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寵妃の憂鬱  作者: 一条さくら
第二章
30/35

24

 結局、翌朝に熱を出してしまった私は哉子様に風邪を移さぬ為に一時的に宣耀殿(せんようでん)へと居を移した。宣耀殿は麗景殿の隣にある殿舎であり、麗景殿とは切馬道で繋がっている。

 元々、「長く逗留するのであればそちらに居を移って頂くつもりだったのだ」と樋宮(ひのみや)の尚侍は言っていたものの、寂しさを滲ませて私を見送ってくれた哉子様を思うと、風邪を引いている所為もあってかどうにも気が塞いでしまう。絆されて居るな、とは思うもののそれが正直な自分の思いなのだから仕方が無い。

 とはいえ、これ以上気を許すのは流石に不味いという自覚はあるのだ。

 宣耀殿が麗景殿の隣の殿舎であるとは言ってもお互いに立場がある身なのだから、頻繁に出入りする事は憚られる。あちらの女房達もあまり良い気はしないだろう。勿論、女房達は哉子様が無理を承知でお願いをすれば直ぐにそれを叶えてしまうのだろうけれど。

 熱を出してしまった頭は悲しみをより増大させるかのように、ひたひたと心を分厚い曇り空へと覆っていく。


「寵妃様、お加減は如何でございますか?」

「メイファン。少し、頭がぼうっとしているわね。それに少し背中が痛いわ」

「熱が上がっているのやもしれませんね。白湯をお持ちしました。召し上がられますか?」

「ええ。ありがとう」


 メイファンの手を借りて体を起こし、慎重に白湯を飲む。喉を通る温かな白湯が体の痛みを少しの間だけ和らげてくれる。メイファンはどのような状況であっても全く態度を変えたりはしない。それが何処かほっとするのは、メイファンが揺るぎのない大樹のような存在だからだろうか。それは決して頑なではなく、あくまでも自然体である事がメイファンの強みでもあるのかもしれない。


「もう少しお眠り下さいませ。後程、果物などお持ち致します」

「ありがとう、メイファン」


 再び体を横たえて赤い布で作られたふすまを掛けて貰い、メイファンが下がっていくのを見送ってそのまま睡魔に導かれるように眠りに就いた。

 次に起きたのは深夜に差し掛かる時刻。左右に几帳を立てた室内は薄暗く、御簾越しに見る廂の間には簀子との間を閉じるようにしとみが降ろされている。けれども外に出られない訳ではない。ふすまを押しのけて側に畳まれていた単を肩に掛け、ふらふらと覚束ない足取りで妻戸を空けて寝所を出、簀子に座り込み欄干に凭れ掛かった。

 季節は暦上、初夏に差し掛かっている。字面だけ見れば少々暑さを感じられるけれど、まだ夜は少しばかり冷える。寒さを感じないと言えば嘘になるだろうけれど、今はそれが何処か心地よい。涼やかな風が火照った頬を撫で、汗をかいた髪が肩から零れ落ちて来る。

 ふうっと息を吐けば、熱を帯びた吐息は風に吹かれて静かに消えていく。寝所を振り返るけれど、誰も動く気配が感じられないという事は、メイファンも、そして寝所に詰めてくれている女房も私が起きた事に気付いてはいないのだろう。

 一人で静かに過ごしたいと感じていた私にとっては丁度良いものだ。


 数分、そこでただ静かに過ごしていると、不意に外に植えられた低い植木がカサカサと音を立てた。風で葉が擦れた音にしては些か大きすぎる音だ。よもや侵入者だろうかと、ぼうっとする頭で外を眺めれば、不意に黒い影が姿を現した。

 僅かに息を呑んだのも束の間、月の明かりに照らされたその影が後宮の警護に当たっている武官の装束と悟って思わず詰めていた息を吐く。けれども何故手燭も持たずに警護に当たっているのかと疑問が生じた瞬間、武官が僅かに躊躇するかのようにこちらに近付いてきた事でその考えは直ぐに霧散する。

 月の明かりを背にしている所為で顔立ちははっきりとしないけれど、さくさくと近づいて来る様子からは何処か緊張した空気が感じられる。

 緊張…緊張?

