番外SS リュウホウの憂い
ルリコが陽国へ旅立った後のメイベル王国の話
その日リュウホウは書簡を片手に回廊を進んでいた。時折すれ違う下級文官達の会釈に頷きながら傍目には優雅に、けれども回廊を滑るように早足で進むのは、これ以上誰にも呼び止められない為だ。
「尚書郎様―――」
そう呼び止められるのは何度目の事か。苛立ちながら視線を向ければ、陛下の側近としてお側近くに仕えている武官が柱の影から姿を現した。
「何用ですか? 私はこれでも忙しいのです。用件があるのならば早くお言いなさい」
僅かな躊躇いを見せる武官にそうきっぱりと言えば、武官はさっと表情を引き締めて腰を折った。
「陛下が、その…中書令様に何事かを言い含められたらしく、大層お怒りでして…」
「中書令様に?」
「はい。恐らくは寵妃様の事ではないかと」
「そうですか。分かりました。直ぐに陛下の御元へ向かいましょう」
ふうっと吐いた溜息は思いがけず大きく回廊に響いていった。殊更恐縮した様子の武官は天の助けとばかりに目を輝かせてリュウホウを陛下の居る執務室へと先導していく。その足の軽やかさが、重圧から解放された様をまざまざと思い知らされて僅かばかりの苛立ちが胸の内に沸き起こって来る。
「それにしても、中書令様は陛下に何と仰ったのですか? 側に居たそなたであれば、何か知っているのでしょう?」
「いえ、それは…」
再びまごまごとしだす武官を一喝し、「そなたの言葉を聞かぬ内に、陛下に何もご奏上申し上げられないでしょう」と畳み掛ける。
口にするのも憚られると言った様子で声を落とした武官は、リュウホウが聞き取る事の出来るぎりぎりの声量で中書令様が言ったとされる言葉を口にした。
成程、それは陛下がお怒りになられるのも道理というものだ。リュウホウは何とも言い難い苦い表情を浮かべ、歩調を緩めた武官を追い越してさっさと執務室へ向かう。慌てた様子でリュウホウの背を追い、隣に並んだ武官は何故か繰り返し謝罪を伝えて来る。すれ違う官達の奇異な眼差しがリュウホウと武官の間を彷徨い、リュウホウは思わず顔を顰めた。
「それ以上謝罪を口にされるのであれば、今この場であなたを置いていきますよ」
「そっ、それだけはご容赦下さい、尚書郎様!」
顔面を蒼白にさせた武官の情けない表情に鼻を鳴らし、「ならばその顔を何とかしなさい」と叱咤する。途端にしょげてしまう武官の様子にはもう呆れ返る他無かったが、リュウホウは袴の裾を蹴り上げる勢いで更に歩調を上げた。
辿り着いた陛下の執務室の前では、護衛武官達が僅かに動揺した様子で執務室の中を伺っていた。リュウホウの姿に気付くなり、安堵した様子で部屋に通すその姿はリュウホウの背後に居る武官の先程の姿と重なり、その情けなさに思わず胸の内でため息を吐いた。
この者達は後で徹底的に締め上げておく必要があるだろう。それもこの件が済んだら早急にだ。
リュウホウの絶対零度の冷ややかな視線に気が付いたのか、護衛武官達がさっと顔を引き締めて、文字通り石像の如くびしりと固まったままリュウホウが執務室のドアを叩くのを見守った。その隙に先程の武官が執務室のドアを開け、「尚書郎樣がお目通りを願っております」と素早く部屋の中に居るであろう側近へと伝達して行った。
全く、見事な連携行動である。最初からそのようにきちんと自らの行動を律し、職務に徹していれば良いものをと些かやさぐれながら思うのは、これから待つ陛下のお怒りをどのように解いていけば良いものか未だ迷いがあるからだろうか。
