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―――帝とルリコの対面が成されていた同時刻、帝と私的な対面を果たす女人、即ちメイベル王国国王妾妃たるラピス・ヤラ・メイベルの名が官吏の口伝えによって大内裏中を駆け巡っていた。
「流石に早いな」
光景は表情を変えぬまま蝙蝠扇の影でそっと呟いた。周囲の官人達が光景の低く冷たさを帯びた呟きに気が付く事はなく、光景は柱の陰にするりと身を潜めて周囲の騒めきに耳をそばだてる。
確か光景が出仕してからまだ数刻しか経っていない筈だ。けれども若い公達から諸大夫、出仕し始めたばかりの学生まで実に様々な人間が御方についての噂をそこかしこで繰り広げている。わざわざ声量を落としては居るものの、密やか事とは思えぬ程の大きさでさざめいている。恐らく今日ばかりは皆仕事が手に付かぬだろう。急を要する職務を代行する官人以外は特にそれが顕著だった。
「よもや主上が招聘されたのが彼の国の妃であったとはの」
「ほんに中納言様の仰せられる通り
、皆驚いておりまする。彼の国の者が公式に陽国へ足を踏み入れたのは、これが初めての事でございましょう」
「うむ。儂が知っておる限りでは初めての事だの」
檜扇の陰で口元を隠すように話すのは、中納言千賀殿と、少納言鏑木殿だ。既に形骸化して久しい官職に在るとはいえ、従五位下の官位を持つ二人がこのような往来で公に話す等あまり見られない姿である。それだけ此度の出来事が衝撃的な事であったのだろうが。
「主上は何をお考えなのであろうか?」
ふっくらとした丸い顔に冷や汗を滲ませてそう囁く少納言に、中納言がさっと非難の声を上げる。
「これっ、声が大きい! 皆に聞こゆるではないか。……まあ、お主の言う事も分からぬではないが、然しそこはほれ、恐らく彼の国の力を欲したのではないか?」
「主上が何がしかの意図をもって彼の国に頭を垂れたと仰せられるのですか? よもやそのような事は有り得ませぬ! 主上は我が国の利こそを欲される御方ですぞ」
帝の、引いては陽国の忠臣と謳われる蔵人頭や式部卿等の公卿達でなくとも、一般的な官人達の帝への信頼度は大きく深いものである事がこれらの会話から伺う事が出来る。
「げに恐ろしきは彼の国の動向ぞ。主上とて斯様な事実なぞとうにご存知であろう」
「ではやはり東宮の立太子を狙って―――」
「それしか考えられぬであろう? 彼の国の妃がどのような関与をしているのかは定かでは無いが、主上に は何かお考えがあるのだろう」
「然り。さりとてそう事が上手く運ぶとは限りますまい」
「故に我らの出番よの。そうならぬよう憂いは打ち払わねば」
「道理ですね」
場を変える為だろう、漸く立ち止まっていたその場を動き出した少納言と中納言は、騒めく簀の子を潜り抜け連れ立って別棟へと消えて行った。官職自体が微妙な立場にある二人の官人にとって情報収集は殿上人として最も必要な事でもある。故に二人の会話に耳をそばだてていたが、よもやそこまで話が進んでいるとは思わなかった。
光景自身は、妾妃殿下に対して何か思う所など無い。己の私利私欲は無視してでも、やるべき事を成すまでだ。
「末端に在る者でさえ真実の一端を握っている、か」
これは想像以上に早く事が進んでいるのかもしれない。光景は柱の陰からするりと出ると、緋色の袍を翻し、目的の人物と接触するべくその場を後にする。ここで呼び止められなかったのは、本当に幸いだった。未だ鳴りやまぬ官人達の声は、光景の耳に遠く静かに尾を引くように消えて行った。
*
ラピス妾妃が去った室内で、帝はゆるりと体勢を崩しながら僅かばかりの側近達―――草薙や花山院、そして帝の相談役となっている式部卿達―――を残して退出させ、ぼんやりと廂の間を眺めた。その場に色濃く残る残り香は、廂の間に吹き込んでくる風によってその内、消えて無くなるだろう。
「ラピス・ヤラ・メイベル、か」
