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麗景殿でルリコを出迎えてくれたのは、陽国国主である帝の唯一の妃、麗景殿の女御だった。私よりも幾分か背の低いまだ幼気な少女の面差しを残す麗景殿の女御は、茵に座して僅かに私を見上げながら丸い頬に柔らかな笑みを浮かべた。薄く紅に染まった頬が可愛らしい。
ただそれだけの仕草だというのに、清純そのものといった可憐で淑やかな麗景殿の女御はぱっと大輪の花が咲いたかのような華やかな印象に変わる。
「妃殿下、今宵は妃殿下のお越しを祝い、ささやかながら歓迎の宴を催すつもりでおります。我が陽国自慢の管弦の宴等もございますから、心行くまでご堪能下さいませ」
「お心遣い誠にありがとうございます。麗景殿の女御様。宴などいつぶりでございましょう。メイベル王国とは少しばかり勝手が違い無作法を致しましたら、どうぞお目こぼし下さいませ」
「まあ、それならばきっと大丈夫ですわ。私も宴は久方ぶりでございますもの。本当に楽しみですわ。ねえ、嘉苗?」
可愛らしくいじましい笑みで麗景殿の女御が見つめる先には年嵩の女房の姿があった。松柄模様が描かれた几帳の側、部屋の隅に控えていたらしい女房は、恐らく女御が入内した際に共に宮中へ上がった乳母なのだろう。女御に向ける親し気な微笑みは優しく穏やかだった。
「はい、その通りですわ、女御様」
「妃殿下も、お楽しみ頂ける事と自負しておりますわ。橘の少将様の笛などとても澄んだ音色で心地良く、何か胸が洗われていくような夢の心地となるのですよ。私もまだ一度しか聞いてはおりませんが、此度の宴でも奏されるようですから、是非少将様の笛に耳を傾けて下さりませ」
「ええ、とても楽しみでございます」
本心からそう思っている。だからゆるりと自然体で微笑みながらそう答えれば、麗景殿の女御は笑みを深めて頷いた。私よりも六歳年下だという女御は、現在十四歳なのだという。十四歳という年齢は、この世界の結婚適齢期でいえば少々早いものの、この年齢で結婚する女性も少なくは無いのだ。
「入内してまだ日も浅く、至らぬ所ばかりで」と微笑む彼女はとても愛らしかった。
女性らしい今様色の襲目の十二単を纏った女御の姿は、まるで雛人形として出てくるお雛様の如くひどく可愛らしい。美少女というよりは愛嬌のある顔立ちで、性格は温厚そのもの。おっとりとした性質をそのままに、私が傍に居ても特別に表情や空気を変える事無く、春のような温かく柔らかな空気を纏っている。
私と女御は年が僅かに離れているとはいえ、ここは陽国の後宮。一時も気は抜けないだろうと思っていたのだけれど、麗景殿の女御に出会った瞬間、そのような鎧の如く纏っていた「気取らせないよう振る舞う」という空気が一瞬の内に消え去ってしまった。
それは多分、私自身がこの女御の発する空気感に癒されているからなのだろう。
「―――麗景殿の女御様、宜しければどうぞ私の事はラピスとお呼び下さいませ」
「ラピス様、でございますか?」
「ええ。妃殿下というのは少々堅苦しい敬称ですから。それに私と女御様は対等なお立場ですもの。公式の場では勿論弁えておりますが、こちらの殿内だけでは、そう呼んで頂きたいのでございます」
数瞬、何かを思案するかのように口を閉ざした女御は、然し次の瞬間にはふわりと微笑んで頷いた。
「相分かりました。それではこれよりはラピス様とお呼びさせて頂きますね。私の事はどうぞ哉子とお呼び下さりますよう」
「哉子様…」
「はい」
「ありがとうございます、哉子様」
にこやかに微笑む私達は、傍から見ればなんとも微笑ましい光景なのかもしれない。けれどもそれは何も知らぬ人間が見れば、だ。
「寵妃様、」
「メイファン。ええ、分かっているわ」
いつの間に側に寄って来たのか、咎めるように発せられたメイファンの低い声に反射的に応じる。哉子様は先程御簾を潜って入ってきた女房と何事かを離している。僅かに声量を落としたメイファンは、「お気をつけ下さい」と囁いた。
メイベル王国でもおっとりとした女性は居た。けれどもそれは表面上だけの事で、その腹の中は常に黒く、あらゆる策謀が腹の中で渦巻いているような、そんな黒い気配を持つ女性ばかりだった。表面上はにこやかに微笑んでいても、裏では言葉に出来ぬ程の陰湿な行いをする。それは魑魅魍魎が跋扈する後宮ではさして珍しい事では無かったのだけれど、でもだからこそ、とても純粋で愛らしく素直に自分の感情を示す女性の存在は、私にとって癒しそのものだった。
泥の中に咲く蓮の花のような、一服の清涼剤。
勿論、侮られる危険もあるそれらの資質は女御―――哉子様にとって弱点にもなる部分なのだろうけれど、恐らくは周囲に居る人々が鉄壁の防御壁で哉子様が心安らかに過ごせるようにと配慮している結果でもあるのだろう。
羨ましいな、と思う。
そこまで周囲に愛され慈しまれている哉子様の姿は、眩しく、そして美しい。一生に一度で良いから、こんな風に穏やかな日々を過ごして見たかった。そう思わせる程に哉子様の周囲は穏やかだった。
無論、哉子様とて悩みや問題を抱えている可能性はあるのだけれど、それでもこんなにも無防備に思いを表現出来る哉子様の立ち位置は、ただただ羨望を抱かせる。
「本当に羨ましいものだわ」
「寵妃様、お戯れはお慎みなされませ」
「メイファン、戯れなどではないわよ? 私の本心でもあるのだから」
「なれば尚の事、お慎み頂かねばなりますまい。隙を見せれば喰われてしまいますよ」
「……そうね」
ちらりと脳内に不適な笑みを浮かべるマルセルの姿が浮かび上がり、思わず苦笑する。あのマルセルの側に在っては、きっとこれからも穏やかさとは無縁の―――波乱の日々が待ち受けているのだろう。それを悲しいとは思わない。ただ、時折無性に一人になりたいと思うだけで。
いつかは穏やかさに包まれる時が来るのだろうか?