 体を凭れ掛けていた欄干から身を引き半歩後ずさると、武官は欄干から僅かに三歩程離れた場所で立ち止まった。その距離は一メートル程だろうか。


「―――妃殿下」

「…近衛中将殿?」


 聞き慣れたその声に思わず返答すれば、「はい」という端的な答えが返って来る。どうしてか体が震えた。思わず口を突いて出そうになった言葉を慌てて飲み込めば、ヒカイは静かに私に問いかけてくる。


「お加減は如何でございますか?」

「まだ少し体が重いのですけれど、今朝方よりはとても楽になっております」

「左様でございますか」

「はい。ヒ―――いえ、近衛中将殿は見回りでございますか?」

「ええ。宮中を警護するのも私の役目でございます故」

「そうでしたか。ご苦労様です」


 じいっとヒカイを見つめれば、ヒカイが三歩という距離を詰めてくる。その手が伸ばされたかと思うと私の髪を微かに撫でるように触れ、ずり落ち掛かっていたのだろう、肩に掛けていた単を丁寧な仕草で私の肩から胸元を覆うように掛け直してくれる。まるで繊細な人形を扱うかのような仕草に思わずヒカイの手を目で追った。

 骨ばった手は武官らしく皮が厚く、けれども細く長い指先はすらりとして美しい。


「ありがとうございます、近衛中将殿」


 そう声を掛けたというのに、単から手を離したヒカイは何故だか顔を伏せ俯いてしまう。どうしたというのだろう。


「近衛中将殿? 如何なさいましたか?」


 沈黙で返すヒカイの様子は何処か可笑しい。先の宴で警護をしていた時と同じように空気が重く沈んでいる。先程までは、少なくとも以前と変わらぬ振る舞いであったというのに。でもどうして?


「近衛中将―――…」


 躊躇いながら単の端を掴み、ヒカイに手を伸ばすと、ヒカイが僅かに顔を上げ苦し気に呟いた。


「そのような呼び方をなさらないでください」

「草薙中将、」

「そのような呼び名を仰らないでください!」


 まるで激高するかのように勢いよく顔を上げたヒカイは伸ばしていた私の手を掴み、唸る様に小さく唇を噛む。


「……申し訳ございません」


 まるで行き場を失った幼子のように途方に暮れた顔をするヒカイは何処か哀れで悲しかった。どうしてそんな表情を浮かべているのか、私には分からない。けれども熱に浮かされた頭は、まるで甘やかすかのようにヒカイの望む言葉を紡いでいく。そうして吐息混じりに溢れ落ちた言葉は、しんと静まり返った庭に淡く溶けるように消えていく。


「―――ヒカイ」


 重ねるように、もう一度。


「ヒカイ」

「……はい」

「ヒカイ、どうかしたの? 少し疲れているのではないの?」

「そう、かもしれません」

「余り無理をしては駄目よ。なんて、私が言えた事では無いのだろうけれど」

「妃殿下は―――」

「ラピスで構わないわ。それともシェンリュとでも呼んでみる?」


 懐かしさに、くすくすと敢えて笑い声を上げれば、私の手を掴んでいたヒカイの手が緩む。まるで強張っていた力が一気に抜けたかのように柔らかく相好を崩すヒカイは、ただ静かに凪いだ眼差しでこちらを見つめ返してくる。

共に、ひと時とはいえ旅をした私達は、少なくとも旅の間はこのように砕けた物言いをしていた。お互いに気負う立場もなく、何のしがらみも無かった―――少なくともあの瞬間の私自身だけは―――時間だった。

 あの頃の記憶は、まだ色鮮やかに私の脳裏に強く焼き付いている。


「シェンリュ」

「ええ、何かしら?」


 首を傾げれば、ヒカイは泣き出しそうに眼を細め、私の手を勢いよく引いたかと思うと、私をその両腕の中に閉じ込めてしまう。


「ヒカイ?」


 外と簀子は段差がある為、腕の中といっても私が外に身を乗り出すかのようにヒカイの肩に顔を押し付けている状況なのだけど。ふわりと香るヒカイの焚き染めた香が鼻腔を擽り、なんとも言えず胸が詰まった。

