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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第二章
32/35

26

 ―――のだけれど、事はそれで終わらなかった。というのも、事前に話が来ていなかった東宮が、久内治部少輔が去った直後に突如として宣耀殿へと乗り込んで来たのだ。


「東宮様が、こちらにおいでなのですか?」

「はい、そのようでございます。ただいま仔細を確認してまいりますので、妃殿下はどうぞこちらでお待ち下さいませ」

「あい分かりました。仔細を確認次第、私に知らせて下さい。メイファン」


 心得たとばかりに頷くメイファンが上げられていた御簾を音もなく素早く下ろしていく。ついでとばかりに隅に置いていた幾つかの几帳を移動させ、廂の間から室内を覆い隠すように陰を作っていく。上手い具合に隠れる場所が出来た。


「東宮様はまだ殿舎の入り口に居られるご様子。寵妃様、もう少し奥へ参りましょう」

「ええ、そうね。メイファン」

「ご不便をお掛けして申し訳ございません、妃殿下」

「構わないわ、早月(さつき)典侍(ないしのすけ)。突然の事ですもの。どのようなご用事かは分からないけれど、気を揉む必要は無いでしょう」


 濃緑色の髪と目を持つほっそりとした典侍がメイファンと私に続いて室内の奥へと身を潜めた。

 先日の歓迎の宴にも体調不良で姿を見せていなかった東宮。私はまだその姿を見た事が無いけれど、此度の電撃訪問には、宣耀殿に詰めている女房達も大層驚いてるようだった。という事は、やはりこれは公式の訪問などではなく、あくまでも東宮の私的な訪問であるという事だろうか。それにしても一度はこちらに話を通しておく事が筋であるというのに、非礼に過ぎるのではないだろうか。

 早月典侍を見れば、薄暗い室内でも尚顔色を悪くして、大層慌てた様子で母屋を飛び出していった女房達の様子を恐る恐る伺っている。先に飛び出していった女房達は、その多くが円熟とした女性達で、宮中での出仕も長く勤められている年長者達(ベテラン)だ。対して早月の典侍はまだ出仕して日も浅く、こういう非常事態には慣れていない様子だった。


 大丈夫ですよ、と声を掛けられれば良いのだろうけれど、それは私の領分では無いから成り行きをただじっと見守る他無い。

 女房達はよく東宮を押し留めている。

 けれども性別の違いから力の弱い女房達がその行動を止められる筈もなく、結果的にずんずんと奥へと大股で進む東宮の背後で必死に声を掛ける様が遠くの御簾越しに伺えた。


「―――私が自ら会いに来たのだ。これが会わずにいられようか? 妃殿下はどちらにおいでなのだ。早う案内せよ。いやいや、その必要は無いな。妃殿下、妃殿下はどちらにおいでか! 妃殿下!」


 決して涼やかでない大きなダミ声は、如何にも横柄でじわりと不快感が沸き起こってくる。まるで簀子(すのこ)を蹴りあげるかのように、どすどすという音を立てた歩き方も、品が無く優雅さとは程遠い所作だった。

 それに付随するかのように飛び込んでくるのは、たおやかな女房達の必死な声だ。姿は見えずとの、その様はありありと想像できる。


「東宮様、お待ち下さいませ。どうか今暫くお待ちを」

「妃殿下は暫し休息をお取りでございます。どうか、どうか日を改めて下さいませ」

「何を言う。私が来たのだから些細な疲れなど吹き飛ぶであろう。何せ私自ら見舞いに来るなど、滅多に無い事なのだからな」

「東宮様の寛大なるお心には常々恐縮させられます。しかし、妃殿下は我が国の同盟国たるメイベル王国の妾妃様なのですよ? 一度出直され、また明日妃殿下のお加減を伺い、再び殿舎へと参られたら宜しいではありませんか」

「お前は本当に小煩い乳母よの。なに、私の顔を見れば妃殿下も大いに喜ばれよう!さあ、妃殿下はどちらにおいでか。妃殿下、妃殿下!」


 余りにも自己中心的な物言いといい、不遜な態度―――声を聞けば嫌でも想像できてしまう―――といい、不愉快極まりない。

 ダミ声はどんどんこちらへと近付いている。側に控えたメイファンははっきりと眉を寄せたまま、外に居るであろう東宮の様子を伺っている。ここに護衛武官の一人でもいればまだ話は違ったのかもしれないけれど、宣耀殿は陽国の後宮にある殿舎の一つ。故に、単なる護衛武官達が易々と足を踏み入れる事など許されてはいない。だからこそ、女房達は苦慮しつつ東宮を押しとどめようと奮闘しているのだ。

