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東宮が去り、女房達が動き出すと唐突に後方でばたんと何かが落ちたような大きな音が響いた。何事かと慌てて後ろを振り向けば、誰かのほっそりと華奢な手が床に垂れていた。ぎょっとして目を見開くと、女房達が直ぐ様倒れている女人に駆け寄った。
「早月の典侍!」
「典侍様、典侍様…!」
ああ、倒れたのは典侍だったのか。どうやら心労が重なってしまい、典侍がとうとう倒れ伏してしまったらしい。先程も随分と顔色が悪かったのだから、致し方無い事だろう。
「早月の典侍様…ああ、如何致しましょう。このような事、尚侍様に知られては…!」
「今はそのような事を言っている場合ではないわ。典侍をどうにかしなくてはっ」
女房達の混乱は凄まじかった。おろおろと周囲を動き回る者、典侍の手を握り揺り起こそうとする者など、兎に角皆がみな、この事態に右往左往としていたのだ。まあ、その混乱具合も分からないではないのだ。既に皆ここに至るまで普段以上のストレスを掛けられていたのだから。
「寵妃様、」
「ええ、分かっているわ。皆、典侍の頭を動かしては駄目よ。床に強く頭を打っているかもしれないから。水と手布を用意して。後は誰か典医を呼んで来て頂戴。メイファンは衾を掛けて差し上げて」
「はい!」
「畏まりました、寵妃さま」
ぱたぱたと四方に駆けていく女房達に指示を飛ばしていると、死角になっていた場所からすっと長身の人影が現れ、聞き慣れた声が直ぐ傍で聞こえた。
「―――妃殿下、ここは私が早月典侍を連れて行きましょう」
そう申し出たのは、先程の武官と共にこの殿舎に来ていたらしいヒカイだった。つい先刻まで女房達が壁になっていたから、ヒカイが来ているだなんて全く気付いていなかった。けれどヒカイはしっかりとこちらを視認していたらしい。目を丸くして見ると、柔和な笑みを浮かべたヒカイが私の手が届く場所まで静かに寄って来る。メイファンが警戒するように私とヒカイの間に割り込むけれど、ヒカイの視線が私の目から動く事は無かった。
「草薙中将殿…いらしていたのですか」
「はい。私がお連れした方が早いでしょう」
端的に返答したヒカイは僅かに腰を落として倒れ伏している典侍の側にそっと近付いた。その立ち位置の所為か、自然とヒカイが私を下から見上げるような形となり、何とも不可思議な心地となってしまう。必然的にヒカイを見下ろせば、ヒカイはただ柔らかな笑みを浮かべて私を一心に見つめていた。その視線の奥に宿る熱い炎を幻視して、どうしてか胸が騒いだ。何故、そのような目で私を見ているのだろう? 疑問が頭を擡げる。
けれどもヒカイの後方で倒れ伏している典侍の姿を見ると、気を取り直してヒカイに命じた。
「確かに、仰る通りですね。草薙中将、典医の元まで典侍をお連れして頂けますか?」
「御意。早月典侍は私が責任を持って典医の元までお連れ致します」
「それは有難いこと。では草薙中将と御津、典侍の付き添いをお願い出来るかしら。何事かあった時には直ぐに私に知らせるようにして頂戴ね」
「はい、妃殿下」
典侍をしっかりとその腕に抱き上げたヒカイは、付き添いの女房共々足早に殿舎を去って行った。
*
その夜のことだった。女房達が寝静まった深夜、私は昼間に久内治部少輔に渡された文箱を開き、マルセルの親書をそっと押し開いた。書かれている言葉は労いの言葉が少々と、簡単な挨拶のみ。けれどその最後には、『漸く諸侯を説き伏せ、王妃とする準備が整った』とあった。
元々、この陽国の訪問は、ある意味で諸外国の国主に「ラピス・ヤラ・メイベルという妾妃がメイベル王国国王、マルセル・ヴィ・メイベル唯一の妃」であることを認めさせる狙いがあったのだ。
此度の訪問によって―――勿論、陽国自体は非公式な訪問であると認識していたとしても―――使者と共に諸外国へメイベル王国の妃として訪問した実績はメイベル王国にとっては非常に重要なものだった。
