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従四位下に位置するというヒカイは、繁紋垂纓の冠に殿上人の証とも言える薄墨色の袍をその身に纏い、襟元からは緋色の単が覗き、下衣には指貫袴を穿いている。ピンと伸びたその背の高さといい、その硬質なまでの武官らしい凛々しさといい、その姿は正しく陽国の未来を担う貴公子そのものだった。
ヒカイがその門に現れたのは珍しくも早朝から少しばかり日が過ぎた時刻の事だった。先触れを済ませる為に私達を先導している途中で一足先に門を潜ったヒカイは内裏に居る花山院様に文を渡し、一度屋敷に戻って正装に着替え、ルリコの牛車がこの門に到着する時までこうして待ち構えていたらしい。
らしい、という曖昧な表現となってしまうのは、牛車に乗っている私達の周りで数多漏れ聞こえて来る貴族達の噂話を統合した結果がこのような話だったからだ。
普段は人と待ち合わせなどをせず、また待ち人を待つ事など無い“硬派な近衛中将”たるヒカイの行動に、周りは物珍しさ故か遠巻きに貴族達の人の輪が出来ていた。
「寵妃様、どうぞ降りられるご準備をなさいませ」
「ええ、そうね」
その一種異様とも取れる光景は、僅かに歩調が緩んだ牛車の中から遠目で外を眺めていた私達の元からでも確認する事が出来た。
メイファンが私の髪に手を伸ばし、完璧に結い上げた髪を手早く整えていく。この衆目に晒されるのだ。隙を見せる事など出来はしない。
「寵妃様、こちらを」
「ええ」
メイファンから差し出された翳を手に取った。
「妃殿下」
牛飼い童が牛車を止め、車副の手を借りて私とメイファンはゆっくりと牛車を降りる。翳で僅かに顔を隠しながら、牛車の側で待っていたヒカイの元に向かう。異国の衣装が珍しいのか、はたまた近衛中将たるヒカイが私達に対して丁寧に接しているのが珍しいのか、周囲に居た人々の視線が一斉に私とメイファンに注がれた。
翳を握る手に力が籠もる。
「あれは、草薙様では?」
「近衛中将様ですわね」
「どちらのご息女でいらっしゃるのか…」
「いや、あれはメイベル王国の伝統衣装では?」
私達に聞こえるように囁かれる言葉の数々は、まるで私達を見定めるかのように遠慮が無い。それを不愉快だとは思わないけれど、些か無礼に過ぎるのではあるまいか。いや、肝心の彼らが私の肩書きなどを知らないのだから仕方のない部分もあるとは思うけれど。
流麗な絵が描かれた蝙蝠扇で口元を隠すように囁き合いながら、値踏みするかのような視線は今や痛い程に私達に突き刺さっている。メイベル王国に居た時でさえ、このような無遠慮な視線に晒された事など無いというのに。まあ恐らくは、私自身の妾妃という立場を見知っていたからこその態度であったのかもしれないけれど。
自身に向けられたそれらの視線を綺麗に受け流してヒカイの側に寄れば、さざ波の如く広がっていた囁き声が一斉にぴたりと止まった。それが背後に控えたメイファンが周囲に向ける絶対零度の視線によるものだということは、目の前に立つヒカイの引き攣った頬を見れば直ぐに察せられた。
とはいえ、私を思って振る舞ったメイファンの行動を咎める事はせず、そのままヒカイにひたと視線を合わせた。その目に宿る申し訳なさそうな、それでいてこちらを気遣うような眼差しの柔らかさに思いがけず驚いてしまう。
どうして、そのように優しい視線を向けるのだろう? その視線は明らかに親しい者へ向ける気安さに満ちていた。
「草薙近衛中将殿」
「妃殿下、こちらへ」
さっと身を翻したヒカイの背に続き、ゆったりとその後を追う。私の一挙手一投足がこの場に居る者達にとって私の価値を見定めるものなのだ。侮られる訳にはいかない。
優雅に、けれども泰然とした振る舞いを心がげ、静かに滑るように歩みを進めていく。再び囁かれ始めた背後で飛び交う言葉の数々は、すべて黙殺した。
*
ヒカイが先導し向かった先は、陽国の国主たる今上陛下が住む清涼殿だった。メイベル王国の王宮と違う所は、華美になり過ぎて居ない所だろうか。例えばメイベル王国の王宮では、そこここに金の装飾が施され、回廊に並べられた調度品も国宝級のものばかり。それに比べれば清涼殿の内部は些か地味に過ぎると思われた。