現状に於いてメイベル王国国王、マルセル・ヴィ・メイベルの唯一の妃にして寵妃。噂では、近々正妃として召し上げる動きがあるのだとか。まあ、その噂の真偽は別にしても、我が国以上に複雑な政治機構を持ち、且つ海千山千の強者達が揃うメイベル王国の中で最も親しみ易く、また情報を得やすい人物があのラピス妾妃なのだろう。彼の国では探る事さえ難しかった事案も、敷居が低く味方が然程いない我が国では容易くなるのかもしれぬ。
ラピス妾妃との本当に短い対面ではあったものの、収穫は確かにあった。
「―――主上」
「あれが、ラピス・ヤラ・メイベルか。何とも普通の女人だったな」
「主上、それは…」
主上の言葉に内心の冷や汗を堪える事が出来ず、花山院は慎重に言葉を選びながら返答する。この場に残るのは主上の意を共にする極僅かな側近しか居ないというのに反射的に周囲に視線を走らせたのは、花山院自身が流石にこれを他の官人達に聞かれては大事になるに違いないと自覚しているからだ。
とはいえ、目の前に座る帝は然程気にした様子も見受けられないけれど。
「妾妃となられてまだ二年しか経ってはおられないとか。元々皇族であらせられた主上等とは比べ物にはならぬのでしょう」
「花山院、そういう意味では無い。黒髪の乙女と呼ばれる女性にしては余りにも凡庸に過ぎるという事だ。記録ではより高貴なる存在かと思うておったが…」
「黒髪の乙女、でございますか?」
「そうだ。ああ、そなたらには未だ妾妃を我が国に招いた仔細を述べてはおらなんだな」
主上は些か悪戯気な視線を向け、そうして「皆、近こう寄れ」と側近達を直ぐ側にまで呼び寄せた。主上の側近とはいえ、自然と序列は決まっている。花山院は主上により近い位置を式部卿に譲り渡し、その隣に座してヒカイを自身の隣に座らせた。
「さて、何から話すべきであろうか。とはいえ、あまり時間も無い事だ」
一度言葉を切って花山院達を眺めた主上は、端的に仔細を述べる。
「我が国の東宮は未だ立太子してはおらぬな。これにはそなたらも知っての通り、さる事情からではある。しかしそれが理由で余はラピス妾妃を招いた訳ではない。古い文献にこうある。さる時代、さる陽国の主たる天皇は、“黒髪の乙女の祝福を受けし者こそ、真なる天上の王となる”と」
突拍子の無いその言葉に理解が追い付かず、花山院は思わず目を瞬かせて主上の顔を食い入るように見つめた。
「黒髪の乙女、でございますか」
「然様。そしてこうも続けられている。“黒髪の乙女の祝福を受けし者は、未来永劫の繁栄と無上の栄光を約束される”と。時の天皇は皆、この黒髪の乙女を探したが、終ぞ見つかる事は無かった。そもそもこの文献の出処も定かではない。著者の名は書かれておらず、この文献は少なくとも数十年以上前のもの。然しながら時の天皇に連綿と受け継がれた陽国の宝であるということは間違いないのだ。この文献の大半は、我が国の栄枯盛衰の歴史と災害による対処法の記録を記した貴重な歴史資料でもあると同時に、真なる天上の王となる者を導くものでもあるという事だ」
一度言葉を区切った主上に、式部卿がまるで何かを確認するかのように言葉を紡いだ。
「妾妃殿下の御髪は黒。それも見紛う事の無い純粋な漆黒。それは即ち―――」
「その通りだ、花山院。恐らく間違いない。彼の国の妾妃こそ、その文献に残る黒髪の乙女であろう」
「恐れながら申し上げます。然し主上、それは余りにも荒唐無稽な話に過ぎませんか? 第一、妾妃殿下は元は単なる徒人であらせられるのですよ? 主上はそれらの話が真の物としてお考えなのですか?」
若干勢い込みながら花山院がそう問いかけると、主上はふっと笑みを浮かべた。
「いいや。けれどもこれまで想像上の産物でしか無かった乙女が目の前に現れたのだ。確かめずにはおれまい」
「ええ、承知しております。ですが、それは…」
「余りにも早計に過ぎると言いたいのであろう? されど然様な愚を犯してさえも招かねばならなかったのだ」
