25
―――何か、夢を見ていたような気がする。
普段の様子からは考えられない程の何か突拍子もなくて、けれど愛しくも切ない夢。
あたかもそれが実際に現実で繰り広げられたかのようなリアリティーを伴っていたもの―――であったはずなのに、朧気にしか思い出せない光景は、既に夢の残り香さえも失いつつある。
ああ、夢が消えていってしまう。もはや幾ら手を伸ばしても掴めない夢の記憶に胸が締め付けられる。けれどそんな感情すらも靄が掛かったかのように消えていってしまうのだ。
ふわりと意識が浮上する直前、まるで直ぐ側にマルセルが居るかのような、そんな錯覚を覚えてつい、いつもの様に声を上げた。
「マルセル…?」
掠れたような声音だったと思う。けれどもそれに対する返答は無く、少し離れた場所から、「あら」だとか「まあ」等という感嘆符付きの涼やかな声が聞こえてくる。
くすくすと笑うその声に嘲笑の色は無く、ただただ柔らかく温かな声だった。
「お熱うございますね」
「何とも可愛らしい」
などという声も聞こえてきて、思わず疑問符を浮かべながら重い瞼を押し開ければ、見慣れた朱塗り天井―――ではなく、緻密な花模様が描かれた見慣れぬ天井が目に飛び込んでくる。直ぐにぐるりと視線を横に向ければ、少し離れた所で今しがたお膳を持ってきたかのように、湯気の立つ盃と瓶子が並べられたお膳を手に、身を屈めて御簾をくぐるメイファンの姿が見えた。どうしてかその姿がいつもよりも色鮮やかに見える。
御簾越しに見える庭は明るく、日が昇って久しい事を示していた。
一度だけ、メイファンと視線が絡み合う。その穏やかな眼差しが温かい。
「お目覚めでございますか、妃殿下」
「……樋宮の尚侍、メイファン」
―――ああ、そうか。そうだった。
ここは私が今現在逗留している陽国の宮中、その中にある殿舎の一つ、宣耀殿であったのだった。徐々に覚醒していく意識は急速に現実を正常に認識していく。
こちらを覗き込むように膝を着いた尚侍の藍色の髪がさらりと肩から溢れ落ち、細く影を作った。ふわりと鼻腔を擽るのは、尚侍の衣装に焚き染められた柔らかな香の香りだ。華やかで芳しい、優しい香り。
はらりと落ちて来る前髪を横に流し、額に手を当てる。昨日まで出ていた熱は、まだ僅かな気怠さをもたらしているものの、昨日に比べれば何という事もない微熱だった。あれほど痛かった節々の痛みも、もうすっかりと引いている。
「おはようございます、妃殿下。お加減は如何でございますか?」
「おはようございます、尚侍。お陰様で体の方はもう随分と楽になりました。少し…寝惚けて居た様です。お恥ずかしい事でございます」
「まあ、とんでもございません。妃殿下」
にこりと微笑む樋宮の尚侍は、メイファンと何事か示し合わせたように他の女房達が控えている後方へと下がっていく。流れるような優雅な所作に思わず目を奪われる。流石は帝の側近くに侍る事を許された尚侍だと、そう感心させられるような所作だった。
メイファンは素早くお膳を小机に置くと、私の側に近寄り、尚侍と入れ替わるように私の左脇に腰を下ろした。赤みの強いピンク色の髪はいつも通りきっちりと結い上げられている。長い髪を背に流した女房達の中で、項を晒すメイファンの髪型は何処か異国情緒を漂わせていた。
普段は見慣れたメイベル王国の衣装も、こうして見ると随分と簡素なものである事が分かる。不意に、メイファンが口を開いた。
「寵妃様、おはようございます。ご起床なさいますか?」
「おはよう、メイファン。ええ、起きます」
「畏まりました。御身、失礼致します」
メイファンに手を借りて体を起こしたタイミングで、先程軽やかな笑い声を上げていた女房達が部屋の隅に置かれていた漆塗りの大きな角盥を持ってくる。金の蒔絵が施されたそれは大層美しく、縁の中程まで澄んだ水がたっぷりと張られていた。
冷たい水で手と顔を洗い、汗ばんだ首筋を白布で軽く拭う。それだけでも何とも言えぬ清涼感に満ちていく。出来ればお風呂に入りたい。たっぷりと湯の張った温かなお風呂に。然し、そのような我が儘を口にする訳にはいかないから、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるメイファンと女房達に感謝の言葉を述べるに留めた。