ただし、住まう人々の装いが華やかで豪華絢爛である事から、侮る事など出来ない空気に包まれている。何というか、恐らくは資金を注ぎ込む場所や視点がそもそも違うのだろう。庭に目を向ければ、遣り水が引かれた池があり、小舟が浮かべられる程度の大きさに整えられている。太鼓橋が掛かるその池は遠目から見ても美しく清涼感に満ちている。
本来であれば国賓とも言うべき私を通すのは、紫宸殿等の公的行事を行う場所にするべきなのだろうけれど、恐らく陽国では今上陛下の言わば私的なお招きという建前が通っているのだろう。そうでなければ今上陛下とより近くで対面する事が叶う清涼殿の昼御座へ通す事など有り得ないだろうから。
それにしても、すれ違う官吏達の姿―――特にその明るい色をした髪や目など―――を見るとどうにも違和感が拭えない。私の髪は一度染粉で紫紺色に染めていたけれど、今は生来の黒髪に戻っている。この世界の人達にとっては私の纏う色の方が物珍しい色なのだろうけれど、資料集や写真を通して見てきた方達が黒や茶とは程遠い極色彩を宿しているのを見ると、どうしてもちぐはぐな印象を受けてしまう。
多分メイベル王国では、まだ馴染みの無い衣装だったからまだ良かったのだろう。違和感ではなく、ただただ驚きと共に現状を受け止めていられたから。
ああ、けれどちぐはぐなのは私も同じか。だって私はこの世界に生まれ落ちた存在ではなく、別の世界に生まれてこの世界へとやって来た、例えるならば渡来人のような存在なのだから。
そう思考を巡らせていた時、不意に「妃殿下」と声を掛けられて、はっと視線を前に戻した。
「先程は大変なご無礼を致しまして、申し訳ございません、妃殿下」
時折すれ違う殿上人達をあしらいながら先導するヒカイが、僅かに半身を捻って躊躇うように謝罪を口にした。咄嗟に背後へと視線を向ければ、後ろに控えているメイファンは特別それに声を上げる事無く静かに事の成り行きを静観している。視線をヒカイに戻せばその綺麗な灰色の目を曇らせて私を見つめていた。さて、どう返答するべきだろうかと慎重に口を開く。
「草薙近衛中将殿のせいではありますまい。どうぞお気遣い無く」
「いえ、公式にお招きしたにも関わらず、官民の態度は明らかにご不快でありましたでしょう」
「皆さま方にお触れなどを出してはおられぬのでしょう? 察するに僅かな殿上人のみにお伝えなされた事柄の筈。であれば、斯様な振る舞いも致し方無き事にございましょう」
別段、怒ってなどいないと暗に示しながら無難に返答した言葉に納得しなかったのはヒカイの方だった。
「それはご尤もなご意見かと存じます。然しながら私の心がそれを許す事が出来ぬのです。妃殿下並びに女官殿には遠路遥々我が陽国にお越し頂き、その上大変なご無礼を致しまして平にご容赦下さいますようお願い申し上げます」
往来に当たる板張りの簀子で立ち止まったまま、今にも土下座を始めるのではないかと危惧する程に哀れにも繰り返し謝罪を口にするヒカイの姿に思いがけず心が揺れ、「そのお言葉だけ受け取っておきましょう」と曖昧に濁したままヒカイを促して再び歩みを進めて貰う。
「我が国が侮られた訳ではない事など、私自身重々承知しております。草薙近衛中将殿、どうかあの場に居た者共にお咎めなど下されませぬよう、どうか今上陛下にお言葉添え下さいませ。」
「妃殿下…」
どうしてか言葉が詰まったように口を閉ざしてしまったヒカイを見、次いでメイファンに視線を向けた。
「メイファンも良いですね?」
「妃殿下のお言葉に否やはございません」
「そう。頼みましたよ、メイファン」
「畏まりました」
「草薙近衛中将殿も。それで宜しいですね?」
「妃殿下のお慈悲を賜り、恐悦至極に存じます。そのお言葉、確かにお聞き届け下さいますよう主上へご奏上致します」
「ええ、頼みましたよ、草薙近衛中将殿」
*
「誠に恐れ入りますが、暫しこちらでお待ち下さいませ」