 メイファンの隣に立つ、尚侍に代わって宣耀殿の女房達を統率していた早月典侍が青ざめた表情で外を伺っている。その儚げな姿は何とも哀れだった。


「もう、これは私が出ていくしかなさそうね」

「寵妃様が動かれずともよろしいかと。あちらの動きはこちらに筒抜けですから」

「逆に言えば、こちらの動きも相手に知られる可能性は高くなっているわね」

「仰る通りでございます。されど私達が動かずとも、時期に別の殿舎の女房達もお出でになられるのでは? その方達を待ってからでも遅くは無いかと」

「それも一理あるわね。けれどこのままでは東宮様もお帰りにはならないでしょう。ねえ、早月(さつき)典侍(ないしのすけ)?」


 すっかりと蚊帳の外になっていた典侍に水を向ければ、今にも卒倒しそうな程に顔を青くした典侍がぎくしゃくとした動きでこちらを向き、「本当に申し訳ございません」と板張りの床に額を擦り付ける程に深く頭を下げて平伏した。その背が小刻みに震えている所を見ると、やはり典侍も同じ意見らしい。メイファンは些か不満げに鋭く典侍を見つめているが、ここは堪えて貰うしかないだろう。


「頭を上げて頂戴、早月典侍。メイファン、少し衣装を整えてくれる? このなりで出ていくのは流石に恥ずかしいわ」


 先程、女房達に頼んで重く引きずっていた裳を外し、唐衣(からぎぬ)も脱いだ私は少しばかり軽装になっている。五衣唐衣裳いつつぎぬからぎぬごろもの略装でもある小袿(こうちき)を着る前に女房達が外へ出てしまっていたから、如何にも締まらない格好になっているのだ。

 時間も、そして衣装も手元にあるものだけだ。さっさと着替えてしまわなければ、東宮がいずれこちらに乗り込んでくる事になるだろう。


「メイファン様、ここは私が」


 さっと動いた典侍が手早く小袿を羽織らせてくれている間にも、女房達と東宮の声はどんどん近付いている。衣擦れの音と廂の間を仕切る御簾が乱暴に上げられたかのようなバサバサという大きな音からして、東宮がいよいよ庇の間に入ってきた事は明白だった。御帳台(みちょうだい)の後ろに屏風を立て、幾つかの几帳で隠した後ろ部分に隠れているのだから、こちらの位置を早々に知られる事は無いと言っても、やはり少々焦りが出てしまう。


「ありがとう、早月典侍。東宮様にそちらの間でお待ち頂けるように伝えて下さいますか?」

「勿論でございます。暫しお待ち下さいませ」


 素早く屏風から飛び出した典侍が足早に東宮の元へと向かって行く。少しだけふらついたその背を視線で追っていると、メイファンが硬質な声でそっと吐息を漏らす。


「本当に東宮様にお会いになられるのですか?」

「仕方のない事だわ。私はお断り出来る立場に居ないのですもの」

「しかしそれでも、お会いになられる必要は無いと愚考致します」

「そうでしょうね。あなたの言う事はごもっともだわ。けれども、建前だけで済まされる相手ではないようだから、ね」


 典侍は本当に素早い動きで無遠慮に歩き回る東宮を捕まえ、「妃殿下がお会いになられます」と東宮を対面する昼御座へと誘った。ここで簡単に付いてくるのだろうかと危ぶんだものだけれど、結果的に東宮はすぐさまその背に続いた。


「ほう、妃殿下がお会いになると! それは良かった。こちらに座れば良いのだな? うむ、ああ皆まで言わずとも良い。分かっているとも。さあ妃殿下を呼んで参れ」

「畏まりました」


 他の女房達が廂の間の御簾を上げ、室内に戻って来る。皆、如何にも疲れた様子で、けれども手早く対面の準備を整えてくれた。メイファンは、何事かが起きないようにと隣に座してくれている。本来は後方に控えて然るべきなのだろうけれど、今回は特例として許しているのだ。まあ実際には、メイファンが頑としてそこを動かなかった事が理由の一つでもあるのだけれど。