メイファンが差し出してくれた白湯を飲みほっと一息付けば、直ぐ様メイファンが衣装を片手に問い掛けてくる。
「本日のお召し物は如何なさいますか?」
「そうね……任せるわ」
「畏まりました」
「―――妃殿下、少しばかり口を挟んでも宜しゅうございますか?」
「ええ、勿論。尚侍。何かございましたか?」
逡巡するように口を挟んできた尚侍を見れば、後方に控えた女房共々深く頭を下げる。
「よろしければ我が国伝統の衣装を召されては如何でしょうか? 少しなりとも我が国の事を知って頂きたく存じます。主上からも、妃殿下の御為にと新調致しました衣装を用意してございます」
「五衣唐衣裳を、ですか?」
「はい、是非に」
正直、着せて下さるというのであれば、着てみたい。恐らくこの機会を逃したら、五衣唐衣裳など生涯着ることなどないだろうから。けれど、メイファンが何と言うだろうか。
丁寧に衣装を畳み唐櫃の中に仕舞うメイファンに視線を送れば、どちらでも構わないというような素振りで私を見つめ返してくる。ありがとうという意思を込めて視線を返す。穏やかに凪いだメイファンの瞳が、私と尚侍の間を行き来した。
「それでは、お願い致しますわ」
*
尚侍以下女房達に着付けて貰った五衣唐衣裳は、思いの外私の体にぴったりと合っていた。いや、何と言うべきなのだろう。馴染んでいる、と言うべきなのだろうか。袖口を手で触りながら、先程までメイファンが出してくれていた鏡を覗き込む。髪の長さが若干足りない為に、まるで裳着を済ませたばかりの女童のような形になっているのだけれど、そのような事も気にならない程に胸が躍った。
女房達が口々に「お似合いです」と褒めそやしてくれる事が嬉しくもあり、有難くもある。見目麗しい女房達と並び立つと、やはり見劣りしてしまうのは仕方の無い事だった。
この陽国の宮中には、陽国でも随一の家柄を誇る、才色兼備の女性達が集っているのだから。
「妃殿下、如何でございますか?」
「とても綺麗ね。我が国の衣装とは違う、より重厚感があるわね」
「然様でございましたか。もしお加減が悪くなりましたら、直ぐにお召し変え致しますので、どうぞご遠慮なくお申し付け下さいませ」
「ええ、ありがとう。尚侍」
「本当にお似合いでございますよ、寵妃様」
「ありがとう、メイファン」
そうは言ったものの然し、やはり色々な衣装を重ねている為かずっしりと重い。着慣れない衣装だから、というのも理由の一つではあるのだろうけれど。明日は筋肉痛で起き上がれないかもしれないな、と苦笑気味に思う。
それにしても、私が体調を崩している間、多くの貴族方が何くれとなく贈り物を下さっていたらしく―――勿論、ご機嫌伺いという意味でだ―――漸く体調が回復した今日は、朝から途切れる事無く御目通りをしたいという貴族が続々と押し寄せている。
「妃殿下に於かれましては、此度の御訪問―――」
尚侍やメイファンは、私の体調次第で打ち切って貰って構わないと言われているのだけれど、わざわざお越し下さった方々に無駄足を踏ませる訳にもいかず、ぼんやりと口上を述べる貴族方の相槌を打った。
貴族とはいえ、殆どが高級官僚の方々だ。その殆どは後宮に足を踏み入る事を許された極ひと握りの貴族である。今回の面会は、特例に特例を重ねて行われているのだ。何せ本来は後宮に足を踏み入れる事を許された者など、男性であれば帝や入内した哉子様の親族。それ以外は限られた者達だけなのだから。
檜扇で口元を隠しながら、顔と名前を脳裏に刻み込んでいく。
「ええ、多大なるお気遣いを頂き、誠にありがとうございます。大納言殿」
親し気な笑みに隠された様々な思惑は、けれども私にとって然程の意味も成さず通り過ぎていく。私はあくまでも帝によって私的に訪問した他国の妾妃なのだ。私の言葉が、イコール国の言葉や意思などでは無いと、そう言い逃れる事が出来る立位置に私は居る。勿論、失言をするつもりは無いのだけど、そういう意味ではメイベル王国に居る時よりも多少気が緩められる。
貴族の訪問が漸く途切れた頃、樋宮の尚侍が帝の命を受けた女房に呼ばれ、帝のお側へと向かう事となった。元々、樋宮の尚侍は帝の尚侍なのだ。私がこの宮中に居る間だけ、尚侍を借り受けている形となっている。
故に、帝のお召しとあれば是非も無い。
「そう、それならば致し方無いわね」
