21
先触れがやって来たのは、それから幾許か経った頃の事だ。
いよいよ対面の時が来た。気を引き締めるために奥歯を噛み、けれども表面上はたおやかにメイファンの手を借りて立ち上がる。着装した衣服にさっと視線を走らせれば、メイファンが手早く丁寧に、一分の隙も無く整えてくれる。僅かに緊張する私とは違い、此処に至ってもメイファンはいつも通りの自然体だ。
その姿が私の硬く強張った心を解きほぐし、上手いように肩の力を抜いてくれる。
味方が一人居るだけで、こんなにも心強いものなのか。先程まで手元に降ろしていた翳を顔の前に差し、メイファンが後方に下がっていくのを待って、静かに控えていた樋宮の尚侍へ視線を向けた。
樋宮の尚侍は私の視線の意味に気付いたのだろう。心得たとばかりに顎を引き、控えていた女房達に降ろしていた御簾を上げるよう指示を出して私の側に一歩近づいた。ゆっくりと歩むその様の何と堂々とした事だろう。私もこれ位の威厳を持たなければいけないなという感心と共にその姿を脳裏に刻み込む。
きっとそれは、もう直ぐ必要となってくるものなのだろうから。
「妾妃殿下、長らくお待たせして申し訳ございません。これより昼御座へと御渡り頂きます。宜しいでしょうか?」
「ええ、勿論。案内を頼みます、樋宮の尚侍」
「それではこちらへ」
僅かに頭を下げ、すいと身を翻した樋宮の尚侍に続き、私は御簾を潜って板張りの簀子を静かに歩いていく。静寂の中でしゅるしゅると微かな衣擦れの音が優しく耳に届いて来る。
私の前方を歩く樋宮の尚侍が纏う五衣唐衣裳は、腰から後方に掛けて長い裳を引きずっている。しずしずと歩いていく度にゆるやかに動いていく純白の裳が余りにも美しく、その衣装の美しさに思わず目を奪われる。
その裳に掛かるように背中に流れる豊かな藍色の髪は、清涼殿に差し込む日差しを反射するように青く輝いている。そうして漸く、何処かずれていたピントがカチッと嵌るように、視界が色鮮やかに輝き出す。
ああ、そうだ。この世界は私の居た日本ではない。日本と同じ文化であっても、その中身は別物なのだ。
「寵妃様、如何なさいましたか?」
「何でも無いわ」
私の空気が変わった事を敏感に察知したのだろう。こっそりと側に寄って来たメイファンにそう言葉を返しながら、こちらを気にするように僅かに振り返った樋宮の尚侍に気にしないようにと笑みを送る。
「寵妃様」
「本当に何でも無いわ。下がりなさい、メイファン」
「…畏まりました」
後方へ下がったメイファンを目で追う事なく、こちらを気に掛ける尚侍の意味ありげな視線を黙殺する。樋宮の尚侍も私の無言の拒絶を悟ったのか、静かに体を前に戻した。
先程休んでいた部屋から昼御座へはそれほど離れてはいない筈だけれど、すれ違う文官や武官の奇異な眼差しが一層強く私の全身を貫いていく。それは部屋に入る前に向けられていた好奇の視線とは違い、何処か見極めるような、それでいて警戒するような色を帯びている。
ふっと唇を緩めれば、その視線がまた別の色を帯びて過ぎ去っていく私の背に向けられた。けれどももう心を揺らす事は無く、私は一歩一歩静かに昼御座へと歩みを進めた。
*
昼御座は、外界と内部を区切るように母屋、及び廂の間に御簾が垂れ下がっている。細かな二つの簾の向こう、茵に座す陽国国主、又の名を天皇、帝とも尊称されている御方の姿は余りにも遠く、その顔立ち等を判別する事は出来ない。とはいえ私自身も翳を顔の前に差しているのだから、お互い様なのかもしれないけれど。
簀の子に座した私の立ち位置―――この場合は座る位置かしら―――に、背後に控えたメイファンが些か険の混じる視線を陽国側へ投げかけたのを肌で感じ、翳の陰で少しばかり苦笑する。確かにこの位置では私を、引いてはメイベル王国を侮られたと感じても可笑しくは無い立ち位置だ。
私自身は然程気にしても居ないのだけれど、恐らくは陽国の形式上必要な事なのだろう。陽国で帝は神の如く崇め奉られている。故に、単なる人に過ぎない私等は許しも無く直接お声がけする事など出来ないのだろう。勿論それは、マルセルにも言える事だ。
メイベル王国では国王も人に過ぎないけれど、権威の象徴たるマルセルに直接言葉を交わせるのは極限られた官吏や女官、そして私等の妃だけなのだから。
少しばかりぴりりと空気が張り詰める中、先程私を案内した樋宮の尚侍ではなく、メイベル王国に使者として参られた花山院様がいつの間に側に来ていたのか、伝奏役としてすっと私の斜め前に立った。黒色の袍はヒカイのそれと同じく艶やかで、花山院様の地位の高さを伺う事が出来る。
そういえばヒカイは何処に居るのだろう? ふと周囲に視線を流せば、帝の右側、少しばかり離れた立ち位置に帯刀した状態でヒカイが控えていた。一瞬、視線が交わったように感じたけれど直ぐに視線を逸らしたため、本当に視線が合っていたのかは定かではない。