力説する主上とは裏腹に、式部卿と花山院はただ困惑する他無かった。しかし、そうでなかった者がこの場に一人だけ居た。それは場を弁えて影の如く控えていたヒカイだった。ヒカイに視線を向ければ、どうしてかその表情は固く強張っている。
「―――“黒髪の乙女”は建国神話にすら登場する存在であるから、という事でしょうか」
「左様。それこそが理由ぞ」
「草薙、それはどういう事だ?」
「花山院様、建国神話の中には極限られた者しか知らぬ続きがあるのです。そこに黒髪の乙女が出て来るのです」
「それを何故草薙が知っている?」
「……幼き頃、母に読み聞かせられました故に」
「成る程な」
それは当然の事かと花山院は一人頷いた。草薙の母は元皇女であり、賀茂斎院でもあった女性だ。草薙と主上は再従兄弟の関係でもある。そういう方であれば、隠された建国神話を知り、子である草薙に伝える事も可能であるのだろう。
「無論、今はどなたにも申し上げぬよう固く戒めております」
「花山院様、これは荒唐無稽な話だと切り捨てる訳にはいきますまい」
「ええ、そうですね。式部卿。では主上、仔細は重々承知致しました。妾妃殿下の処遇に関しましては、兎も角折りに触れて探っていく、という事で宜しいでしょうか?」
「構わぬ。妾妃のあの髪と目を見れば、あれが染粉で染めた髪では無い事は明白だ。故に、妾妃には一日でも長く我が国に逗留して貰わねばならぬ」
「御意」
深々と頭を下げた花山院だったが、くつくつと喉の奥で笑う主上を前に再び顔を上げその顔色を窺った。
「それにしても、あのように余の目を真っ直ぐに見つめ返してくる女人が居るとはな。いや、これも流石は大国と名高い彼の国の妾妃と言った所ではあるか。いとをかしな女人よ。―――草薙は彼の国で一時的とはいえ旅をしたのだったな。草薙はあの妾妃をどのように思うた?」
「主上、私はそのような事を申し上げる立場には無いと、」
「構わぬ。私的な問いだ。思うた事を述べよ」
先程とは少しばかり違う、困惑を全面に押し出した複雑な表情を浮かべながら、ヒカイは一度花山院へと視線を向け、後押しされるように頷かれると、再び静かに口を開いた。
「私から見たラピス妾妃殿下は、随分と変わった御方でございました。まるで舞踊を生業とするたおやかな舞姫かと思えば、その振る舞いは時に豪胆で、知恵の回る御方でもあります。舞姫をしていた時には親しい者達には分け隔てなく接しているように見えましたが、王宮に戻ってからの振る舞いは流石妾妃だと思わせるに足る働きをなさる御方です。恐らくは状況によって適切な態度を分ける事の出来る御方やも知れません」
「成る程な。花山院はどのように考える?」
「大よそ草薙中将の言葉に同意致します。然しながら一つ付け加えるとするならば、凡そ貴族の出とは考えにくい御方であるものの、同時に平民の出とは考えにくいその場に見合った気品ある振る舞いを心掛ける御方です。その素性は彼の国でも明らかではなく、国王陛下の側近であるリュウホウ殿の手助けが無くば、妾妃に上がる事は無かっただろうというのが、王宮女官達の大よその見解であるとか」
「素性が分からぬ者を王宮に入れる、か」
「それを成す事の出来る程度の力を、彼の国の国王陛下はお持ちであります故に」
「それも道理よ」
一度目を閉じ、何事かを決めたのであろう主上は、そろそろ潮時かと、それぞれの職務へ戻る様にと伝えられた。空に上る日の位置を見れば、先程の対面から随分と時間が経っている事が感じられる。いち早く昼御座を後にした式部卿に続き、職務の関係上その場に残る花山院と別れたヒカイは一人その場を後にする。
僅かに軋む簀の子は、ヒカイのかき乱された心を表すかのように固く乾いた感触を足の裏に伝えて来る。結局の所、妾妃殿下は陽国へ利用される為だけに招かれたのだ。そんな事はとうの昔に分かっていた筈だというのにどうしても頭がそれを拒絶している。どうしてこんなにも胸が痛むのか。主上の言葉は絶対だ。無論、何かしらの下知があれば遂行するのみ。けれど今はそう断言する事が難しくなっている。
ヒカイには自分自身の心が分からなくなっていた。




