかもしれない。

新品の下着を身に付け、上下に衣服が分かれた襦桾を着装し、その上から辛うじて王宮から持ち出す事の出来た分厚い防寒具を着込む。冷たさの残る首筋にはぐるぐるとマフラー代わりに披帛ひはくを巻いた。

 すっかり体温を失っている足にはふかふかの毛皮に包まれた布靴を履いて、冷たい風が吹き込まないよう防寒対策をした後、再び焚き火の側に腰を下ろした。

 夜明けまで後数時間。十分に暖を取って体がぽかぽかと暖かくなると、砂で焚き火を消して眠る準備に入った。

地面に敷いた布の上に横たわり、枕がわりに先ほど回収した服を丸めて頭の下へ置き、今度こそ深い眠りの中へと入っていった。





 私がこの世界――シャナカーン――へ来た時、最初に目にしたのは巨大な大木だった。私の腕を回しても三分の一にも満たない太い幹と、太く長く伸びた大きなその木が、その地域では御神木として崇められていることなど、その時の私には知る由も無かった。

 薄暗闇に包まれた森の中は酷く不安を駆り立てる。恐らくは日が傾きかけているのだろうけれど、高い木々が立ち並ぶ森の中では、地平線に沈む太陽の光など最早届く筈もなかった。かろうじて、遠くの空がうっすらと暗闇に覆われていく様子が見えているだけだ。

 不安を振り払うようにじっとその木を見つめていると、突然近くでガサガサと草をかき分けるような強い音が響き、私はよもや獣が近づいて来るのではないかと、びくびくと体を震わせて身を隠す場所を懸命に探した。

 けれど周りを見渡しても身を安全に隠せる場所などなく、死を覚悟しながらその音が段々と近づいてくるのを待ち続けていると、不意にその音が消え、代わりに草を踏む音とともに聞こえてきたのは、呆れたような、それでいて不思議そうな魅力的な男の声だった。


『そなた、そのような所で何をしている?』


 恥ずかしながら腰が抜けて遂にへたり込んでしまった私の頭上に影が差した。

 人の、声…?

 顔を上げると、腰を折ってこちらを覗き込む野性味溢れる精悍な男の姿がそこにはあった。


『あ……!』


 不意に口を突いたのは、そんな感嘆とも安堵とも取れない呼吸音だった。けれど男はそれを気にした様子もなく、ただじっとこちらを見つめている。煌くような金の髪と、この暗がりでも分かる程美しい榛色の瞳に惹きつけられる。

 獣では、無かったのか。そう安心し、思わずこみ上げてきたのは涙だった。

 男はそれに少し慌てた様子でしゃがみ込み、『おいおい、どうしたんだ?』と些か砕けた物言いで私の頭をぽんぽんと撫でた。その手の大きさと温もりに、男が本当に生きている人間だと知る。

 それに安堵して更に多くの涙が溢れてくるのを感じながら、私は小さく『ありがとうございます』と声に出して言った。


 けれど実際に音となったのは、

『この身をお助け頂き、かたじけのうございます』

 という些か格式張った物言いだった。


 これには口に出した張本人である私も無論驚いていたのだけれど、それよりも更に、仰々しい程に驚いたのは、目の前にしゃがみ込む男の方だった。


『どうかなさいましたか?』


 本当は『どうしたんですか?』と聞きたかった筈なのに、これもまた口に出たのは畏まった物言いだった。

 思わず喉に手を当てていると、男がふと明るい笑い声を出した。


『はははっ。そなた、どこぞの村の姫であったのか? なんともまあ改まった物言いをすることよ。さて、この森の中に何用があって居るのかは知らぬが、今はこの森を出た方が良いだろう。立てるか?』


 男の差し伸べてきたその手を取ろうとして、けれど一瞬迷う。本当に、この手を取って良いのだろうか?

 そんな不安が顔に出ていたのだろう。男は再び笑って、私の腕を取ると、ぐいと力強く引き寄せた。

 その手は強引であるのに、何故だろう。この男の纏う雰囲気は優しく、労わるようなものなのだ。

 だからだろうか。初対面であるにも関わらず、何処か警戒を忘れ、受け入れている自分が居る。


『なんだ、立てぬのか』


 足元の覚束ない私を見て取り、そう断じた男は、私の体をひょいと抱きかかえ、その重さを感じさせない軽い足取りで森を後にした。

 これに慌てたのは私の方だった。


『このような…恐れ多い事でございます。どうぞ私のことは捨て置かれませ』

『そのような形をして何を言う? ほら、もうすぐ森の外へ着く。じっとしていろ』


 男はそう言って私を抱えなおし、さっさと森を抜けて行った。

 遠くに見えるあの大木は、物言わぬ森の木々に紛れ、すぐに見えなくなってしまった。

 ぎゅっと思わず男の服を握りしめると、男は背中を優しくたたいてくれる。それに安心して、私はそっと男の肩に凭れ掛かった。

 未だ混乱の最中にあった私には、男の服装がおかしなものである事も、その場所がいつも見ていた風景とはあまりにも異なっていることを、その時の私は気付いては居なかった。

 これが私とマルセルの始まり。シャナカーンで生きる、私の始まりの日でもあった。





 懐かしい、とても懐かしい夢を見た。


 翌朝、明けの明星が光る藍色と明るい黄色の光が混じるうっすらと青い空、うーんと体を伸ばして解し、体が動く内に一気に荷物を纏めてしまう。

 早くこの場を去った方が良いのだけれど、その前に一つだけ確認しておかなければならないことがある。

寝る間中、髪に巻いていた布を取り、櫛と手鏡を持って湖へと向かう。

 心臓がドキドキ、バクバクと音を立てる。緊張した面持ちのまま、意を決して湖を覗き込むと……。


「綺麗……」


 アメジストよりも尚深い、スギライトのような深みのある紫紺色の髪が緩く波打ち、驚愕に目を見開いた女性の顔が映っている。無論、それは私自身に他ならないけれど、まるで別人に生まれ変わったかのような、そんな現実離れした感覚がする。

 それほどまでに、今までの私では考えられなかった容姿へと変貌していた。


「色が変わると、印象って劇的に変わるものなのね」


 今の私は、何処からどう見ても生粋のメイベル王国人だ。

 これならば、王国から追っ手が放たれたとしても見付けるのは至難の技だろう。

 染髪薬を作ってくれた職人に深く感謝しつつ、全ての荷物を持って焚き火の後処理をした後、足早にその場を後にした。

 これから向かう先は、王都の郊外にある小さな町だ。そこで乗合い馬車に乗って、兎も角一刻も早くこの王都から脱して遠方へ向かう商人に混じり、最終的にはこの広すぎる王国から出なければならない。


 町へ降りるまでには一時間程掛かるだろう。空腹を満たすために、昨晩と同じ干し杏をちびちびと噛みながら、これからの算段を立てて行った。


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