 檜扇で口元を隠しながら私がしとねに座すと、東宮は僅かに伏せていた顔を不意に上にあげ、「おお!」と殊更大きな声を上げた。


「あなた様が妃殿下でいらっしゃいますか!」

「はい、お初にお目にかかります。東宮様。ラピス・ヤラ・メイベルと申します」

「ほう、これは何とも涼やかなお声ですな」


 何故か名乗る事はせず、東宮は御簾越しに腕を組んでうんうんと一人頷いた。東宮の後ろに控えた乳母たる年嵩の女房が慌てた様子で東宮に耳打ちする。それもまた大仰な仕草と声で、「うん」だとか、「ああ、そうさな!」と相槌を打っているのが何とも不可思議だった。

 こうして対面してみてわかるのが、東宮という立場と女房達から聞いて居た年齢、そして目の前に座る実際の東宮を照らし合わせてみると、何ともちぐはぐな印象を受ける。確か東宮は現帝の異母弟で、年齢は帝の四つ年下の、現在二十五歳。容姿は凡庸で、落ち着きが無いのか小刻みに体を動かしている様子がまるで小さな幼子のようだ。ぱっと見た感じでは不潔感は無いものの、着崩れた衣が見た目以上にだらしない印象を与えている。

 無礼を承知で言えば、年齢以上の幼さを有した図体だけが大きい男。体格は立派だし、喋り方もまあ普通だけれど、話が通じないという時点でまるで宇宙人とでも相対しているかのような不気味さが沸き起こって来る。


 これは、些か早まったかもしれない。そう後悔した瞬間、突如として東宮がいきなり廂の間とこちらを隔てる御簾を力任せにぐいと押し上げた。当然、御簾によって隠されていた顔が露わになり、女房達が絹を引き裂くような悲鳴を上げる。思わぬ行動に呆然として東宮を見上げれば、隣に座っていたメイファンが私の肩を抱き、幅広の袖で私の顔を隠した。

 その場が騒然とする中、東宮だけが、何故かあどけない無邪気とも取れる笑みを浮かべる。

 一体、これはどういうことなのか。女房達が慌てて東宮に駆け寄り、私に背を向けて隠してはくれたものの、先程の笑みは薄れることなく私の脳裏に焼き付いている。後方では、東宮の乳母が今にも卒倒しそうな様子で東宮の袖を掴み、必死で東宮を諫めているが、東宮はどこ吹く風で、壁となった女房達に「妃殿下の顔が見えぬではないか」と文句を言っている。

 この事態、どう収拾させるべきか。私自身も混乱する中でその算段を付けていると、複数人の足音が遠くから聞こえ、幾人かの武官が雪崩れ込んできた。


「左近中将様…!」


 女房達が小さく歓声を上げる。女房達の背とメイファンの袖で武官達の姿は見えないけれど、恐らく此度の暴挙を聞き及んだ武官達が正式な手順を踏み、宣耀殿へと乗り込んできたらしい。あからさまにほっとした様子の女房達の声から察するに、こういう事態には慣れた武官達なのだろう。それまで喜色を浮かべていたと思しき―――顔が見えないのだから雰囲気から察するしかないのだけれど―――東宮が僅かに身動ぎし、狼狽えたように唸り声を上げる。

 まるで威嚇しているかのような声は見苦しく、壁となった女房達が怯えたように肩を震わせた。


「東宮様、どうぞ殿舎にお戻り下さい。皆、東宮様のお帰りをお待ちしております。さあ、私共と共に参りましょう」

「嫌じゃ。何故私が行かねばならぬ。帰るというのであれば、そなたらだけで帰るが良い。ああ、何ならそこな乳母を連れて帰っても良いぞ。榊、さあ中将共と殿舎に帰っておれ。早う」

「東宮様。それはなりませぬ。あなた様も共に参らねば、主上よりお叱りを受けてしまいます。主上も一度殿舎にお戻りになり、清涼殿へと足をお運び頂くよう、固くお命じになられました故に」

「なんと! 嵯峨野宮兄上が私をお呼びとは! それを早く言わぬか。仕方の無い。帰るぞ、榊。皆の者共も付いて参れ。さあ、早う!」


 何故かころりと楽し気な声に変わった東宮は、先程の暴挙などまるで始めから無かったかのように、いそいそとした様子で―――あくまでも声と足音から察するに―――廂の間から出て行った。もうこちらの事など気にする様子はなく、東宮はまるで捕虜の如く武官に囲まれる形で宣耀殿を後にした。



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