 どうしてこのような状況に至ったのか、未だ夢現に居るかの如くぼんやりとしたままの私には上手く思考を切り替える事が出来ずにいる。それでも今は、この奇妙で不可思議な逢瀬に幾ばくかの悲しみと切なさを感じているのは事実なのだ。

 ヒカイの腕の中で私はそっとヒカイの装束の裾をぎゅっと握りしめた。


 何分経った頃だろうか。時間にすればほんの数分の筈だ。

 背後でかたんと乾いた音がする。その音の正体は何であったのか振り返る間もなく、目の前のヒカイは本当に唐突に体を離して、「申し訳ございません」と酷く暗い声で謝りながら音を立てぬよう素早く庭を後にした。

 ああ、ヒカイが行ってしまう。

 そう思ったのもつかの間、ぼうっとしたて手燭の灯りと共に僅かに板張りを軋ませてメイファンがやって来た。するするとまるで直ぐ近くの影に隠れていたかのように姿を現したメイファンは、ゆるりと微笑んで未だ座り込んだままの私の手を引いた。


「メイファン、いつから其処に居たの?」

「何の事でございましょう? 寵妃様、何かございましたか?」

「……いいえ、何でも無いわ」

「それは宜しゅうございました。外は冷えます。さあ部屋の中に戻りましょう」


 私の腕を取ってふらりと揺れる私の肩を抱き部屋の中へと連れて行ってくれるメイファンは静かに前を向いていた。先程まで座り込んでいた場所を僅かに振り返るも、そこにヒカイの姿など最早無い。だというのにどうしてか後ろ髪を引かれる思いで部屋の中に戻って来ると、甲斐甲斐しくメイファンに世話を焼かれ、私が再び眠りに就くその時まで私の側近くで控えていた。

 まるで先程の出来事など無かったかのように振る舞うメイファンは、ただひたすらに私の身を案じた様子で側に居る。もしかしたら、先程の事は夢だったのではと錯覚する程に、メイファンはいつも通りの態度を崩さない。

 だから私が出来た事と言えば、ただ口を噤んで、世話をしてくれるメイファンの手を煩わせる事無く眠りに就くことのみ。

 緩やかに睡魔が襲ってくる頃には、いつの間にかぐっすりと眠りに就いていた。





 寵妃様を陽国へと連れてきたのは間違いであったのかもしれない。寵妃様の健やかなる寝顔を見つめながら、そう思う。

 陛下は恐らく今日の事をお許しにはならぬだろう。けれども私には起こった出来事をすべてを報告する義務がある。それは即ち私にとって任務でもあるのだから。


「全く、あの者も何を考えているのか」


 寵妃様はまだ熱にうなされていたが故の出来事―――ある意味では事故のようなもの―――であると片付ける事が出来る。けれどもあの草薙ヒカイなる男の行動は何とも稚拙で浅はかで、男としては下の下であろう。

 寝込みを襲わなかった事だけは評価するけれど、それ以外は話にもならないものだ。


「惑わされるものすべてを、排除出来れば良いのだけれど」


 とはいえ、それは陛下がお許しにはなられぬだろう。陛下は国許を出る際に、寵妃様をあらゆる手から守られるようにと命を下されたものの、『ラピスの行動を妨げぬように』とも仰せられたのだから。


「黒髪の乙女、か」


 寵妃様が斯様な神秘的な存在であるとは思えない。というより、多分に方便が含まれた戯言だろう。それでも、陽国の帝はそれらを利用するつもりで居るのだ。既に渦中へとその身を投じられた寵妃様に出来る事は、穏便に事を納めて記憶する事のみ。


「吉と出るのか、凶と出るのか」


 兎も角、事が起こる前に早急に片づけなければならない。

 ―――先ずは、一つ目。

 胸元に忍ばせていた紙片を高級な文箱に納め、寵妃様の枕元にことりと置く。これが見つかるのは明朝だろう。さて、寵妃様はどのような反応を示されるのか。ぐっすりと熟睡する寵妃様を背にし、静まりかえった寝所を出て私は私自身に与えられた廂の間へと下がって行った。


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