「本当に申し訳ございません。また後程、こちらへ参ります故、どうぞご容赦下さりませ」
「ええ、勿論。では後ほど」
尚侍は恐縮した様子で私に幾度も頭を下げて昼御座へと向かって行った。
それから幾人かの女房達と、もうそろそろ今日の面会は打ち切りにしよううかと話していた頃、その方は突如としてやって来た。
「お初にお目に掛かります。久内治部少輔光景と申します。此度は遠路遙々我が国にお越し下さり、厚く御礼申し上げます」
「歓迎、痛み入ります。治部少輔殿」
柔らかな紅茶色の髪に紅茶色の目を持つ、優男の如き風貌をしたその青年は、緩やかな笑みと共に私を見つめ返してくる。
治部省という役所は、主に国内の戸籍管理や外国の使節を接待する役割を持った部署である。御簾越しに穏やかな美声で言葉を紡ぐ久内治部少輔は、元々此度の訪問に際し、私を接待する役目を賜っていたらしい。けれども歓迎の宴、私の体調不良などで正式な挨拶が遅れて申し訳ない、というのが今回面会という場を設けた主旨らしい。
確かによくよく思い出してみると、私が陽国に入国して直ぐにヒカイや花山院様と共にご挨拶頂いた官吏の中に、久内治部少輔の姿があったような気がする。確かあの時には、治部卿以外の官吏は皆顔を伏せていたから、ぼんやりとしか覚えていないのだけれど。
囁くような小声でメイファンに確認を取れば、やはりあの場に居た官吏の一人らしい。それにしては、他の官人と少しばかり雰囲気が違う気がするのだけれど。勿論、これまで面会した貴族方よりも官位が低い事も理由の一つではあるのだろう。治部少輔とは、殿上人の中でも比較的低い地位にある職掌なのだから。
けれどどうしてなのだろう。視線の動き方や、細やかな所作が官人というよりは、ゆったりと屋敷の奥に座し、部下を動かしていく領主、或いは数多の部下を従え諸国を任された国司のようにも思える。
とはいえ、それはあくまでも私個人の第一印象なのだから、実際には他の官吏と同じくいち官人に過ぎないのだろうけれど。
―――それから、軽い世間話に花を咲かせている時、不意に室内に居た女房達が動いた。何事があったのか、他の殿舎から使いとしてやってきた女房達に呼ばれて皆出払ってしまったのだ。恐らくは、和やかに話をする私達に安心していたのだろう。意図せず、この場に残ったのは私とメイファン、そして目の前に座る治部少輔のみとなった。
その瞬間、何故だか御簾越しに見える久内治部少輔の眼差しが奇妙な光を帯びた。
それはほんの僅かな時間、瞬きする間の一瞬の変化だった。その変化に疑問を覚える前に、久内治部少輔がさも今思い出したと言わんばかりに、隣に置いていた文箱を前に出した。
「妃殿下、メイベル王国より国王陛下の親書が届いております。どうぞ、お納め下さいませ」
「ありがとうございます、治部少輔殿」
すっと立ち上がったメイファンが僅かに御簾を上げて久内治部少輔から文箱を受け取った。漆塗りの文箱には、その身元を明らかとするためか、メイベル王国の紋章が大きく描かれている。
「確かにお受け取り致しました」
直ぐには文箱を開けず、メイファンを流し見れば、すっと久内治部少輔に視線を向け、「陛下はお変わりないのですか」と言った。
その瞬間、全てが繋がった。ああ、この方は陽国の官人などでは無く、マルセルの命を受けて陽国の宮中に潜り込んだメイベル王国の官吏であるのだと。成る程、道理で雰囲気が他の官人と違う筈だ。メイファンが文箱を奥に仕舞いこんでいる間、私は御簾越しに見える久内治部少輔をじっと見つめ返した。
「ええ、お変わりなく。寵妃様にもお変わりないご様子との事、先日ご報告申し上げた所でございます」
「成る程、あい分かりました。こちらの文箱はいつお返しすれば良いのですか?」
「明日の明朝、お伺いする事と致しましょう。その時分に、お返し下さりませ。返書がございましたら、その時にお預かり致します」
「そう。ではまた明日、お待ちしておりますわ」
密やかにそう会話をしていると、出払っていた女房達がタイミングよく戻って来た。こうもタイミングが良いのは、恐らく偶然などでは無いのだろう。
「それでは御前、失礼致します」
「ええ。久内治部少輔」
すっと立ち上がり颯爽と去っていく久内治部少輔を見送って、少しばかり疲れてしまったからと、早々に奥へと戻って行った。




