表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第二章
34/35

28

 ―――時は少し遡る。それは東宮が狼藉を働いた直後の事だった。ヒカイは早月の典侍を典医と女房達に預けた後、すぐさま踵を返して帝の元へと急いだ。勿論、それは東宮の処遇について帝の意思を確認するためである。

 些か急ぎ足で向かう途中、何処か呆気に取られたような、それでいて少し動揺した様子の妃殿下の表情がずっと脳裏に浮かんでいた。なよやかな女房達に守られるように座していた妃殿下は、女主人として堂々たる態度をなさっていたように思う。

 東宮の所業に怯えながらも妃殿下を守り切った女房達の姿は勇ましくもあったが、妃殿下自身はあまり驚いては居ない様子だったのが対照的だった。

 メイベル王国ではあの程度の事、日常茶飯事とでも言うのだろうか?

 いや、まさかとその考えを一蹴する。とはいえ、妃殿下が無事であったのは本当に幸いだった。もし妃殿下に例え髪の毛一筋分の傷でもつけようものならば、メイベル王国からどのような要求をされるのか分かったものではない。まあ、今回の一件の経緯を鑑みれば、メイベル王国から何事かを要求されても拒否できぬ程度の理由は与えてしまったのだろうが。


 はあ、と殊更大きなため息が落ちたのは致し方のない事だった。メイベル王国の国王陛下は主上よりも過激な人物だ。主上は静かに燃える炎とすれば、メイベル王国の国王陛下は苛烈に過ぎる炎だった。

 それ故にその豪放さは人を惹き付ける。当然、その振る舞いがどのようなものであれ、皆自然と平伏し、唯々諾々と従わせるかのような、そんな力強い印象を持つ方だった。

 妃殿下は国王陛下の何処を好いておられるのだろうか。人伝に聞いた話では国王陛下には多くの愛人が居たと聞き及んでいるが、妃殿下だけはきちんと妃としての位を与えている以上、国王陛下が妃殿下を特別視していることは明らかだった。

 主上の元へ着くと、主上と東宮が何事かを話している声が聞こえて来る。ここからではよく聞こえないものの、主上の声音は優しく諭すかのような柔らかな響きであった。とはいえ、それらはあくまでも表面上のこと。主上の内に秘めた怒りは直ぐに察する事が出来た。

 それから暫くした後に近衛を伴った東宮が機嫌良く室内を出る頃、一度お伺いを立て、東宮一行と入れ替わるようにしてヒカイは入室した。


「―――草薙か。ああ、そこに座れ」


 疲れた様子で手を振った主上とその前に座す花山院様、式部卿の姿を確認し、一番下座に座して主上の顔色を窺った。


「本当に、あれ(・・)は予想外の事をしてくれる。幸いにもラピス妾妃に怪我が無かったからまだ良いものの、傷物にしたとなれば陽国の評判は地の底に落ちていただろう。…いや、既にあちらには筒抜けやもしれぬな。あの王の事だ。何を要求して来るのか分かったものではない」

「畏れながら主上、やはり東宮様を早めにすげ変えていた方が良かったのやもしれません」

「分かっている、花山院。だがこの一件で漸く大義名分を得た。東宮は出家させ、寺院へ送る。これで東宮派も鳴りを潜めるであろう」


 本当に疲れ切った声でそう声を落とす主上は、目の前に座るヒカイと花山院、式部卿を見渡して一度言葉を区切り、「新たな東宮の事だが」と本題へと話を移した。


「知っての通り、反東宮派は以前から新たな東宮をと声を大にして声高に叫んでいたな。ここに来てその流れに持っていかされた、という点は甚だ不愉快に過ぎるが、これは好機でもある」

「では、主上―――」


 何故か言葉を切った花山院様と静かに視線を動かした式部卿、そして主上の視線がヒカイに集中した。


「ああ、その通りだ花山院。草薙近衛中将ヒカイ。そなたを、新東宮として立太子させる」

「………は、」


 絶句して二の句が継げないヒカイを哀れそうに見遣った花山院が、ヒカイに主上の胸中を語る。それはこれまで密かに―――無論、当人でもあるヒカイにすら悟らせないように―――水面下で東宮となる人物を査定していた結果、ヒカイの他に適任者がいないという結論に至ったのだという。