特に、私を妾妃ではなく王妃に押し上げたがっていたマルセルにとってはまたとない好機と言っても良い。
手紙には書いて居なかったけれど、マルセルの「早くメイベル王国に帰って来い」という意思は、書かれた言葉の端々から見て取る事が出来た。懐かしい日本にも似た平穏な温かみのある空気、そしてかつての古き良き日本を思い起こさせる―――郷愁の念を抱かせる陽国には早くも馴染み始めていたのだけれど、やはり私にとっての今の故郷は、メイベル王国なのだと、マルセルの手紙で思い知らされる。
ここは、自分の居るべき場所ではない。王宮から逃げ出した時のような感情は既に無い。メイベル王国の人間として、そしてマルセルの妃としての立場がどれ程重く、そしてかけがえのないものであったのか。それが今漸くここに至って理解出来たのかもしれない。
それは誰かに強制されたものではなく、私自身の意思が、思いがそう伝えているのだ。これは陽国に来なければ感じる筈も無かった筈の事だった。
胸がどうしてかぎゅうっと引き絞られたかのように痛む。
メイベル王国に、帰らなければ。一日も早く。そして、再びマルセルの妃として側に居なければ。
きっともうメイベル王国から出る事は叶わないだろうけれど、それでも尚側に居たいと思わされるのは、あのマルセルだけなのだ。
燭台に火を灯し、螺鈿の文机でマルセルへの返書を書き綴っていく。それが書き終わる頃にはもう随分と夜が深まっていた。けれどそのまま眠ってしまう気にもなれず、そうっと燭台の明かりを消して、廂の間を抜けて簀子へと歩き出た。簀子から見上げた夜空は美しく星々の瞬きが泣きそうな程に綺麗だったけれど、この場で静かに寄り添ってくれるマルセルが居ない事がとてつもなく悲しかった。
マルセルの元から逃げ出した時とは比べ物にならぬ程の寂しさは、きっと同じ国内に居る事と外国という物理的にも心理的にもかなり距離が離れてしまっている事が原因の一つでもあるのかもしれない。
結局私はやはりマルセルの事を愛しているのだろう。今更ながらそう実感させられてしまう。手を伸ばしても届かないというのに、思わず空に伸ばした手は何を掴もうとしていたのか。ふと自嘲気味に笑えば、いつかの時のように庭側からがさりと音が鳴り、月明りの下でヒカイが姿を現した。思わず疑問符を浮かべて、けれどもヒカイがそうっと「シェンリュ」と呼んだ事で一気に記憶がよみがえって来た。
あれは、あれは熱に浮かされた夢や幻ではなく、実際に起こっていた出来事だったのか。
「ヒカイ」
「シェンリュ…いえ、妃殿下。昼間の事、誠に申し訳ございませんでした」
「何故あなたが謝るの、ヒカイ? 東宮様の乱心はあなたの所為では無いでしょうに」
「仰る通りです。けれど私の心が許さぬのです」
「そう…ではその謝罪、受け取っておきましょう。けれどヒカイ、私を気に掛ける必要は無いわ。私はいずれメイベル王国に帰るのだから」
その言葉に相当ショックを受けた様子で、けれども何かを堪えるようにヒカイは言う。
「―――主上の元に、メイベル王国より親書が届いたと承っております」
「ええ。私にも陛下より親書を賜ったわ。だから私はもう近々メイベル王国へと帰る事になるでしょう。恐らく国へ帰れば、ヒカイとももう会う事も叶わないかもしれませんね」
いや、実際そうなるだろうけれど。一国の王妃ともなれば軽々しく諸外国へ出向く事など叶わないだろうから。ヒカイもそれを分かっているからなのか、ぎゅうと拳を握りしめて俯いた。ヒカイが、何か言葉を絞り出そうとして、けれどもそれが音にはならず唇を噛み締める様が何処か痛々しかった。
あの夜のひと時は、多分私にとってもヒカイにとっても夢や幻にするべき事なのだ。お互いが何の立場もなく過ごす事の出来たあの短い時間を思い起こさせるための、懐かしい夢。こういう立場で無かったら、もしかしたらヒカイとは単なる友人関係で居られたのかもしれない。勿論、ヒカイにその気持ちがあるのかは分からないけれど。