そう言って奥の間へ向かうヒカイを見送り、私は入れ替わりにやって来た女官―――いや、陽国では女房と呼ぶのだっけ―――に挨拶を受けていた。一歩前に出た女房の背後には五人の女房達が控えている。恐らくは女房が彼女達を纏める長であり筆頭女房なのだろう。今は顔合わせの場であるからか、檜扇で顔を隠してはいない。
筆頭女房含めて、その後ろに並ぶ女房達は皆年若い女性ばかりだった。勿論、私もメイファンもまだ若い部類には入るのだろうけれど、それでも若いと呼べる程度には幼い容貌をしている女房も混じっていた。
女房達がその身に纏う衣装は五衣唐衣裳と呼ばれる十二単だった。煌びやかな重厚感のあるその衣装は余りにも華麗で思わず目を奪われた。ゆったりと動くその様もまたたおやかで美しい。
五衣と単を重ねて襟元から胸元に掛けて色目を表現している筆頭女房の十二単は、確か松重と呼ばれる襲色目ではなかったか。私の記憶が確かならば。
筆頭女房の艶やかな藍色の髪が柔らかくそよ風に揺れた。
「メイベル王国の妾妃殿下でいらっしゃいますね? 私は宮中で主上の尚侍を務めております、左大臣樋宮頼道が娘、兼子と申します。妃殿下の案内等、以後私が勤めさせて頂きます。何卒よろしくお願い申し上げます」
その丁寧な挨拶に、私も翳を口元に引き下ろしてゆるりと挨拶を返した。私の目と髪の色が物珍しかったのか、僅かに女房達が目を見張る。
今日はよく驚かれるものだわ。けれどそれが今は不愉快だとは感じられない。恐らくは樋宮の尚侍が私を見つめるその視線がただただ温かいものであったからだろうか。
背後に居るメイファンの気配が僅かに緩んだ。
「樋宮の尚侍様ですか。丁寧な挨拶、有難く存じます。私はメイベル王国国王、マルセル・ヴィ・メイベルが妾妃、ラピス・ヤラ・メイベル。私の後ろに居りますのが、我が国より世話役として共に参りました女官、メイファン・アイリス。以後、良しなに御取り計らい下さいますようお願い致します」
樋宮の尚侍が陽国流の礼を取る中、背後に控えていたメイファンが時を見計らって口を開いた。
「寵妃様の世話役として参りました、メイファン・アイリスと申します。樋宮の尚侍様、以後、お見知りおき下さいませ」
「アイリス様、とお呼びしても宜しゅうございますか?」
「はい、勿論です。樋宮の尚侍様」
「有難う存じます、アイリス様。それでは早速、案内をさせて頂きます。どうぞこちらへ」
樋宮の尚侍に引き続き、私は再び翳を差してその背を追った。
*
―――隣国の大国、メイベル王国から妾妃殿下が陽国へ招かれる事となった時、樋宮の尚侍は何をどうすれば良いものか思わず頭を抱えてしまったのは、まだ記憶に新しい。
主上の勅命を受けていても尚、その苦悩は続き、何とか妾妃殿下をお迎えする準備が整った時には思わずへたり込んでしまった程である。
左大臣家の娘として生まれた樋宮の尚侍は、元々高貴な女人を持て成した事など一度として無く、それとなく自身の乳母や女房達に持て成し方を聞き自らの内で煮詰めていたお陰で、妾妃殿下の姿を見ても表面上は何事もなく振る舞っていられるのだ。いや、もしかしたら私の取り繕った姿など、この妾妃殿下には見透かされているのかもしれないけれど。
「妃殿下」
時折背後で囁かれる妾妃殿下とアイリス様の声は御簾越しにこちらを注視している女房達の耳にも届いている筈だ。
僅かに半身を振り返れば、漆黒の髪を結い上げて美しいメイベル王国の伝統衣装をその身に纏った高貴な女人がそこここに視線を走らせていた。
陽国では見る事のない濡羽色は日に当たって艶やかに輝いている。決して派手ではない容貌だというのに、気品に溢れたその姿は主上と同種の風格が宿っているようにも思える。
彼の国では我が陽国と同じく女人の地位は然程高くは無い筈だけれど、それでも威厳というのか、或いは貫禄というものか、そういった強い雰囲気を感じさせた。
主上の対面を前に妾妃殿下を控えの間に通し、暫しの休息を取って貰うため、女房達に指示を出して菓子等を持って来させる。
「妾妃殿下、唐菓子など如何ですか?」
「まあ、有難う存じます」
懐紙を用いてにこやかに菓子を摘まむ妾妃殿下は何とも愛らしい。その姿を見つめながら、主上の先触れが来るまでゆるりとした時間を過ごした。