 当然のことながら、ヒカイは元々主上の手の内に居る人間だ。どのような立ち位置となったとしても主上の命に逆らうような事を考える事は無いし、何も知らぬ者を身内に引き入れるよりも、皇族の血を引き、一応皇位継承権を持ち、高位貴族と特別な癒着などもないヒカイであれば新東宮として据える人間としては適任だ。

 そう主上はお考えになられたのだろう。


「そなたに拒否権は無い。だが、思う所があるならば述べてみよ」


 主上は真摯な眼差しでヒカイを真っ直ぐに見つめて来るが、混乱の只中にあったヒカイは思考を高速に回転させる事が精一杯で、暫く沈黙を保った後に、口火を開いた。


「では、お言葉に甘えて畏れながら申し上げます。主上は先日女御様が入内なされたばかり。即ち私は、主上の御子が生まれるまでの中継ぎ、という意味で宜しいのでしょうか?」

「草薙中将! 言葉が過ぎるぞ!」

「式部卿、よい。そなたには悪いがそういう意味で取って貰って構わぬ。無論、そなたに子が出来れば手を尽くすつもりでいるが、」

「いえ、主上。それには及びません」

「草薙、どうしたのだ?」


 主上の言葉を遮り、ヒカイは深く平伏する。


「私はどなたの姫をも娶るつもりはございません。主上に御子が出来た時、私は直ぐに東宮位をお譲りいたします。畏れながら、それが私が東宮となる条件とさせて下さいませ―――」


 暫く、痛い程の沈黙が落ちた。けれども直ぐに立ち直った主上が「本当にそれでよいのだな?」と言葉を紡ぐ。


「はい。私は生涯子を成すつもりも、妻を娶る事もございません。故に、東宮として立太子した折には、それらを皆さま方にお知らせ下されば幸いでございます」

「妻をも娶らぬとは…その意味、分かっているのか草薙中将?」

「はい、花山院様」


 恐らくは多くの貴族がヒカイに取り入ろうとするだろう。そして数多の姫を差し出そうとするであろうことは明白だった。しかしヒカイには、誰かを妻とするという意識はほんの一欠けらもありはしなかった。

 ―――殆ど初めて恋を抱いた人、好いた人…妃殿下は、シェンリュは既に別の男の配偶者なのだ。

 結局の所ヒカイには、妃殿下以上に焦がれる事も、妃殿下以外の女性に興味を惹かれる事も無いだろうということは、自分自身がよく分かっていた。元々必要以上に女性に接してこなかったヒカイにとって、数多居る女性達は、どんなに見目麗しかろうとも、綺麗な方だとか美しい方だという感嘆以上の感情を抱く事など有りはしない。

 男性として何かが欠落している、というよりは人として何かが欠落しているのだろう。ヒカイにとって最も重要な事は主上の命をきちんと遂行する事と、日々を恙無く過ごしていくこと。これ以上の事は他に無いのだ。それ以外に何を挙げるのかと言えば…やはり妃殿下の事、だろうか。

 どうして妃殿下に惹かれているのかなんて、ヒカイ自身にも分からない事だ。けれども何故か目が離せず、どうしても目線が妃殿下の背を追っている現状、この妃殿下に芽生えた好意を認めずには居られなかった。

 だからといって、妃殿下に何事かを起こそうという気にはならない。

 とはいえ妃殿下が高熱を出していらした時のあれは、ヒカイにとってもある種の偶然(ハプニング)として起こった出来事だときちんと理解している。妃殿下にとってヒカイがただの顔見知りであって、それ以上でもそれ以下でも無いことはよく分かっているつもりだ。


 主上にとってヒカイの言葉は、勿論歓迎するべき事であるのだろう。というよりも、好都合と言うべきだろうか。ヒカイは誰とも縁組をせず、中継ぎの東宮としてするべきことをしていく。そして主上の御子が生まれれば位はお譲りし、新東宮の後ろ盾となれば良い。