……いや、きっと無理だろうな。周囲がどうであれ、マルセル自身がわざわざ嵐を呼び込んでしまうのだろうから。それでも、それを仕方のない事だと受け入れてしまうのは、結局のところ私自身がそれを自ら選んでいるからなのだろう。
「私も大概ね」
―――今はそんな事を考えて居る暇は無かったのだった。ちらりと視線を元に戻せば、私が思考の海に溺れている間にも哉子様はにこやかな笑みを浮かべて、うきうきとした様子で女房達と何事かを話し込んでいる。私の側に控えたメイファンが、何か意味ありげな視線を送って来るのを苦笑しつつ受け止めた。
ああそれにしても本当に、哉子様は愛らしく可愛らしい。せめて陽国に居る間だけでも、親しくして貰えたらきっと何物にも代えがたい思い出になるだろうに。
不意にずきんと頭の奥に痛みが走った。それは何かの予兆でもあったのかもしれない。けれども私がそれに気づく事は無かった。
*
歓迎の宴は直ぐにやって来た。メイベル王国から持ち込んだ襖裙に褙子を重ねて着込めば、ある程度の体裁は整えられる。格調高い陽国の宴は松明がそこここに灯される中、粛々と進められていった。
「……本当によく似ているわね」
「ラピス妾妃様、なにか仰いましたか?」
「いいえ、女御様」
舞台で舞われている納曽利は、まだ日本に居た頃、秋季神楽祭で拝観したものだった。派手な衣装に奇妙な―――けれども迫力のあるお面は独特な魅力を持っている。舞台の正面に当たる廂の間の中央に座すのは陽国の国主である帝である。そこから少し離れた隣に哉子様が座し、その隣に私が座している。
本来であれば哉子様の逆隣、つまりは帝の左側に私が座すべきなのだろうけれど、恐らくはまだお互いに内裏に慣れてはいない女人同士で隣合い、少しなりともゆるりと寛ぐ事が出来るようにという陽国側の配慮でもあるのだろう。
「女御様、」
そう呼びかけようとして思わず口をつぐんだ。脇息に持たれながらぼんやりと舞台を眺めている帝とは違い、哉子様はよほど興奮しておられるのか食い入るように舞台を見つめている。昼間の様子からして本当に宴を楽しみにしておられたのは知っていたけれど、これ程愛らしい様子では話をすることも憚られた。
管弦の音色に耳を傾けながら不意に周囲に視線を走らせると、私達の直ぐ側に武官の出で立ちをしたヒカイが控えていた。僅かに目を伏せたライトグレーの眼差しは薄暗い景色の中で仄暗い影を落としている。普段よりも幾分か色濃くなっているグレーの瞳が今日は何処か憂いを帯びて落ち込んでいるようにも、怒っているようにも見え、普段とは違うその様子に思わずじっと見つめてしまう。けれどもヒカイが私の視線に気づく事は無い。
不躾でない程度に視線を向けるものの、ヒカイは舞台を見る事も、私に視線を返す事もなくただ静かに微動だにせず直立したままだ。
どうしてか頭の中に霞が掛かったように視界がぼやけてしまう。それはこの特殊な空気がそうさせているのだろうか。
「寵妃様、ご体調が優れませんか?」
恐らく私はぼんやりとし過ぎていたのだろう。後方で控えていたメイファンが側近くに寄り、こそりと耳元で囁く。そう言われて初めて、また少しばかり頭の奥がずきんと痛んだ。
「寵妃様、よもやお熱を出されているのでは? 少し失礼致します」
そうっとメイファンの手が私の額に触れ、次いで少しばかり熱く感じられる頬に触れた。ああ、もしかしたら私は風邪の初期症状を起こしているのかもしれない。メイベル王国でも体調を崩したのはほんの二、三回の事で、あまり風邪等を頻繁に引いてはいなかったから、自分の体調の変化にも気が付いて居なかったのだろう。
「やはり少しばかりお熱が出ておりますね。女御様にお話しし、中座なさいますか?」
心配そうな声音で囁くメイファンに意識をして口角を上げ、メイファンに囁き返した。
「いいえ、それは止めておきましょう。もう宴も酣でしょうから、恐らくはもうすぐ解散となる筈。ここで中座するのは拙いから、もう少し辛抱する事と致します」
「……畏まりました」
少し間を空けて渋々と言った様子で返って来た返事に思わず苦笑する。舞台に視線を戻せば、舞人が舞台から降りていく所だった。ふとヒカイと視線が混じり合う。ひたと見据えられたその視線の意味を探る前に、再び地面に落とされたヒカイの眼差しはやはり先程と同じく暗いものだった。
その後もヒカイと視線が交わる事はなく、私は麗景殿の女御と共に麗景殿へと下がって行った。