けれど、私がもうヒカイに出来る事は何もない。何も出来やしない。ヒカイの視線に、言葉に見え隠れする熱情の意味を幾ら察していようとも、私は自分の進む道というものを既に決めてしまっていたから。
「はい」
「けれどもう暫く時間はあるわ。私が陽国に居るその間は、宜しくね?」
「承知致しました、シェ……いえ、妃殿下」
「ありがとう、草薙中将」
*
その翌日、私は帝から東宮の一件による謝罪を受けていた。この部屋に居るのは最初に謁見した際と同じく、私とメイファン、それに帝側の側近達だけだった。
勿論、先の一件はある意味では事故なのだけど、陽国側としてはこれを見過ごす訳にはいかないという事だろう。当然、この一件は早馬にてメイベル王国にも知らせているらしい。ということは、そう時を置く事無くメイベル王国から迎えが来るのは明らかだった。
話はそれで終わりなのか、と思っていると帝は重々しい口調で「我が異母弟、東宮を出家させました」と言った。
「出家、でございますか?」
「我が異母弟は、元々心の病を患っていた。それ故、ここに至るまで立太子する事無く、けれどもその血筋ゆえに東宮としての地位に就いていた。然し此度の一件でやはりその地位に相応しい者では無いと判断し、仏の道に入らせたのだ。今後一生涯、異母弟は寺より出る事は叶わぬであろう」
「さようでございましたか。しかし、私にそれをお伝えしても宜しかったのですか?」
「此度の一件にはラピス妾妃も深く関わっている。異母弟の処遇、またその行方を知る権利がラピス妾妃にはあるであろうと私が判断した」
成程と頷けば、次いで帝は「これは内輪の話ではあるが、」と続けて畳み掛けた。
「近々正式に、正統な東宮を立てる。この際に、ラピス妾妃には是非とも列席して頂きたい」
「それはおめでとうございます。勿論、出席させて頂きます。その正統なる東宮という方は、一体どなたでいらっしゃるのでしょうか?」
「今現在、近衛中将の任に就いている、草薙ヒカイ。彼の者こそ、次期東宮である」
「……草薙中将が、次期、東宮?」
そこからの話はあまり頭に入って来なかったのだけれど、兎に角こういう事らしい。
ヒカイは元々帝の再従兄弟に当たる人物で、その母は三代前の帝の娘。即ち正統な血を受け継ぐ直系の女子であった方だった。ならば帝の従兄弟だという花山院様やその父母はどうなのかと言えば、花山院様は元々、帝の母方の従兄弟である為、直系の血を受け継いでいるとは言い難く、元々候補から外されていたらしい。現帝の父母は既に隠居し、その弟にあたる直系たる伯父は体調を崩していて東宮候補から外され、またその他の諸般の事情から、東宮として立太子する事の出来る直系の血を受け継ぐ男子は今の所ヒカイしか居ない、というのが帝の言葉だった。
どうしてそんな話を詳しく私に伝え聞かせるのかなんて考える暇も無い。
突然の事に動揺を抑えるのが精いっぱいで何も考える事が出来ず、結局詳しい話を聞いたのは部屋に帰って、あの場で側にいて話を聞いて居たメイファンからだった。
*
「これで反東宮派の悲願は達成されましたね」
「そうだな、水影。しかし、呆気ないものだったな。いや、あの東宮が上手く動いてくれていたお陰と言うべきか」
「はい」
「しかし帝も思い切った事を成さる。元々ある程度の枠組みは決めていたのだろうが、それにしても打つ手が早かったな」
「“黒髪の乙女”のお話が都中に流布する前に、手を打っておきたかったのでしょう。メイベル王国に借りを作るのは避けたかった、という事やもしれません」
「だが結局の所陛下の方が一枚上手だった訳だな。ヒオウギの種子をわざわざ親書に紛れ込ませるとは。いや、お互いに利害が一致したという訳か。黒髪の乙女の祝福を受けさせて新東宮を立太子させたかった陽国と、その式典に列席させる事でメイベル王国の妃は妃殿下をおいて他には無いと内外に示したかった陛下の思惑が」
久内治部少輔と呼ばれる青年は、静かに杯を傾けた。既に賽はふられてしまった。後はもう、成るようになるまでだった。