 主上とヒカイは、お互いの利害が一致している。だからこそ、ヒカイは新東宮となった後に受けるであろう逆風を払い除ける為の建前を主上の言葉によって確約して貰いたかったのだ。


「相分かった。草薙。そなたがそれでよいと言うのであれば、構わぬ」


 主上が深く頷く様に再び平伏し、ヒカイは静かに立太子に向けた話し合いに耳を傾けていった。





 それからは本当にあっという間だった。慌ただしく立太子礼の準備が進められていく中、ヒカイは新東宮に異を唱えるのではと警戒していた反東宮派であった貴族達が一様にヒカイの立太子を歓迎し、積極的に後押ししてくれた事に驚きを隠せなかった。何を隠そうヒカイは、継承順位の低位に位置していた主上の再従兄弟なのだから。しかしながらこれを利用しない手は無いと、一気に事を進めた主上はやはり剛胆無比なお方だ。

 忙しさにかまけて妃殿下に拝謁する事は叶わなかったけれど、聞き及ぶ限りにおいてはヒカイの立太子礼にも臨席するという妃殿下は日々健やかにお過ごだという。先日はメイベル王国から使者の方が参られ、妃殿下の補佐役として共に立太子礼に臨席されると聞いた時にはどのような方が来られたのかと思っていたら、まさかのまさか。あのメイベル王国の国王陛下の懐刀であるリュウホウ殿が来られたと聞いた時には呆気にとられたものだが、何と言うかそれも仕方の無い事かと納得出来た。というよりも、妃殿下の事であの御方が関わらぬ訳が無かったのだ。

 真新しい袍に袖を通しながら、ヒカイは深く深くため息を吐いた。

 結局、妃殿下と公式的に再び話をする事が許されたのは、立太子礼が行われる前日の事だった。


 ヒカイの側には従者として数人の貴族が侍っているが、元々は主上の手の者で、ヒカイにとっては元々身内とも言える相手だ。特別気負う事無く接するヒカイに、周囲の新東宮へ向ける眼差しは多少緩まったように感じられる。それもこれも、主上が上手く根回しをして下さったお陰なのだが。

 後はやはり、元皇女である母の後ろ盾が大きいというべきか。元々野心など持たぬ両親にはやんわりと次代の東宮は主上の御子であると伝えてはいるが、未だ未婚であるヒカイを心配しながらも特に縁談などを持ち込んでくる事が無いところを見ると、両親も元々ヒカイが妻を娶るつもりがないのだと理解しているのかもしれない。


「―――如何なさいましたか、草薙中将殿?」


 御簾越しに何処か心配そうな面持ちでこちらを伺う妃殿下に、思考を飛ばしていた自分を恥じたヒカイは、「いえ、少し呆けていたようです」と苦笑して謝罪する。妃殿下の背後には、複数の女房達とメイベル王国から共に来たファンリュが座している。けれど、室内にはリュウホウ殿の姿はなく、席を外しているようだった。


「立太子礼の準備などでお忙しい中、お手を取らせてしまい、申し訳ございません」

「いいえ、妃殿下。こちらこそ、立太子礼の後には様々な式典などがあり、ご挨拶もままならぬだろうと思い、こうしてご挨拶に伺った次第なのです。どうぞお気遣いなきよう」

「不思議なものですね。草薙中将が、東宮におなり遊ばすとは」

「ええ。数奇なものです」


 深く頷けば、妃殿下は朗らかに笑う。屈託のないその笑みは、あの旅の中で過ごした僅かな期間でよく目にしていた妃殿下の素の表情だった。


「けれど、草薙中将ならば納得致します」

「…えっ?」

「真摯に仕事をなさっておられる草薙中将であれば、陽国を上から支えていく一翼となられるでしょう」

「そうであれば良いと、思っております」

「ええ」


 和やかに頷く妃殿下の姿に、これまで積み重なって来た疲れが吹き飛んでいくようにヒカイには感じられた。


「妃殿下、一つお願いを申し上げたき事があるのですが―――」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