「―――妃殿下、主上がお近くに座す事をお許しになっておられます。どうぞ廂の間へお入り下さい」
静かに頷いた後、女房達によって捲り上げられた御簾を潜り、御帳台にぐっと近付いた廂の間に座した。先程の位置よりもかなり距離が縮まった事によって、帝の顔がはっきりと見えて来る。年の頃は三十歳―――いや、その手前位の年齢だろうか。冠に隠れて髪の色は見えにくいけれど、淡い青とも緑ともつかぬ青磁色で、瞳の色も同じに見える。周囲に控えた官達の咎める視線がこちらに向く前に、視線を床に落として両手を組み、メイベル王国流の挨拶の礼を取る。
本当は陽国流の礼を取るのが一番良いのだろうけれど、私自身の立場を明確にしておかなければ、後々面倒な事になるやもしれない。故にわざとメイベル王国流の挨拶をしたのだけれど、特に咎められる事もなく、静まり返った昼御座に帝の声が響く。
「面を上げよ」
すっと顔を上げれば、御簾越しに視線が交わった。僅かに細められた目に映るのは、何処か値踏みするようなそれだ。値踏み、か。さて私は何を値踏みされているというのか。
視線の先に居る帝は、御引直衣と呼ばれる裾を引きずる形の袍をその身に纏い、真紅の袴を穿いている。これが帝だけが纏う事を許された衣か。二藍色の色鮮やかな衣装は目に眩しく映る。威風堂々としたその姿は、流石は一国を担う主の姿である。
「そなたがメイベル王国国王、ラピス妾妃か」
「はい。お初に御目もじ仕ります、メイベル王国国王、マルセル・ヴィ・メイベルが妾妃、ラピス・ヤラ・メイベルと申します。此度は陽国へお招き頂き、誠に有難く存じます」
再び頭を垂れると、母屋と廂の間を仕切る御簾の向こうで脇息に凭れ掛かり、ふっと笑みを浮かべる帝の姿があった。
「遠路遥々よくぞ我が国にお越し下された。余が陽国国王、嵯峨宮 敦盛である」
歓迎しよう、という言葉とは裏腹に、この場に揃う官吏の少なさに思いがけず戸惑った。確かこの場は私的な面会であるのだろうけれど、それにしても少なすぎなのではないだろうか。いや、それよりも帝の側に寄る側近の数も―――まあ、護衛武官達数人もその人数に入っては居るのだけれど―――片手に余る程度にしか居ないというはどういう事なのか。
「陛下。嵯峨野宮様、とお呼びしても宜しゅうございますか?」
流石にこれは気安過ぎるだろうか、とは思ったものの周囲のざわめきと反するように、帝は拍子抜けする程あっさりとこれを首肯した。
「構わぬ」
「忝く存じます」
「構わぬ。そなたはメイベル王国の妾妃なのだから」
こちらの心を解きほぐすような微笑みは、これまで接してきたあらゆる高官達とも違う、柔らかさと穏やかさに満ち溢れたものだ。マルセルとは正反対の立ち位置に居られる方らしい。いや、人心を掌握するのであれば、このように包み込むような温かさを持った方の方がより多くの人々から求められるのだろう。
ただ、些か蛮勇を誇る嫌いのあるメイベル王国では、このような滲み出る温かな人柄というものは、弱点にもなり得るものだ。汚い言葉で言うのであれば、真っ先に蹴落とされて然るべき方とでも言おうか。まあ魑魅魍魎が跋扈する宮中というものはどの国であれ同じである筈だ。幾ら表面上は団結しているように見えても、一枚岩ではない事などざらにあるのだから。
であれば恐らく、単なる柔らかな人ではない事くらい察しはつく。
とはいえ、やはり文化面で陽国とメイベル王国は大きな差があるらしい。
「長旅でお疲れであろう。今日はゆるりと麗景殿で休まれると良い。―――樋宮の尚侍」
「はい」
「ラピス妾妃を案内せよ」
「御意。では妃殿下、こちらへ」
するりと廂の間に入って来た樋宮の尚侍に続くように私も廂の間を後にする。恐らく今日は単なる顔合わせなのだろう。本格的に、と言うべきか、或いはこの陽国へと私を呼んだ理由についてはまた明日以降に話すつもりという事か。私の後についてきているメイファンは無表情の中にも少しばかり鋭い色を宿しているが、それは形式的にならざるを得ない現状を鑑みた上での警戒感でもあるのだろう。私が陽国へ招かれた理由も今は杳として知れないのだから。
でもこれではっきりとした。
恐らく私を陽国に招いたのは真実、陽国の帝であるという事が。そしてそれは恐らく、帝とそれに極近しい者とでしか知り得ないという事が。
これはいよいよきな臭くなってきた。
思わず胸の内で吐いた溜息は存外に大きく響き、麗景殿へと進む簀の子から空を見上げ、ふうっと息を吐いた。兎も角これで対面は果たした。後は明日を待つばかりだ。少しだけ肩の力を抜き、渡殿を進む尚侍の背をゆっくりと追った。
麗景殿へ向かう道すがら、赤銅色の髪をした文官とすれ違った。まさかその出会いが後に大きな影響を及ぼす事などこの時の私には知るよしもなかった。