部屋の中から応の声が聞こえ、リュウホウは武官と入れ違いに執務室へと入っていった。執務室に入って直ぐにリュウホウは怒れる主の姿を見つけ先程までとは比べ物にならぬ程の真剣さでぐっと腹の底に力を込めた。
これ程までに怒りを露にしている姿はリュウホウでさえも久方ぶりに見る。ビリビリとこちらを威圧する殺気を帯びた視線は今や陛下の御前、その足元に向けられている。自然とそちらに目を向ければ、部屋の中央に座す陛下の御前には、件の中書令様が跪拝していた。
兎も角リュウホウは中書令樣の半歩後ろに座して、中書令様と同様に跪拝した。
「尚書令殿、よき所に来て下さった。そなたからも陛下へお言葉添え願えぬか? どうか一日も早く、お子を授かられるようにと」
もう少し婉曲な言い方もあるだろうにそのままずばりと直球で言葉を発する中書令様は些かの迷いもなくリュウホウを見つめ、自身の考えに何ら疑問すら抱かず手前勝手にもリュウホウが自らの言葉に加勢する事を期待している
面倒な事になった、とリュウホウは奥歯を噛んだ。ちらりと見た陛下のお顔には最早何の感情も浮かばず、ただただ凍てついた氷の如き鋭利な刃物を思わせる視線が中書令樣に降り注がれている。
これをどうにかせよとは、よくもまあ簡単に言ってくれるものだ。そう思いながらもリュウホウは口を開いた。
「中書令様、陛下の御前にあってそのようなお言葉を掛けられる事こそ無礼に過ぎるのではありませんか?」
「何を言う尚書郎殿。私はただひたすら国を思う忠臣が故の諫言ぞ。陛下には国をお守りし、お子を授かる義務があるのだ。それなくして陛下のご威光が知れわたろうか?」
「中書令樣、それは些か越権行為というもの。陛下のお考えあってこその事なのです。我らはそれに従うまで」
これでも相手はリュウホウより上の階級を持つ官吏だ。迂闊な事など言えはしないし、何より陛下のお心をこれ以上乱す訳にもいかぬ。故にこのような返答と相成ったのだが、それで納得しないのが中書令樣という男である。
「何を言うか! 時に陛下をお諌めし導くのも我らの職務であろう!」
「我らは陛下の手足となり、国を平定させていく事こそ官の使命でありましょう。お子に関して我らが陛下に何事かをご奏上申し上げる事が我らの使命ではありますまい」
「それはそなたの解釈であろう! 陛下には常に先頭を歩き、且つ国民の関心を引いて貰わねばならぬのだ! それこそ百官の長の役目であろう」
「百官の長は冢宰、尚書令樣のお役目であって陛下の役目ではない筈」
「それこそ屁理屈というものであろう!」
何故か段々と論点がずれてきている事に気付かぬまま、目の前の中書令様は益々怒気を飛ばして言い募る。
「お子が居さえすれば、我が国の泰平は続いていくのだ。それなくして国の泰平などあり得ぬっ。漸く陛下の正妃様が定まったのだ。早く新たな側妃様を召し上げねば…」
「やはりそれが狙いか、中書令」
「陛下、」
「そなたの目論見などとうの昔に気付いていたが、この期に及んでも尚それを主張するとは、そなた最早死にたいと見える」
くつくつと喉の奥で笑う陛下のお顔には蔑むような笑みが浮かんでいた。
「早急に去ね。この王宮から。一刻の猶予も与えはせぬ。そこな護衛武官、速やかに中書令を退出させよ。そして二度と王宮へ足を踏み入れる事の無いよう、手配しろ。出来るな、我が尚書郎?」
「御意」
陛下のお言葉に深く礼を返しつつ、まるで蛙か何かの如く口をぱくぱくと閉口させ顔を赤と青の入り交じった斑模様にさせる中書令様を護衛武官に引き渡し、獣の如き咆哮を上げるその姿を見送った。




